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一寸の浅丸ノミ

長い間 奥の方につんであった細かな材を、少しづつ始末をしている。
中にはもう何十年もたったものもある。
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深い割れの入ったものはストーブの燃料とするが、他はどうも思いきった始末ができない。その当時にわざわざ残しておいたことのひっかかりが、今でも頭の隅で覚えているらしく、なんとなく愛着が出てきて・・

 どんどん作品にしようとしてはいるのだが、ひとつづつ種類や形が異なり、いちいちに対応せねばならないので時間を短縮することができない。やっつけ品をつくる気もないし・・気を緩めずにいきます。

 小さいサイズのものと、しばらく付き合う。
 いつも使っているノミと違うもので対応する。

 一寸(30mm)の浅丸二本、小信銘
 微妙に深さが違って一本は極浅と呼ぶ方がいいかもしれない。

 いつもは一寸二分や寸五の普通丸を使うことが多い。攻める感じが好きだからだ。
 浅丸は、もっと抑えた攻めという感じ。守り(受け)の姿勢では形が作れない。気をつけないと。


 三四日前までは桧を使っていたから角度をねせて(刃を薄めに)研いでいた。桧は切れ味を要求するからです。

 しかし昨日今日は洋材の木片と欅を使い出したら、矢張り刃毀れが。
 

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 刃先が欠けているのが見えますね。南洋材は樹脂を含んでいますので薄い刃だと欠けやすいのです。

 刃毀れのところまで研ぐついでに、刃先の角度をもう少しだけ角度を強く変えます。
 その結果は以下のように・
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ネットに晒すには恥ずかしい状態ですが、刃先は研げているのでこれ以上始末はしません。(できるだけ研ぎ減らす量は少なくしたいのです)
 もう2、3回刃毀れをした時に少しずつ成形していきます。

 
 ついでに裏の状態を。刃先に表の研ぎでかえった(といいますが、研がれた刃先が極薄くなり、ぴらぴらとくっついている状態です)部分が写っています。
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 裏研ぎ用の仕上げ砥石で研ぐと、この黒い線のところが取れて、その後 表を仕上げ砥で研ぎ上がりです。
 


 

会津砥のコッパ


身動きが取れなくなった仕事場の整理をはじめました。
数ヶ月の間になんとかしましょう。
さて会津砥のコッパについてなんどかアップしましたが、こんなにたくさんあったとは・・

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とても使い切れる量ではありません。
この中から良さそうなモノを探そう。

昨年信州へ持っていった石は、刃物をあててみたらつるつる滑り中砥の役目をはたしませんでした。
砥石山で切り落とし捨てられたものをかまわず持ち帰ったのですから使えない石があるのはあたりまえのことでしたね。

で、いちいち試してみないと分からないかもしれないが、平らな面をだすだけでたいへんです。
冬で冷たいし、、

籠に入れながら、これは!柔らかそうな肌合いだ。
少し平らな部分を作って、研いでみた。

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左側が凹んでいるのが見えますか。ここが八本のノミを研いだ跡です。
とても早く研げます。一発で目利きができて大満足です。

他の石よりも粒子が細かそうです。ピンクがかった筋が入っていますがその左右の違いを確かめてみようと思っています。
その前にフラット面をつくり、木の台を作らねばなりませんが。

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前回紹介した上部に写っている台付きのものよりも今回のモノの方が良好でした。
中砥だからといっても天然の層だから差があって当たり前でしょうか。
暖かくなったら何個か試してみます。

ただ捨て石なので形がこんなですから、カッターで成形もせねばならない。あまり時間をとられたくはありませ。
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会津砥のこと

昨日の記事「大工道具の歴史第7章トイシ」に会津の砥石山から石を持ち帰ったことを記しました。
今日そのトイシを使ったので画像アップします。

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成形されたものも購入し持ち帰ったのですが、信州の出先においてあり、東京ではこの山から拾ったものを使っています。
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廃山で今後入手できぬので、目一杯使おうと、変形のまま使います。

今日はガタツキを直します。
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穴は排水用 9cm幅のありあわせを用いた。
多少のガタツキは気にせず使って来ていましたが、
直した理由があります。

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丸ノミを研ぐと石に当たる部分が狭く、どうしても中心部の減りが早くて窪みができてしまいます。

