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久しぶり武蔵美です。
日本画の下絵が展示されていて良い展覧会だとの勧めでとTからの誘いだった。
他者の運転だとあっという間に学園へ。
日本画を余り見ないので普段はノーコメントでいますが、おそらく戦前の日本画家たちは、市民権(社会に対しての発言権と言った方が良いかもしれないが)が、今よりずっとあったんだろうと絵を見ながら思う。
会津の作家数人の明治末から戦中にかけてのものがおもしろい。ポスターの黒く塗りつぶされたデッサンは秀逸だった。
川鍋暁斎の達者な下絵デッサンや土田麦僊の大原女写生等もある。
村上華岳の秋谿図もよかったが、裸婦画稿と菩薩が入れ替えで720からでなければ見れずに残念だった。
いま書きながら思う
まわりに子供たちがいた世界だったんだ。今の私たちのまわりには子供たちがいないと。ただでさえ少ない子供たちはみなプライベートな壁の中にいるて、町中て見るのは移動中の子供たちだけだ。いまの社会はやはりこわれているのだろうか。・・遊ぶ子供、正月の囲炉裏にいる男児、子守りの少女等を思い出しながらそんなことを思う。 他人の子の写真は一枚も撮れりゃしない。少数犯罪お恐怖がマスコミをとおして拡大し皆ガードの中で生きている。以前の社会は大人たちの目がいつでも行き届いて守る行動にもうつれたが、いまは通報して下さい・・ 子供たちが不幸な時代だと思う。利権だけ追うような政治だから・・ この展示も見る
エジソンから25年ほど過ぎた百年前の蓄音機でデキシーをかけていた。浅草を想像。
ウードや月琴.琵琶.シタール.ファドのギターやアフリカのカリンバ親指ピアノなどの楽器展示も。
ニューミュージックマガジンにいた友人に電話でしらせると、新聞に大きく書かれていてたから知っているよと。デジタル化の約束で寄付したんだと言っていたけれども、どうなったのだろう。
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美術展 art
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90年の会津田島でのパフォーマンスフェスティバルでチェンソーで作品を四体作りながら参加したことがある。
今は廃棄された八総鉱山の就業者の街跡の旧小学校でのfesであった。ボランティア参加の学生たちも含めて百人以上もいた中に、夜更けまで語りあった霜田氏もいた。
かれのパフォーマンスは、服を脱ぎ捨てラジオで、対ナチ戦線で流したマリーナ・デートリッヒのリリー・マルレーンをかけながら、身体を床に着くことなく、机をぐぐりながら一周するというものだった。
あの小さな机の下を、片手、もう一方の手、頭と、次第に汗で光る身体を移動させていく姿が、まるで苦行僧のようにも見え、様々な人の表現行為のなかにあって、私には強く印象に残った。
信州大町の高原での野外展に出掛けてくれたが、会うことが出来ずに、以来再会はできていない。
安倍政権が米国との軍事同盟を進めて、アジアの緊張状況をたかめている。それに対して、彼は二パフ・アジア・パフォーマンス・アート等を実行しながら、長年にわたり他国の人たちと信頼をつくってきている。
彼のFacebookに、高知県でのインタビューがのっています。アートに何が出来るか等の答えも含まれているこの記事をのせます。
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工房の後輩からの案内状が届き出かけた。
八高線東福生駅から川越直通で45分?
