重要文化財 3躯
指定名称:銅造阿弥陀如来及両脇侍像(法隆寺献納)
銅造鋳造鍍金
像高(中尊)28.4(左脇侍)21.1(右)21.3
飛鳥時代・7世紀
[ 説明文から抜粋 ]
阿弥陀三尊像であることが確かなわが国最古の遺例である
中尊の倚坐形式や両脇時の三面頭飾、瓔珞の懸け方などに中国の北斉から隋にかけての仏像の様式を示すが、像全体のもつ大らかで瑞々しい気分は白鳳彫刻の本領ともいえよう
台座背面に刻まれた「山田殿像」の銘 蘇我倉山田石川麻呂や彼が創建した山田寺との関連も想起されるがその詳細については不明
彩色は各像とも頭髪に群青、唇に朱(あるいはベンガラか)が認めれ、中尊の腰部底面から懸裳裏面にかけての全面に赤色顔料(ベンガラか)が塗られている。台座は上框、腰、下框・台脚の3部と両脇時用の蓮茎を各別鋳で造り、組み立てている。鍍金は表面にあらわれる個所の全面に残り、台脚部の裏面全体には赤色顔料(ベンガラか)を塗布
この金銅仏を知ったのは、私らの師匠小畠廣さんが、イタリア鋳造を作家として導入しようと、鋳造炉(坩堝が30番のちいさなものでしたが)と焼成炉(加藤昭男さんの設計)を吉祥寺のご自分のアトリエに築炉した頃でした。そのころの鋳造は砂型、ガス型鋳物が主流でイタリアの蝋型石膏法はまだめずらしかったころです。
作業をてつだった私たち生徒も小さいのを鋳込ませてもらったことを思いだします。
ある授業日のことでした。
神田神保町の美学校からそれ見に行くぞと先生の一声で上野へでかけこの一群の像をみました。
彼がつぶやくのを聞き漏らすまいと耳をかたむけた。皆、気合いがはいっていた。
その後、東洋館とここは何回かいった。
住んでいた(2年ほどだったか?)本郷から湯島の階段を下り、つれあいと東博へ出掛けた。帰りにアメ横でサバなどを買って帰ったことも思いだします。
日吉館に泊まりながら奈良の仏像を見によくでかけた。
聖徳太子ゆかり斑鳩の、法隆寺金堂釈迦三尊や夢違い観音像、百済観音や玉虫の厨子、中宮寺の半迦思惟の観音像、法輪寺の虚空蔵菩薩像など、飛鳥白鳳時代7世紀の不思議な造形の仏像も、何回かつき合ううちにだんだんと身近なものになってきました。
といっても、聖徳太子の時代から天智帝天武帝の時代7世紀は、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺と云った大寺の平城京、奈良の時代8cのように成熟もしてないし、とてもわかりずらいのです。
その7cの粋を集めた像の数々がこの法隆寺館一堂に会しているのです。
この頃は、大陸、半島と盛んに行き来があったのでしょう。
仏教も伝来したばかりで、受入れる受けつけぬの権力闘争があり、
先端技術をもった集団が半島から移動してきて住みつき、
任那、百済が滅び、移動してきた氏族もあり、、、
48体仏はその間の事情を語っているはずなのです。
この48体仏の中にもいくつかは海の向こうで鋳込まれて持ち込まれた物だと推測されていますし
私の郷里信州安曇の隣村松川にも渡来仏の重文が伝わっています。日本海から川をさかのぼりその地にすみついたのでしょうか。この姫川に勾玉などの原石、ヒスイの採れる場所もありますから、ひとつのメインルートだったのではないでしょうか。
この金銅仏たちを、どこの工房でどんな職能集団が造仏しどんな氏族がそれを祀っていたかなにもわかりません。
幾系統かの流れがあったんだろうか。
その一団は聖徳太子一族のような最後を遂げたんだろうか、あるいは後のどこに連なっていくのだろうかとか、、
穏やかなかわゆらしい童子形の金銅仏をながめながら想像を膨らませるのです。
今回金銅仏を鑑賞して、新たな発見があった。
左斜め後ろからながめたある像の姿が,美しいのです。(2列目?のもっとも左の像)
これまでは正面の姿は脳にインプットしようと努めてきましたが、斜め後ろの姿は記憶の引き出しに入っていなかった。
かわいいとか、この細腰のラインが素敵だというような感想は持っていますが、美しいライン美しい形だとみえたのは初めてのことです。
東洋館でみた北斉の石像や百済観音の腰をつきだしたラインと同じ造形美だとは思いました。
朝鮮民族のウエストを締めないチマチョゴリの衣装はこの時代からつづく美意識かもしれないなとも思いました。
最近中国武侠ドラマを見たり三国志を読んだりしてから、この島の歴史をナショナリティックに考えずにすむようになった。
戦争ものの三国志では一族が抹殺されて無くなってしまうのは自然のこと。7cまでの権力争いの歴史も同じような土俵の上のこととして平静にみれるようになった。倭の五王も中国ドラマで大王というものをみてから具体的な姿が浮かぶようになってきた。
私たちの過去と言う気持を入れこんだ熱くなった見方からでなくて、対称との距離を保てるようになったことが、美しいという見え方ができるようになったのかもしれない??
次は都美館のグレコかな。