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番外編 金井章氏の自分史

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 N 川さんは義父が土佐山田に7、8年住まった頃の恩人です。この木のお盆は長女一家が土佐へ移住した際に義父がNさんに差し上げたもので、
 今回の鉛筆画展でも義父の知人たちに見ていただきたいとのでと、お送り下さった。
長女一家が家を探しに教育委員会を訪ねた時に、その場に居合わせたNさんが田畑付きの住居を紹介して下さり、その上、初対面なのに少しなら工面出来ますのでお使い下さいといわれたそうです。義兄は住宅を買い替えることになるので都合はつきますからその親切の気持ちを有り難く頂きますと。その後も様々な親切をしてくださった。
 義父が東京で個展をした際にもご夫婦で何度も見えられました。運転免許は60になってからとられた。足が少し不自由になられた姉さん奥様の為にと。a時a分XXインターチェンジb時b分xx到着c時c分xx出発と綿密な計画表で動かれていました。
 勿論なんの見返りを求めるわけではなく、本当の親切をされる方です。まだ日本にこんな方がおられる。東京では、、。
 介護の為に引っ越しをし絵もかき出した義父が、数年のうちに妻に先立たれ力が抜けてもうじき火が消えそうになっていたのを見て、東京の娘さんの所に行ったらどうですかと、父の背中を押してくれました。
 このお盆は大切にしている記念のものなので会期が終わりましたらお送り下さいとおっしゃっていました。


―付録ー
卯(う)年の守護神 文殊菩薩 摩虎羅大将

日曜まで地下鉄の表参道駅構内の柱に十二神将の等身大写真が、JR東海が奈良キャンペーンの一環で掲示されていたようです。

ー奈良/新薬師寺ー
天井の低い金堂(国宝/天平?)の中央に、大きな瞳の
  木造薬師如来坐像 191.5cm/国宝/平安初期?/榧カヤの一木(イチボク)つくり
が鎮座し、左右の脇侍と共に、
  十二神将 国宝/塑像(芯の木の上に粘土で造形する技法)
が本尊をとりかこむ。他では見られない?配置です。

なかでも伐折羅バサラ大将 162cm(戌イヌ年の守り神) が有名で奈良観光キャンペーンにはこの写真がよく使われます。  摩虎羅大将 166cm(卯ウサギ年の守護神)ほか12体です。

http://www.k5.dion.ne.jp/~shinyaku/juunishin.html
東京メトロ表参道駅(東京都港区)構内に登場、23日まで企画
文殊菩薩
(もんじゅぼさつ)

卯(う)十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類

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 彼の為に本当に愛して下さった方々がキ・アリにお別れにお集まり下さいました。

 小学校の同級生が息子さんの運転で丸子(現上田市)からみえられた。90才で足腰頭脳が矍鑠としておられる。 松本と木曽からは展覧会もして下さった50代のお友たち。 甥や姪の方々も長野や山梨からみえられた。 四国からはお便りをいただき、 絵のモデルをしてくれた30代の女性も。等々

 それほど広い空間でないからほんとうに親密な方々にご連絡しました。
 こういったお別れを当人が希望していました。 皆様遠くからお集まり下さり充実した〆となりました。

 恨みつらみを一切言わずにすべてに手抜きをしない、他人にサービスすることはあたりまえのこと。
 笑顔が皆に好かれて、デイケアで通所した晩年も職員の方や同輩の方々に愛されました。あの無私の努力と男前の故でした。

 鉛筆画を3年ぶりに展示してみて、かれの目の良さに感動すら覚えます。何よりも構図の確かさ、M美大の学長もそれを言っておられた。
 もの に対しての理解力も違う。目を通して理解することをずーーと続けている。
 番外編で自分史を読みビックリするのは3才のころからの記憶がすごい。これは目で記憶にとどめているからだろうと思います。 飛び立った何十羽もいる鳥を数えるのに、目で記憶出来る方なら数えることができるというそのことです。
 現場で仕事をしていたこともあり木や鉄、石、あるいは紙とか、材質感、手触りとか硬軟の感じや表面の光に対する反射とか曲がりの具合や、、、
 絵画はそういった理解力がでます。ダビンチを持ち出すまでもなく科学的な理解力は大前提です。
 彼は生まれたときからずーーーーと目でものを理解しつづけていたので75才で絵をかき始めた時にそれを紙の上に溢れ出させることができました。絵を書くという技術に少し熟練することは必要でしたが2、3年のうちに獲得し始めました。まわりに先生が3人もいましたが。娘と私と孫。(かれが最も新人です。絵を描き始めたのは孫が美術の世界に入ったことがきっかけではありますが。)