小江戸めぐりバス\190で現場へ
が、いちおう何をしているかを見たからいいか。
美術館エントランスの樟の木
欅の小(中)品
本人の解説に、水と光を意識しているとありました。
私の批評は当人に直接に云ってからでないと・・
帰りは徒歩でJR川越駅へ向かいます。
黒塗りの土蔵造りの店が続く当りは観光客で賑わっていました。
この医院の前にはこれも。
今回街をあるいてみて、彼の作るこの不思議な黒御影石の彫刻群は、この街から出てきたのかなとふとおもいました。
さて、今回わざわざ歩いた理由は、こちらです
”こまんたれBOO!”さんの1月1日の記事『創業天保14年 川越 まちかん』をご覧下されば包丁などの写真がふんだんにのせられています。
ちょうど料理人の方が包丁の研ぎをたのんだところに出くわしました。
店主が研ぎの説明をしています。ピカピカに光らせているここは、タンガロイで潰していくんだとか・・
彫刻刀もありましたので、束の中にどのくらい埋まっているのかきいた。では鋼は3cmくらいは入っていますかといったら 4cmはありますとのこと。そのうち一本試してみるか、今は鑿仕事だけですが、細かいものに移行したら。
このような店が維持出来ている川越の街には、商家のプライドが漂っていました。
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フジタの絵を検索していて以下のサイトを見つけました。
究極の戦争画−藤田嗣治 @NHK:極上美の饗宴 7.11
NHKのTV番組の内容を書かれたものですが、tvを見ているのでないから、前後の文脈やニュアンスが分からないので、全面的におんぶするわけにもいかないのですが、野見山さんや菊畑さんといった作家の発言なので一部抜き書きさせてもらいました。
このサイトでは戦争画に関しての他の記事も書かれている。興味のある方はそちらへどうぞ。
番組出演者は、
野見山暁治(画家)・司修(画家)・菊畑茂久馬(画家)・笹木繁男(美術研究家)・蔵屋美香(国立近美課長)・佐々木一郎(アッツ島生還者)・松永恵子(サイパン島住民生還者) 以上の7名。
《アッツ島玉砕》
補給依頼を無視されたアッツ島守備兵 最後の夜襲 肉弾戦の様子が書かれている。
米軍の捕虜となってアッツ島から生還した佐々木一郎氏の証言は「圧倒的に性能の良い米軍の鉄砲に向かって突撃していっただけで、とても肉弾戦といえるものではなかった」。
大本営発表では「全員玉砕した」。「全滅」ではなく「玉砕」の美化表現が初めて使われた。
3ケ月後、上野で公開。賽銭箱が置かれ、人々は画の前で合掌。藤田は軍装で、直立不動の姿勢で立っていた。
「山崎部隊合同慰霊祭」2638名が「軍神」に祀られ、アッツ島玉砕は紙芝居や顕彰国民歌のテーマにもなった。
笹木繁男氏は、「何かそこに光明がないと、利用できないので、軍神に祀り上げ、さらなる戦意を鼓舞したのであり、その意味で、藤田のこの画は戦意高揚を企図した教科書的な絵画となった」
菊畑茂久馬氏は、この画から崇高な祈りが生まれてくるのを目撃して、自分自身、感動に立ちつくした記憶があるとのこと。「藤田は、絵描きの業として、西洋人に匹敵する歴史的名画を描く好機が到来したと思ったのであり、この画はプロパガンダといったものを突き抜けた名画である」というのが菊畑氏の意見である。
《サイパン島同胞臣節を全うす》
米軍は昭和19年6月15日に7万人が上陸、わずか1月で住民を含む日本人4万人が戦死した。
当時サイパン島に住んでおられた松永恵子氏の記憶は鮮烈である。
壕に隠れていた時に、『赤ちゃんを泣かすな』と責められた夫婦が、『その子を殺して埋めて帰ってきた』という話は真実の証言。岬から飛び降りる女性たちのうめき声や恐ろしい音を聞いていたという話も耐え難い。
大本営発表は、「在留邦人が軍に協力し、将兵と運命をともにした」と自決を賛美。
朝日新聞の「世界を驚かす愛国心」の記事をフジタは参照にしたのではないかとの指摘。
昭和20年3月10日に、東京大空襲、藤田のサイパン画は4月13日に上野美術館で公開。
この頃、沖縄に米軍が上陸し、軍民一体となって動員され、15万人以上の沖縄県民が犠牲になった。
