Sculptor Gon Shinji WORLD

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「グランドツアー」というものを知ったのは
ナイジェリア系イギリス人アーティスト、インカ・ショニバレの作品から
2005年バーゼル アートフェア関連のサイトをあちこち飛び回っていた時にしりました。
イギリスの支配階級、貴族の子弟たちが教育の最後の仕上げに体験するイタリア長期滞在のこと
インカは頭部を作らずにアフリカの布で作られた派手綺麗な人体像をつくり
女性像に後ろからのしかかるようにもう一体
グランドツアーを皮肉る
http://www.youtube.com/watch?v=cv38gcP_rwY&feature=player_embedded#!
この中の1分11秒のあたりで私が最初に見た作品が一瞬流れる。
2006年のバーセルで見たのは以外に小さいもので(売り物だからかな?)ちょっと外されたような気に..
この「グランドツアー」は子弟たちのみならず、例えば ゲーテの『イタリア紀行』のようにこぞってイタリアへ。 
私もまだ半分程しか読んでないので、あとは皆様に預けて、、


本題は
『第一章 人』「女流画家と女流作家」をよみすすんだら『ウフィツィ展』で見たばかりの<自画像>が挿絵としてのせてあるではないか。ロザルバ カッリエーラ1675-1757ベネツィアの肖像画家
このころからイタリアでは女性が第一線で活躍出来たんだという。 

ついでに
下の画像は、アンナ モランディ マンゾリーニ1714-74の蝋製の自刻像。
彼女は解剖学の女医でボローニャ大学で講義を受け持ったり自宅のサロンで解剖学を講じたりと、、

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プリモレーヴィ『休戦』竹山博英訳 岩波文庫(赤717-1)/2010.9.16 第1刷

アウシュヴィッツを生き残った作者が故郷のトリノに生還するまでの9ヶ月の旅の記録
『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日選書1980)に続く第2作目
一作目で1944年2月から45年1月のアウシュヴィッツ抹殺収容所での記録を世に示した。

..『アウシュヴィッツは終わらない』がレーヴィにとっての『神曲』の「地獄編」に相当するのだとしたら、本書は「煉獄編」に相当するのかもしれない... と訳者の解説にある。


ドイツ軍が撤退し病棟の病人はそのまま見捨てられ、10日後にロシア軍に救出される。
「八百人の囚人が残された。その中で、ロシア軍が来る前に約五百人が病気と飢えと寒さで死んだ。そして二百人が、治療を受けたにもかかわらず、到着の直後に死んだ。」(『休戦』の冒頭)
彼と共にアウシュヴィッツに運ばれた650人のイタリア系ユダヤ人の中で3人しか生き残れなかったという。

解放後に、即座に帰郷できたわけでなかった。ポーランドからウクライナを経て、ベラルーシまで移送され、長い待機の時期をすごしてようやく帰郷できるまでの記録である。(訳者竹山さんの解説)

プリモレービは、恨みつらみを一切かきつらねていない。この人に初めてであった時、それにはとてもびっくりした。科学者の透徹した目で人間というものを見ている。『これが人間ならば』(Se questo è un uomo 1947)(If this is a man)の邦訳が『アウシュヴィッツは終わらない』 である。

レーヴィは化学技師の仕事をしながら、四十二年間、作家活動をしたが、1987年に自死を遂げた。

徐 京植 著『ディアスポラ紀行―追放されたもののまなざし』岩波新書の中で、レーヴィが世を去ったトリノのアパートを訪れている。
いつだったかNHKで、徐さんがトリノのその場所を訪れる映像を流していたと思う。

手に入り易くなったので是非お読み下さい。

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今日は三井記念美術館『奈良の古寺と仏像展』の売店で購入した新書を読んだ
薮内氏は東京芸大の文化財保存修復彫刻研究室の教授で、平城遷都1300年祭キャラの『せんとくん』の作者
「せんとくん」は、きもいなどと不評だったが最近では記念撮影に引っ張りだこだとニュースで流れていたがどうなんでしょうか。

副題が「奈良の仏像と日本のこころ」時代順にならぶ各章の内容は、理にかなったセレクト。

1[北魏様式][六朝様式]/飛鳥寺の釈迦座像(606). 法隆寺金堂釈迦三尊(623). 百済観音 
2金銅仏/東大寺の大仏
3漆の仏像/聖林寺十一面観音. 興福寺の阿修羅. 三月堂の不空羂索観音. 鑑真和上. 秋篠寺の伎芸天
4木彫仏/唐招提寺の木彫群. 法華寺十一面. 宇治平等院の阿弥陀. 岩船寺の阿弥陀. 浄瑠璃寺の九体阿弥陀. 円成寺大日如来
5南都復興 慶派/興福寺南円堂本尊. 法相六祖. 東大寺南大門の仁王. 北円堂の弥勒.無着.世親.
6お玉地蔵