ふつう金剛砥や大村砥で平滑にしますが、もったいないので周辺の高い場所も使おうと思い、台を直すことにしました。
これで宙に浮いた部分も安定。

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今日使ったノミは、一寸の極浅、小信です。
トイシ幅が12cmあるので四方使えてご機嫌です。

裏トギ用も、会津砥のコッパからつくったものを使いました。
(仕上げは、表裏ともに正本山合わせ砥を使いました。)
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 以前検索していたら下の記事に出会いコメントもしました。田島砥と書かれた他のブログも見かけましたが、この記事の会津砥という名称を使わせてもらいました。


丸ノミの裏を研ぐ & 唐招提寺諸仏

寒さが続きます。昼間も寒いので仕事場で木っ端を燃やしながらノミを使っています。
木曽桧(尾張藩の代官管理の山だったので尾州桧ともいいますが)の八寸ほどの小片も同時に彫っている。

鑿の痕でそのままフォルムを決定させるので左手でのセーブが最重要。
久しぶりの作業。肉離れぎみなのが堪える。
土木作業で重量オーバーなものを動かし過ぎたようだ。実は先日のこと、歯の土台を痛め、若い頃と違うので無理しないようにと、大切に思っている歯医者さんから諭されたところだ。年相応のペースにせねばと。(本来は三年寝たろうのようなグータラなんですが)

昨日よりも今日の方が肉離れ状態も改善しているので騙し騙し筋力を回復できそうだ。

さて本題は桧
ン十年前、木彫の習い始めの課題が、桧材に線彫りや幾何学模様、レリーフを彫り込む修練でした。
師匠いわく。桧には彫った行為のすべてが表れる。同じ面を修正して二度三度彫ったことなどはすぐにわかる。だから線の始めから終わりまで一刀で彫れ、と。
刃物が切れないと桧は彫れない。だから研ぎを覚える為にも桧を使うんだと。

この指導のお蔭で研ぎは1年半ほどで天狗になれた。
長年のチェンソー作業の為にしびれた指でも暗くなり見えにくい時間帯でもなんとか研げるのはこのスタートのおかげです。

久しぶりの桧の香りがこんなことを思い出させてくれる。

鑿を変えたら彫り跡にかすかに傷のスプールがつく。
冷たいけれど研ぐ。(お湯でもいいんですがその用意も時間がかかるから)

これで良いはずだと、彫る。まだ傷跡が、、
再度、、まだ、、

雨で暗い
原因は
そうかこれだ。

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 刃裏に斑点が見えますね。極浅い錆です。
 私の仕事場は土間ですし作業する場所も半外で、湿気をシャット出来ません。
 年によっては年に二度ほど浅い錆びを研ぎ去らねばならぬほどです。
 この鑿はチョットした管理ミスでこの斑点をつけてしまいました。

 錆のほとんどは、ごくごく浅いのですが[ごくごく]から[く]の字をとったもう少し深いものに今回行き当たったので、表を少し研いだ程度では刃毀れはとれなかったのでした。

 そこで、カンナなら裏出しをし裏押しをするのですが、丸ノミなので裏研ぎの回数を重ねるか、表を傷の無いところまで研ぎ減らすしかありません(もったいないのでなるたけ避けます)

 上の画像の裏研ぎ用の砥石は会津の中砥からつくったもの。 


 このあとは表を中砥で縦に研ぎ、
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 今度は仕上げ砥で裏のカエリをとり

 表を内曇りで仕上げます
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 画像は親指と人差し指でハサミ、横向きにまわしながら研いでいますが
 実際には縦に研ぎました。





図書館から借りた本で大忙しです
「岩波講座ー日本歴史 第3巻古代3」
 p213〜250『天平文化論』吉川真司 

 私が好きな仏像は天平の時代と平安初期のものが多い。
 トップは東大寺の三月堂諸仏、その中でも不空羂索観音像。次はいろいろあるのですが戒壇院四天王像や試みの大仏とか、琵琶湖東岸渡岸寺の十一面観音像や神護寺の薬師如来像、新薬師の本尊や、柳生の運慶などなど。ずいぶん拝観出来ていないが唐招提寺金堂の三尊像と宝蔵の仏にもほれています。