 さて今日見えられた最年少は生後7ヶ月のお嬢さん。T美を出たばかりのころにキ・アリにお手伝いで1年半?ほどおつきあいしたR..m..さんが3人目のお子さんを伴い5年ぶりに。
 彼女の着物姿を描いたのを展示しました。まわりの図柄は正倉院写しでこれも色鉛筆で。
 彼女らが帰ろうという時に、呼ばれていくと、
7ヶ月の兒が子供の笑っている絵をみて同じように笑っているではないか。そのうち何か声でもいっている。幸せな風景でした。J i j i さんもそれを見てさぞ満足したことでしょう。
  
 ちなみに、この雪の絵は、孫が小さい頃の写真から描いたものです。後ろの三角屋根は自分で設計や水回りをした木曽駒のぽちの家の雪景色、手前は東京の雪。リンゴ箱をひいているのは私で乗っているのは息子。木曽の雪は乾いているのに前の雪は重たい。昼には溶けてしまいますから。

 3枚目の白黒の絵は、子供びじゅつクラブの生徒だった子が中学生になって訪ねてきた時のショット。箱は薫製中の装置?です。
 この絵はかいた本人も大好きで、「この絵でおくってくれや」といっていました。

-『賞と罰』
 
 それは昭和20年8月、国破れて長い戦いの重圧からようやく解き放たれ、虚脱状態からまだ抜けきらない9月4日の未明の出来事であった。
 中央線笹子駅構内で乗客死者64名重傷者を含むけが人200名という列車事故にいよる大惨事が発生した。

 この時、国鉄甲府管理部の保健係として数日前に転勤してきたばかりであった私は、事故の通報を受け動員され、医師、看護婦たちと救援列車に分乗して現場に向った。
 笹子駅についてホームに立った途端ムゥッと異様な臭いが鼻を突く。右往左往飛び交う人々の姿。
 向かい側の貨物ホームには、破壊された客車の間から収容された犠牲者の痛いが次々と粗筵の上に運ばれて来る。
 怪我人は消防団員の担架に乗せられ、または歩けるものは歩いて駅の直ぐ近くの小学校の講堂へ収容されていく。
 平素は乗降客も少なく、静かな山間のこの小さな駅が阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
 私達は早速 小学校の講堂に運び込まれたけが人の応急手当と身元の確認にあたる。
 折から天候が悪化し、やがて盆を返すような大雨となり講堂の中は薄暗く、患者の呻き声と罵声に、事故の責任者という負い目の中、敏捷に黙々と動き回る看護婦の白衣だけが救われる思いであった。
 
 東京を9月3日午後11時発の403号夜行列車は4日午前0時20分ころ、満員の客をのせて笹子駅に差し掛かった。平素この列車は笹子駅を通過するダイヤであったのだが、この日 対向列車の遅延により急遽 臨時停車させるべくポイントは通過線から折り返しの引き込み線に切り替わっていた。
 このころ乗務運転士は戦後処理の輸送業務に人で不足の中、連日連夜の強行乗務を強いられていた。通過駅の連続する単調な運行につい睡魔に襲われ、通過信号から折り返し線への場内信号に替わっているのに気付かなかった。
 列車は大音響とともに、ストップ標識を突破し車止めの岩盤に激突してしまった。
 運悪く一輌目の客車と二輌目の客車は古い木造車で脆く、一輌目の客車の中に二輌目の客車が突っ込んで大惨事となってっしまったのである。
 戦争終結に向けて昼夜を問わず一生懸命勤務に励んできた運転士は、過失致死傷害の罪に問われ、司直の手によって裁かれる身にまってしまった。

 ところがこの事件をさかのぼること一ヶ月前の終戦真近の8月5にち、彼は日中6両編成の満員列車を運転して中央線の山の中へと差し掛かっていた。
 この辺はトンネルの連続で、トンネルを出たかと思うとすぐ次のトンネルへ差し掛かっているといった区間であった。
 電車が湯の花イノハナトンネルを出た途端、一機の米軍機が飛来し、電気機関車めがけて襲ってきたのである。
 米軍機の機関銃弾が機関車の心臓部をぶち抜き、運転手はノッチを一杯に引いて全速で次トンネルに逃げ込もうとしたが、すでにモーターは停止していた。
 それでも惰性で列車の大半は次のトンネルに入ったが、後部二輌を敵機の襲撃の中に曝したまま停止した。そして制動ブレーキの効かなくなった列車はゆっくりと後退し始めた。
 このとき件の運転士は、運転助手とともに車外に飛び出し、線路の石を拾い車輪の下に歯止めをしながらトンネルの外に出た。
 数を増したグラマンは、トンネルの外に露呈している二輌の客車めがけて容赦なく攻撃してくる。
 二人は乗客に、前の車両に避難するよう、銃弾の中命がけで誘導し、多くの乗客の命を救い、職務上とはいえその行動は人命救助の大賞にも値する働きをしていたのである。