それぞれの造仏技法は絵入りで解り易く説明があり、仏像の種類(如来.菩薩.明王.天/弥勒.薬師.阿弥陀)や、教典なども所々で解説。阿修羅はもとはゾロアスター教の最高神のアフラマズダで火の神ミトラがサンスクリット語でマイトレーヤでそれが弥勒になった等々。
宇治平等院阿弥陀仏の定朝が完成させた寄せ木法は現在の仏像造りまで続いていて1000年のスタンダードだ等の話も有ります。 

仏像は時代の流れと共に理解しなければ解りにくい。
また名品を見ることで美の基準ができる。
その意味でこの本は最適に思えます。
それらの仏像を未だ見たことのない方は、傍らに仏像写真を用意するか、ネット検索でひとつづつ確かめながらどうぞ。時間がかかっても日本の至宝ですから是非お近づきに、海外からわざわざ出掛けてこられる方もおおいのです。


さて薮内さんが好きなのは大仏さんと聖林寺十一面観音だというのは、私と大分違うが、法隆寺の唐からの九面観音を掛値なしの名作と、また運慶の興福寺北円堂弥勒仏をもっとも完成されたと評価するのは大いに納得出来る。


春日山から柳生街道をいくと円成寺。そこに運慶がある。
二十代半ばの運慶作「大日如来座像」とヴァチカンにある若きミケランジェロ作の聖母像。両者ともに華やいだ若さの力が具現した他に並ぶものなき名作。今は塔に入っているが以前はすぐ眼の前で拝観出来た。その大日如来の衣は別材で造り着せたものだと。忘れていただけの様な気もするが記憶に、、

東大寺南大門の金剛力士阿吽の像。阿形像が快慶で、吽形像が運慶が担当と唱えられてきたのに
解体修理の際、持物の金剛杵内部の墨書きで、阿のほうは「大仏師法眼運慶、安阿弥陀仏(快慶のこと)ほか13名の小仏師」吽は「大仏師定覚、湛慶ほか10名の小仏師」だそう。
彩色まで含めて彫刻を69日でやってしまった。像高8.4m。
吽形像は臍の位置を20cmほど下に、また顔、瞼を下向きに修正したりしているとのこと。


運慶は今でも関東で新発見があり得る。この大天才は、ミケランジェロより300年近く前の人。もっと系統だった見え方がほしい。
昨年でしたか、サザビーのオークションにかけられた運慶の大日如来は目出たくも三越の画廊を経由して真如苑のものになり海外流出にならずにすんだが、大日堂でも作って公開してほしい。前回見れる機会をにがしてしまったので、お願い!

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              1992 夏アルプスwaミュージアムー大町野外美術展 
               作品 title ” ひと夜たけ ” 中山高原(大町スキー場)
          

             宮沢賢治「四又の百合」より [ 岩崎書店 新版宮沢賢治童話全集3]

                . . . . . .
                「この風はもう九月の風だな」
            「さようでございます。これはすきとおったするどい秋の粉でございます。
                数知れぬ玻璃(ガラス)の微塵のようでございます。」
              . . . . . .

  久しぶりの宮沢賢治だ。
  身体の奥深くにバオブレーションをおくりこまれて、あの凛とした気配にとりかこまれる
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ーーーーー 
 カーンと澄んだ空気のただよっていた子供の頃の遠い世界を思いだし、記しておこうと思う。
 来年以降、この町で木の彫刻に関するイベントを考えているので、さまざまなきっかけのためにも記憶の掘り起こしをしておきたいとも思い記しました。

 ここからは記憶の断片をただつなげるばかりなので、おつきあいいただくのも大変です。適当に飛ばしてお読みください。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――ーーーーー

 私は長野県北安曇郡大町の町中で育ちました。
 中学までは地元。母親の南安曇の実家へ泊まりにいくほかはここにすべての世界があった。
 TVはまだ始まってないし、ラジオはNHKしか入らない、あとは北からの短波のみ。新聞は信濃毎日か朝日。
 祖父から、昔の大町のたたずまいや、繭の商いに北海道松前から朝鮮半島まであるいたというような話しが知識をふやした。
 小学校へあがるかどうかのころ父の職場で新潟能海岸へ海水浴へいった。そのときが海をみた最初で波の高さにビックリした記憶が残っている。次に海を見たのは小6の伊勢名古屋知多半島への修学旅行で、その次が中3の奈良京都修学旅行での車中から。何と次は上京してからになる。書いている本人がビックリ、、、フェリーでの移動が好きなのはこのせいだったか。


