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日曜日 木曽町開田の記事に追加
ヤギのいた駐車場から遠くに鳥居が見えたので土手を上り近づいてみる。
参道がないのです。
お社がなくて囲われた石碑があった。
「御嶽山大権現覚明?」覚明は江戸1985天明五年に大衆登攀のルートを開いた。天明三年浅間山の大噴火や天明二年から八年までの大飢饉で数万人もの人が飢死にし、人肉・・というような大変な時代の中で御嶽山登拝を決行したのだろうと思います。覚明さんは翌年二の池で入定しています。
この土手にリンドウを見つけた。アヤメとともに子供時代の記憶に残る花のbest3なのです。もうひとつは、何だろう。蓮華草かな
覚明行者の記事追加します(一部重複) 覚明行者は、江戸期1785天明五年に御嶽山頂への大衆登攀のルートを開いた。
百日の厳しい精進潔斎をしないとお山へ入ってはならぬという不許可を振り払い先達として信者を先導してのことである。 天明三年浅間山の大噴火や天明二年から八年までの大飢饉で数万人もの人が飢死にし、人肉を・・というような大変な時代の中で、大衆への御嶽山登拝の道を拓く決意があったのだろうと思います。富士講、二十三夜講や庚申講、あるいは幕末に狂乱的な様相を帯びたという伊勢講などに江戸時代後期(80年間)の庶民の生き方がみえてきます。 春日井生まれの覚明行者が中京方面の信者へお山を開いた数年後には、秩父や江戸を本拠地とする普覚行者が別ルートで信者とともに登攀しています。 覚明行者は翌年再登攀中に病を発し、二の池で入定。当時の登攀は高山でルートをつくりながらですから大変だったことでしょう。数え59才でした。 彼らは覚明霊神、普覚霊神として多神教である御嶽信の末席に連なっています。
また御嶽山の特筆すべきことは、女人禁制でないめずらしいお山だということと、各地に教会(講社)があり、それぞれが独立して活動している神社本庁に絡みとられていないこと。 本当に庶民に根ざしたものだったんだと思います。 昭和四五十年代の夏の新宿駅中央本線ホームでは先達(先生とも)に率いられた御嶽教の白装束の団体を多くみかけましたが、最近では木曽福島駅でも見かけない。地元商人たちの講も高齢化だそうです。 |
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2015年10月20日
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雑草を抜き、菊芋(トピナンブール、ジラソーレ)を掘り、薪割りをしていたら、
カマキリが・・ではなかった。ナナフシです。
板の上を歩いて、止まり、微妙に(屈伸運動のような)上下動を3、4回する。歩行も時々低い姿勢をとって前進したりと、なかなか面白い。 写真をUPしたら目がある。当たり前。しかし長い足だなあ 記念撮影をして崖の雑草に帰ってもらいました。
キクイモは、さっそく調理してもらい、食卓にあがりました。
二日前の日曜日のこと
今年最後の茸 カヤシメジとクリタケ
開田の友人が家の者を誘ってくれ、採ってきた。 カヤシメジは吸い物で、クリタケは茸ご飯。 この友人のおかげで、今年は松茸やボウズもご馳走になった。 彼と茸を採ってきた彼と調理してくれた彼女に感謝。 おいしくいただきました。 |

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