 この彼が今は獄窓に身を委ねている。一瞬の睡魔がこの人の運命を大きく変えることとなった。まさに賞と罰との逆転劇を身を以て演じてしまったのである。

 これより数年後、国鉄機構改革により、甲府管理部は甲府駅を境として三方に分断され、私も国鉄を去ってこの彼の消息はきくよしもない。

『美代ちゃん 大正12〜14年頃 3~5才』

 樽屋の玄関の道路に面した六畳間が、橋本工業の娘 美代ちゃんの居室である。
 美代ちゃんは小柄で色白のきれいな女ヒトだった。早くに生母を亡くしているので、ひと月かふた月毎に東京の父親が訪ねてきた。
 病弱なためあまり人とも交わらず静かに一人本を読んでいることが多かった。天気のよい時は障子を開けて、道路向こうの河原の景色を眺めたり、表の砂利山で私たちが遊ぶのを眺めながら静かな笑みを浮かべていた。

 母は私にいつも割烹着のような前掛けを着せていた。茶褐色の地に黒の粗い格子模様のあるフランネルの前掛けであった。袖口にゴムが入っていてその形がいかにも赤ちゃんの涎掛けのようでいやだった。
 遊んでいても窓辺に美代ちゃんの姿が見えると慌てて脱いで樽屋の出来立ての樽の中に隠しておいた。家へ戻る時、着るのを忘れて帰りよく母にしかられたものだ。

 美代ちゃんは、東京の父親からの荷物が届く度、囲炉裏端に居る私たち兄弟の所へ珍しいお菓子等持参してくれた。
 ことにひとつひとつ銀紙に包まれたチョコレートを、兄たちのいない時に私を部屋に呼んで二、三個くれた。私は一度に一個食べてしまうのは惜しくて、真ん中の盛り上がった筋を境に半分食べ、残りを紙に包んで母の元へ持ち帰った。
 美代ちゃんは私のこんな仕草をもいつ笑みを浮かべてみている。

 二年目の秋、父親が迎えにきて、震災後ようやく落ち着いて暮らせるようになった東京へ帰ることになった。
 美代ちゃんの馬車が部落の角を曲がり白い手が見えなくなるまで私も手を振り続けた。美代ちゃんの手が見えなくなると私はたまらず母の前掛けに顔を埋めた。
 学校から帰った兄たちは、留守の間に発ってしまったことを知って、美代ちゃんのいた部屋にぼんやり立ちつくしていた。美代ちゃんの部屋には今朝までと同じように机やスタンドが置かれていたが、それは美代ちゃんから兄たちへのプレゼントだった。
 その年も暮れる頃、身体の弱かった美代ちゃんは東京に戻ってから床に就いていると便りがあった。父は一度様子を見にいかねばと言っていたが、都合がつかずに年を越した。

 翌春、長兄が早稲田大学の工科に入学し、橋本工業の事務所の宿直室にお世話になることになった。父は兄を伴い上京した。事務所で挨拶をした後、社長宅を訪ねるとその時すでに美代ちゃんは病が悪化して、父親に伴われ埼玉の病院に入院してしまっていた。父は急いで病院へ駆けつけたが美代ちゃんは親族や事務所の職員らの見守る中、短い人生に別れを告げた後だった。
 美代ちゃん十九の春だった。

 父が美代ちゃんと別れをしている頃、美代ちゃんがそんな状況にあることなぞ知る由もない私は、樽屋の囲炉裏端で母が夕食の支度をするのを眺めていた。ふと戸の開いたままの裏口から、雨上がりの霧に煙る井戸に目を向けた。跳ね釣瓶井戸である。
 霧の中に上から下までただ真っ白な人像が釣瓶で水を汲み上げているのが目に映った。故知らず背筋の冷たくなるのを感じて「母ちゃん井戸に白い人が水を汲んでる」というと、母は表を眺め「誰もいないじゃないか。おかしな子だねえ」という。私が再び井戸に目を転じると、いつの間にか人影はなくからの釣瓶が宙に浮いたままであった。

