Sculptor Gon Shinji WORLD

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上伊那郡辰野町小野と塩尻市北小野(旧郡でいうと東筑摩郡)伊那谷と松本平にわかれますが、川筋でいうと北小野も天竜川筋になる。(松本平は信濃川水系です)住民数は両地区あわせて五千人ほどです。
秀吉の「村切り」により否応なく行政区分がことなりますが、小学校と中学は両自治体の共同運営で、グーグル地図にも両小学校などとかかれています。
行きの電車からみごとな鎮守の杜がみえたので、案内してくれたAさんにお願いして連れて行ったもらいました。
一つの杜に弥彦神社と小野神社が横並びでありました。
まずここで精進して
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杜に分け入る時間はないのでこれを読み次回に備える 
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まず御柱が目に入る
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(御柱があるのにこの石の柱は何なんでしょうか?)

ここの御柱祭は諏訪大社と一年ずらしてあるようです。再来年ということでしょう。
以前ナギガマを検索した際に、小野神社の御柱祭は諏訪大社の人ごみとちがい良く見れて良かったというブログをみたことがあります。諏訪大社の祭は来年12日間にわたって執り行われるが人出がすごく見るのも大変そうだ。学生の頃中央線急行から木落としの場面を見たことがある。松沢宥さんに木遣りをひろうしてもらったこともある。が、本番はみてない。機会を逃し続けている。

弥彦神社は諏訪大社と同じく樅の木なのだが、隣の小野神社の御柱は松の木だった。
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赤松が皮付きのままなのはなぜかと思ったが、剥いてしまうとすべりやすく御柱から落ち易く儀式にならないからだろうと気づいた

弥彦神社の拝殿の造りが雄壮でなかなか良いできばえだ
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諏訪立川流の大工の仕事だろうということです

社務所にうまい具合に木洩れ陽があたっていた
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なかなかの腕前
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弥彦神社の拝殿と本殿のあいだに勅使門なるものがあった。これ一般的なんでしょうか、私は初めて、
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隣の小野神社拝殿
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境内に戦勝記念碑なるものがあった
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日露戦争のです
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戦利兵器奉納ノ記・・・・陸軍大将寺内正毅(日露戦争時の陸軍大将)
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おそらくこれは台座です。(太平洋戦争時にお寺の梵鐘など金属は強制的に集められて武器弾薬に変えられた。)

日露戦争は重税がかけられ、また203高地の激戦などで知られたように、多数の犠牲者もでた。一方的な勝利は望めずに賠償金は望めず、講和条約で領土獲得をしたものの三国干渉と言う国際的な裁定(圧力)で返還させられ、(マスコミ操作により)大勝したつもりの国民の不満が、朝鮮半島の植民地化、中国満州への権益獲得、対ロシア戦線ノモンハン(の敗北)そして中国本土への進出、東南アジアへの戦争拡大と領土拡張、覇権への道のりとなった。私らの血筋が行った行為の記念すべき初期記念碑かと思います。 
日清戦争の記念碑はあるのでしょうか?

御柱祭は雄壮ですごいあとは思うのですが。木落しの時の進軍突撃ラッパには違和感がありますが、、

松本の展示を見てお誘いをしてもらい、信州上伊那郡辰野町へ行ってきました。中央西線、中津川―松本間の鈍行に乗り、塩尻で中央東線に乗り換える。
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この列車はワンマンカで、運転手に料金を払って下車します。

塩尻駅では、JR東海からJR東日本に変わる為か乗り継ぎに一時間以上のロスタイム。しかし私は鈍行列車を乗り継ぐのを楽しんでいるので一時間などヘノカッパ。
日曜の辰野線(地元ではそう呼ぶみたい)乗客5名ほどでした。
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中央本線が明治三十九年(1906)に開通。当時の鉄道局長が伊那谷出身の者で「辰野まわり」と付け加えた裏技で伊那谷の入口へ迂回するルートになったそうだ。
当時辰野駅の、飯田線と中央本線の駅が離れていて、町は乗り換え客や貨物の積み替えなどでにぎわっていたそうです。
しかし、昭和五十八年(1983)に岡谷塩尻間が塩嶺トンネル開削で直に結ばれ、かってメインのこの線はローカル線に格下げされ、辰野の賑わいも下火となり、今は静かな町になっていました。

開通時に開業した旅館が残っています。中をみせてもらった。
手入れのいきとどいた木造家屋清潔な気持のよい空間です。
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宴会場もある
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諏訪大社の御柱のお札がかけられていました。
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諏訪湖から流れる天竜川をこした展望台へもつれていってもらいます。
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正面の山はときいたところ、頂上は狼煙台だった場所で、左裾に山城があったとのこと。
信玄が小笠原氏とこのあたりで戦い勝利し南下、長篠で信長に敗戦し上洛の夢が破れた。
この川は諏訪湖から流れ出す天竜川です。

午後は塩尻に向かう伊那街道を北上し小野地区を探訪しました。
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大きな古民家が何軒もあります
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無住になってしまっているお宅もある
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みせていただけたお宅にこんなものがあった
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新宿御苑に江戸屋敷があった内藤駿河守  裏には寛延元年とかかれていた。(1748年)
これがかけられていたの鶴の間の釘隠しです
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隣の家は小野光賢・光景記念館でしたが私設で余り開いていないようだった。光景は明治期に絹貿易で財を成し横浜商業の前進校の創立し、横浜商業会議所会頭、貴族院議員だったという。
旧道には筑摩書房の創立者古田晁記念館もある。
小野地区は秀吉の領土紛争裁定で小さな川を挟んで松本藩の北小野地区と南の小野(当時は高遠藩?)に分けられてしまった。(江戸期は直轄領で代官支配地。その為、塩尻洗馬地区や朝日村は高遠藩の飛び地となる)
同じ杜に鎮座する弥彦神社と小野神社へ向かう。
 
<つづく>


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