 当時の小学校の授業で、大町は宿場町だと習ったが、いまの町の状況を見ると??
 しかし戦前から3階建ての宿が2軒あったし他にも旅館が何軒もあったのだから街道の宿場として機能していたのだろう。
 車社会でなかったこの頃は、用事を済ますのに一日がかりで、泊まりもあたりまえだったのだろう。
 人が足で歩いて町が生きていた時代。高度成長の始まる直前で、溜めらたエネルギーが満ちていた。空地があれば野菜を作り、あちこちで鶏や兎を飼い、ゴミひとつおちていない町には老若男、犬や馬や、、活気があふれていた。
 賢治の詩から目覚めさえられた、カーンと澄んだ空気も。

 昭和29年に隣村3カ村と合併し3万人となり、大町に市制がひかれた。
 この前後に大糸南北線が県境でつながり、一番列車の発車をお祝いに小学校で旗ふりにいったことを記憶するが市制施行の行事に関してはなにも記憶していない。ただ、年賀状の宛名から北安曇郡が消えたのがいつも残念に思っていた。

 

 我家は3反歩(900坪)の稲作をしていた。自家消費の余剰を販売するくらいの規模だ。
 父親はこのあたりでは珍しいサラリーマンで松本まで通っていた。日曜の留守(土曜の宴会とか月曜の出張、日曜の野球大会、、)も珍しいことではなかったし、また豊科で所長になった時には単身赴任で宿舎すまい、田仕事はほとんどが、祖父と母親の役割だった。


 稲作は田植えや稲刈りに集中的に人手か要る。
 いつもの手伝ってくれるおばさん(ほんとうはいくつだったか小学生低学年の私にはわからなかった)が何人かを集めてくれていた。馬をつれて 代かき にきてくれた本業の豆腐屋さんへは祖父と頼みにいっていた。北原のこの人の都合つかない時にはタノシリの馬喰さんがやってきた。
 シロカキとは、田植え前にうなってから(土地を耕す)、水を入れた田を水平にならす作業のことで、かれらは代かき専用の左右に長い木製具を馬に引かせてぐるぐると田をまわり、そのうしろを、祖父がシロカキ棒で細かにならして水面を基準に水平をつくっていった。もちろんまねごとで私もやったが祖父にはちょっと迷惑だったはもしれない。

 小学校のころの家の中の記憶でまず浮かぶのは、窓ガラス越しの雨だれが落ちる景色だ。雨天でなければいつでも戸外にいたからか。
 春の初め。田オコシ(耕作)前のレンゲの群れの中に横になり、周りの人たちが消えて、遠くの山といつでも変化する空と、咲きほこるレンゲ草の、花の宇宙。至福の記憶。あっ雲雀も高い空に。
 
 大町の東西には山が連なる。西は北アルプスで後立山連峰の、雪を冠る蓮華岳と鹿島槍が正面にあり爺ガ岳と続き遠くに白馬三山が見える。東山と呼んでいた低山の正面には、二つの丸い峰をもったケツ山その南に鷹狩り山と、峰が水平に伸びるマナ板山がある。これらの山を越えた向こう側は比較的になだらかで畑があったりしたが、町ずまいの私にはその世界がリアルには思えなかったが、、。

 はやい春から晩秋にかけての田仕事の記憶がかけめぐる。
 本職に負けまいと必死になった田植え、ぬるぬるした土の感触。
 苗床から一つかみ二つかみと束に抜き取り、湿したわらで一まり二まわりとくくり、ぐるぐるひねって差し込んで、一束のできあがり。腰の着けたビク(篭)に何束か入れてさあ田植えだ。おばさんたちに張り合って左右何列も受け持って植えて行く。土手にはスミレやスイコ(スカンポ)やアザミが咲いていた。

 稲を刈る鎌の音。
 腰に差した稲藁で束ね、重たくなった穂の重さを遠心力に重ねて行く。ハザカケの馬を組み、稲束をできるだけ抱えてそこまで運ぶ。各束をそれぞれ七三に分け、うまにかける大人に手渡しする。
 稲こき(脱穀)をまわす音。足踏みでまわしながら稲穂を差し込む。左右に九十度まわしながらリズミカルに。籾がはなれ軽くなった稲束を後にほおる。つぎつぎと放られた束が山になる。束を抜き取りながら洞穴を作りもぐりこむ。体中が藁でかゆかったあの皮膚の感じを思いだす。