 数日して父が帰って来た。母に美代ちゃんの亡くなったことを話し、もう少しここに引き留めておくべきだったと残念がっていた。姉に白い人影を見たことを言うと「馬鹿なことを言うんじゃない。お前夢でも見たんだろう」と本当にしてくれない。然し私はきっと美代ちゃんだと思った。
 私は美代ちゃんが樽屋に居るた時「ここの水は東京の水と違って美味しい」と言って井戸によく水を汲みにきていたことを思いだし、あの白い人影はきっと美代ちゃんが最後の水を汲みにきたんだと後々までそう信じていた。
 それからは夕刻には井戸の方を見ないことにした。

父と母は世帯を持ってすぐ続けて一男一女を設けたが、二人とも幼くして黄泉に送っている。生きていれば美代ちゃんと同じくらいの年だった。今また、若い美しい生命を奪った運命のいたずらに怒りのやり場がなかったようだ。後々まで生きている間に見舞えなかったことを悔やんでいた。

『樽屋の生活 〜お勝さんのこと〜 』

 近くの河原端に樽屋の材料を積んである大きな小屋があって、椹の板がぎっしり積み込まれていた。小屋の端のほうの少し空いているところに、お勝さんが住んでいた。
 お勝さんは、顔が疱瘡の跡で穴だらけ、四十歳近くだというのに老婆のようであった。達者な身体で、他村まで出向いて行って按摩をして生計を立てていたが風体の汚いのと「お勝に揉んでもらうと、伸びた爪で首筋が傷だらけになる」とかであまりお呼びがなかった。
 時には農家を回って物乞いもしたらしい。お勝さんはこれでなかなか気位が高く、他人からものを貰うにも自分で納得したものでないと手を出さない。野菜なども新鮮なものでないと貰うとは言わなかった。

 秋のこと、母が数人の女房たちと漬け物の大根を洗っているところへ、お勝さがきて皆が大根を洗うのを眺めていた。母はお勝さんも漬け物をするだろうと葉のついたままの大根を十本ばかり藁縄で縛って「沢庵にでもしな」と渡そうとすると、「沢庵は漬かってから貰いに来るからこんなにいらん」と言って、縄を解いて中から先の二股になった大根を取り出し「二股大根別れても、お前と私は別れない」と節を付けて歌い出した。母たちは「お勝にあっては負けた」と笑った。次に肌のすべすべしたのを二本手に取ると「肌の悪いのは自分の顔で十分だ」と、また皆を笑わせてそれだけ下げて消えて行った。

 お勝さんは何時も小学生用の古い肩掛け鞄と、布で作った大きな袋を左右の肩から斜め掛けにしていた。鞄には自分の日常の必要品を入れ、布袋には頂き物を入れる。
 部落を廻るお勝さんにはなかなかの実入りがあった。木炭の生産地であるこの辺りの道には、炭俵の荷馬車から一つ二つと落ちた炭が転がっていた。これがかなりあって歩きながら袋に拾い、夕暮れ時、家に着く頃には袋が一杯になる。炭の生産農家にとって堅炭は商売物で、「紙漉きの手洟」ではないが自分のところではなかなか使えない。小枝や下刈りの雑木を集めて火をつけ、燃え切ったと思うころ少量の水を如雨露でかけて、まわりを足で踏みつけて火の消えたところを持ち帰る。踏み炭といってこれを炬燵などの熱源とするのだが、炭になり切らない小枝が混じっていて炬燵布団を捲ろうものなら煙くてたまらない。それにひきかえお勝さんの炬燵は、叩けばチーンと音のする楢の上等炭だから火持ちもよく煙も出ないお大尽暮らしであった。

 お勝さんには死に別れた夫との間に男の子が一人あった。私の一番うえの兄と同級であったが、私達が樽屋に戻った頃は六年生で小学校を辞め上田市の大工に弟子入りをしていてお勝つさんは一人暮しであった。一人息子を他所に出した寂しさからか、子供等の元気で遊んでいる姿を見ると、傍らにしゃがんで楽しげに眺めていた。

 住まいの一隅に石で囲った深い炉をしつらえ、周りに子供達を呼び集め昔話をよくしてくれた。小学校へ行くようになって修身や国語の勉強の中に出てきた物語の幾つかは、すでにお勝さんから聞かされていたものだった。
 樽屋から火の始末についてきつく言われていて、河原の石で四角に積み上げられたその炉は必要以上に深く、土間に座らないと手の届かないところに鍋が掛けてあった。
 お勝さんは時折、菜飯を炊いて私達に振る舞ってくれた。
 母から「お勝さんのところで変なものを食べるんじゃないよ」と言われていたが、この菜飯は結構美味しくて何度かご馳走になった。

 幼くして大工の弟子入りをしていたお勝さんの息子は、長じて腕のいい大工となった。真田幸村で有名な上田城の天守閣の建て替え工事の際、棟梁になったと後に聞いた。

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