菊畑氏は、「こんな悲惨な画が戦意高揚になりますか?」という疑問文でこの画の芸術性を暗示された。
野見山氏は、当時この画を見て、画家の業のようなものを感じ、「自分が描いたら、憲兵に引っ張られるような」反戦的な画だと感じたという。
司修氏は、「悲惨なもの」を「勇気あるもの」と捉えさせ、「一億玉砕」の信念を植え付けたのだと。
笹木繁男氏は、「藤田のこの画には戦意高揚と悲劇賛美の二面性があるが、画が描かれた時代背景を十分に理解したうえで評価しなければならない」
8月15日に終戦、、藤田は全作品をアトリエに運び込み、日本語の署名に英語で T. Foujita というサインを追加し、皇紀2605年を1945に書き変え、「我身ヲ以テ太平洋ノ防波堤トナラン」という文を消したりした。これらは、野見山暁治氏の重大な目撃証言である。
引用元の 2012-07-12 15:04 をご覧下さい
フジタの絵は作家当人が認識していたように戦意高揚の為の強力画であったことは紛れもない事実であったと思いますが、絵画として一級品であることは否めません。
日本の戦時下に於いては、反戦のレジスタンスは、ほとんど不可能に近いことだったろうと思います(近隣住民の通報、報復とう)。
菊畑茂久馬氏の「こんな悲惨な画が戦意高揚になり
ますか?」という言、私もそう思います。
西洋の宗教画などからの発想した構成だとしても、FUJITAが一人づつ描きながら何を思ったかは分からないけれど、展示されたこの悲劇を見た者たちが一億総玉砕に心を向けたとしたら、それは画家の責任ではない、盲いになっていた国民一人一人の責任だと思います。
保守独裁政権下で、海外派兵そして憲法の改正構想が進み、国家の個人にたいする締め付けがどんどん強まっている。
弱い個である私たちはどのように生きていくのかを覚悟せねばならない状況になってきているんだと感じます。
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昨日九段下の合同庁舎での用をすませビルからでると
目の前に城門が
皇宮警察がいないから通告可だなと回り道をすることに
縦柱が尺五寸45cmくらいでした
ここを抜けると北の丸公園でした
ハナミズキも広い空間に伸びやかで美しい
ふと気がつくと、こんなものが 首都高速外回りの代官山出口の真ん前にある1,2駐車場
ここへ駐車して地下鉄東西線の竹橋駅まで徒歩で五六分です
JFケネディーの大統領就任映像やロバートケネディーが大隈講堂で
学生とやり合っているニュースなどが流されていました。 作者は新海竹太郎で近代美術館にも婦人像が一体あります。
貴人が乗るとはいえこの馬の足の細さは・。
北の丸公園はこの連隊の練兵場だったようです
造形力がそう見せていたんですね。
本館では片岡珠子展ですが私は常設のMOMATに
藤田嗣治の戦争画が展示してありました。
戦争協力画で一時期ジャーナリスティックな話題となっていたことがありました。
これはノモンハン
まずこの一枚が出てきて こりゃあまさに協力画だなと
もう一点はアッツ島玉砕の
そしてトレードマークの
偶然でしたが見れてよかった。
小磯良平の戦争画も1点ありましたが、しっかりしていると言っても教科書風でした
団体ツアーではない外国の方を多く見かけました。以前にはなかったこと。
私も外へ出ると近代美術館や現代美術館へは足を運びます。
ふと思ったのはこの常設展示で日本の今の美術を判断されては困ると。
70年代までの収蔵品のままで変わらない。古びた匂いがしています。
21cに入ってからますますギャップが大きくなった。
常設展示を大きく変えるのは官の人間には無理なんでしょうか。
近代だから、もう古い、としても もっと活きた展示を!
その意味では藤田のサイパン陥落の絵は群を抜いていたかもしれない。
九段下から神田古本屋街により六本木サントリー美術館 若冲と蕪村にと思っていたのですが、
清水門を潜ったら別バージョンとなってしまった 午後でした。
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