 ある晩秋の夕刻、暗闇の中、遠くで赤々と燃える火事が、日常から遠い世界の出来事をつげていた。
 昼ご飯やオコヒル(お茶休み)の柔らかな時間帯の記憶も鮮明だ。

 田に水が張られ大慌てで泳ぐおけらも懐かしい記憶だ。
 おばさんの犬が、田の畦のモグラ穴を出口入口と探索し、つかまえては喝采をあびていた。
 水の取り入れ口はアルプスからの冷たい水を少しでもあたためるためだろうか、小さな池と苗床まで距離をとる水路がもうけられ、そこに菖蒲が植えられていた。旧暦の節句の季節には家に持ち帰った。
 田植えは五月の頭だったろうか。連休中に満開となる木崎湖辺りよりは少しはやいころかも知れないが、小学生時代の記憶なので日付けまではわからないが。

 田植えのあとの作業は水の管理と田の草取りだ。水路の取り込み口、川から水を導入する為の板を抜いたりさしこんだりした記憶、 田の草取りの手押し車をころがす足取りの記憶、、、
水を落とし乾かした田にはえてくる雑草たち、今だとnet検索ですぐに名などは分かるだろうが、図鑑もろくになかったころだから全く名などはわからなかった。

 秋になると、漬け物用の大根や野沢菜の取り入れが、まるでハレの作業の日のようだった。畑からイナゴが飛ぶ。手拭を縫った袋に詰めて持ち帰る。赤とんぼが空高くとんでいた。南の空から台風が近づき、濃グレーの雲の動き。 

 切り株となった田の晩秋、長いも掘りで、背が潜る程のところには川砂利の地層にぶつかるった。高瀬川まで30分も離れているこんなところに、流れがあったと知る。
 鹿島川の猫の鼻が決壊すると、大町は洪水に襲われると祖父が言っていた事の実際を知った。  

 つぎつぎと思いだす、、、。


 時間さえあればいつでも山か川へでかけた。
 時々思い出すのが、東山の山裾の一画に、沢が落ち、窪みを作っている場所が有った。
 岩にたっぷりと豊かにはえた苔。午後の日差しがスポットライトの様にその場所を照らし出す。
 誰もいない時間空間。
 このお気に入りの場所へは、いつものメンバー抜きの一人きりでも出掛けた。

 あとは、、
 高瀬川の黒四ダム建設用の砂利取り場、その近く用水の取り入れ口でみた無数の赤とんぼの飛翔。
 農具川での魚取りの失敗。  タニシ。  木崎湖での釣りの想い出。  シジミをいっぱいとったこと。  河原の薮が突然ひらけてそこにけしの群生が。  小学生の義務だったストーブ用たき付けの、薪木作りのための杉の葉と枯れ枝集め。  御飯を炊く竃(かまど)用の薪割り。 
 竈(かまど)神社という社がちかくにあった。コウジンとよんでいたが荒神のことだったんだろう。そこには常設の土俵が設けられていて、大相撲の地方巡業も時々訪ずれた。竹刀で叩いて塩を顔にこすりこんだり、しごきが怖かった。
 川を挟んだ北側は中学校の校庭だった。鎮守の森の広葉樹の春の萌芽の時と秋の紅葉が、写生の季節であった。どうやってあの色をだしたら良いか四苦八苦しっぱなしの記憶。苦労して色を混ぜれば混ぜる程濁っていく。あの安っぽい学校用水彩絵の具。まだ当時の色を覚えていて、、トラウマにはなって
いないが、なんとかしようともがいているようだ。

 街中に住んでいた。なのに、いえの前の川の水を飲んでいた子も居た。其処でおしっこをしたりもして...。(今にして思えばミ二ガンジスではないか。)私は飲んだことはありませんよ。

 家の目の前は炭屋の倉庫で、馬ソリとかオート三輪自動車が出入りしていた。
 冬場に厚い氷を作ってそれをノコで切りそのブロックを滑らせ氷室に入れている様子も飽きずにながめた。.....

 キリがない...



 私のこの思考回路を宮沢賢治が刺激したのだ。

 HermannHesseを久しぶりによみだした。
 彼の雲の描写が凄い。欧州アルプスの山中で人生を始めた人なので、自然に対す理解、表現の言語に圧倒される。 PeterCamenzind 郷愁、読んだのはまだ数頁なれど私の知っている自然とは激しさが違うと思う。
 山の上のその先に住んでいた人ならばHesseの世界にもっと近かったのかもしれないが..。
  

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