 7c初頭の推古朝から奈良朝の大仏開眼(752)の頃までの仏像は出来うる限り見て来たし、平安初期、空海の東寺諸仏、弘仁貞観仏もかなり見ている。唐招提寺も十数回訪れているがここと大安寺の仏像の位置づけができていなかったので、私の中では天平から平安初期への流れが空白地帯であった。
 2000年に金堂の解体修理が行われた結果も見逃していた。長らく古代仏像史から遠ざかっていたので(金銅仏は追いかけていましたが)、図書館でこの項目を見つけ飛びついたのです。


 少しだけメモ残します。
 「おわりに」から、
 一)天平文化は両王朝の保護の下、仏教を基軸とした人的物的の交流が比較的濃密に行われ、学問、思想、技術、生活様式が直接経験として獲得され、その後の文化の源流・規範となった。
 四)天平文化が継続的に発展して生まれたのが弘仁文化であり両者の連続性を重視すべきである。
 三)天竺への目が開かれ中国・中国文化を相対化する視座がもたらされ、平安以降の世界認識に・・

 鑑真が753に六度目の渡海に成功した時の人びとが、僧14人尼3人、そして在俗の弟子、唐人・胡人・崑崙人・瞻波人など総勢25人の異国人集団であった。
 
 その胡人安如宝は今のウズベキタン付近の安国(ブハラ)出自のゾクド人。(唐を衰弱させた安禄山もこの混血) 如宝は20才ころの来朝で東大寺の授戒を受け正式な僧となり、鑑真が入定したあと招提寺2世(4世の説も)となり、伽藍を建て造仏を行った。
 金堂の巨大な脇侍、薬師・千手の木芯乾漆像は彼の製作である
 また宝蔵の木彫群像(旧講堂木彫群)
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これらは鑑真と一緒に渡海したものかその後に同行者が製作したものでしょうが、この量感のある造像様式や翻波様式の衣処理法は平安初期に主流となっていく一木造木彫仏の端緒であった。(神護寺の薬師如来の圧倒的な量感を思い起こします。)
 金堂の本尊が旧の脱乾漆像であるのに対して如宝の脇侍2体は木心乾漆像でこれらの(宝蔵)木彫像の影響により生み出されたという考え方は妥当だろう、とも。


 私の追加)空海の関わる京都東寺講堂の造像は、この一木つくりの仏像の流れと異なる。
 唐招提寺金堂本尊(静脱活乾漆の盧遮那仏)も東寺諸仏も官営の東大寺造仏所が中心になっていたのだろうと思います。
 東寺諸仏は天平彫刻の華やかさを継ぎながら立体曼荼羅をつくっていると思います。

 


参考)先日記事にかいたアーカイブのお世話になる。
斉藤 関西学院文学部 唐招提寺と如宝 : その美術史的意義(源豊宗教授退任記念号)20101025http://kgur.kwansei.ac.jp/dspace/bitstream/10236/5848/1/164-06.pdf

 刃物や研ぎのブログ記事に、京都府亀岡で砥石を採取している「砥取屋」さんのことを良く見かけますが、以下の月刊誌にも掲載されていました。
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 農山漁村文化協会出版の『現代農業』はなかなかユニークな面白い雑誌です。全国各地の生産者たちの長年の知恵が詰まっているお宝記事があちこちに見受けられる。

 12月号文頭のカラー頁に続き「漬け物お国巡り340ー和歌山ダイコンの柿の酢漬け」「ワンダーランド18ーネコブセンチュー」「ドブロク宣言第54回

そして「農の仕事は刃が命 ⑨最終回」とあり、
仕上げ砥石で切れ味アップ  刃物が長持ちするのタイトルで以下の記事がのっています。

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 この刃物のシリーズ1−8は何を話題にしていたのか興味を惹かれますのでいずれ図書館で調べてみます。

 下画面 左下の囲いの記事「仕上げ砥の研ぎ汁を使いこなす」というのは研ぎの要だと思います。

 大工道具や彫刻道具の鉋カンナ、鑿ノミ、刀などの仕上げ砥をかける時、天然砥石でも人造砥石でも、仕上げ砥の表面を小さな白名倉砥石でなで回し、その砥クソ(研ぎ汁)を出します。 その泥の濁り状態の上を刃物を行き来させます。 この方法だと仕上げ研ぎの回数も少なくて済み大切な砥石の消耗も減らせるのです。(懐が許せば どんどん使い込んで新しい砥石を入手する方が良いのでしょうが。

 記事中に名倉砥のことがないのは、農業者向けの雑誌なので その方達が入手しにくいことも考慮されてのことなのでしょう。





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