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番外編 金井章氏の自分史

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『樽屋の生活 〜母のこと〜 』

 和田村下和田の樽屋は江戸時代から酒樽、醤油樽、味噌樽を作りつづけてきた老舗である。中二階を持った大きな平屋で、表半分樽を作る工場になっていて、私たちは玄関のある方の一部を借りて住んでいた。

 玄関に通じる中庭の、道路に面したところに屋根付きの立派な門が構えてあった。大きな扉が観音開きにとりつけられているが、普段はその横に付けられた小さな通用口から出入りしていた。裏口には広い土間があって板の間に上がるところには、長さ5m、幅が30cmもある一枚板でできた欅の框が据えてある。
 板の間の土間寄りのある大きな囲炉裏の古い自在鍵には大きな鉄瓶が掛けられ、何時も白い湯気が上がっていた。土間の上は吹き抜けで高いところに横長の箱が取り付けてある。これは鶏のねぐらで夕暮れ近くなると裏の畑で遊んでいた茶褐色の二、三十羽が次々と入り口の敷居を飛び越えて土間に入り、此の箱めがけて飛び上がる。なかなか上がれずに端に掛かっている梯子をピョンピョン上がっていくものもある。囲炉裏の裏の部屋と隣りの三部屋が私たち家族の住居になっていた。

 その頃父は、和田村と大門村の間の中山の隧道工事を一部請け負っていた。父たちのほかにも幾つかの飯場があって、時折物騒な事件も起きていた。

 ある夜のこと兄たちが床に就いた後、暗いランプを灯して母と風呂に入った許りの時である。外でばたばたと人の足音がしたかと思ったら、湯気抜き窓の細い隙き間に髪を乱した男の顔が覗いた。「ねいさんだね。すまんがわしを匿ってくれ」と言うなり足音は風呂場から離れ家の方へ消えていった。
 母は「お前はゆっくり入ってな」というと体も拭かずに着物を着ると男の後を追った。私も慌てて風呂から上がり、暗い裏庭を飛び石伝いに勝手口から入ると、母がさっきの男の右手に包帯を巻いていた。うちでは隧道の現場でよく怪我をするものがあって、応急手当はいつも父や母がやっていた。包帯や脱脂綿や副木まで用意されていた。傍らの洗面器には真っ赤な血で染まった脱脂綿やガーゼが入っていた。母は提灯に火をつけて囲炉裏の灰を十能にいっぱい掬い上げ外に出て行った。直に戻ったと思ったら、玄関の戸を手荒く叩く者がいる。待っていたように立ち上がると母は戸を開け外の人々と喋っていたがやがて静かになった。
 男は血の滲んだ包帯の手を胸の上に置いて仰向けに横たわり微かに唸っていたが、母が戻ると「ねいさんすまん、大将の留守に」と言う。母は「今夜は一番痛むかもしれないが明日になれば笹井さんを呼んでやるから我慢しな」と男の額に濡れ手拭いをのせてやった。「章、お前はもう寝な」と言われて私は床に入った。

 翌朝目が覚めると、兄達は何も知らずにねていたらしく、もう学校へ行った後だった。
 お膳の前には昨夜の男が座っていて包帯をした右手を首から吊って左手で朝飯を食べている。傍らで咋夜遅く帰ってきたらしい父がいろいろ尋ねている。ふと気づくと男の左手には私専用の大事なフォークが握られていた。

 母から後で聞いたことによると、その男はある坑夫の班の班長で飯場頭が賃金をなかなか払ってくれないので催促に行ったらしい。
 飯場頭は「金は長いのが好きか、短いのが好きか」という。どうも払う気がないとみて喧嘩腰に「長いのでも短いのでもいいからすぐ払え」と大声を上げた。
 飯場頭に「そんなら手を出せや」といわれて手を出すと、やにわに隠し持っていた匕首で、差し出した男の手を畳まで通るほど突き刺してしまった。
 「殺される!」と思った男は、とっさに尽き立ったままの匕首から手を引いた。中指と薬指の間が切り離され、匕首を畳に残したまま飛び出して逃げてきたというのである。

 母が灰を持って出て行ったのは、門から勝手口の間の、血の滴りを隠すためであったらしい。
 その直後やってきた追っ手の男達にには「金井の家と知ってやってきたのか」と一喝して引き上げさせたのである。男達は逃げ込んだことは分かっていたようだがそれ以上追求しなかったらしい。

 母は無口で穏やかな人であったが、こうした修羅場でも慌てずに平然と対処できる度胸にある女性であった。

『関東大震災 [3〜4才} 』 金井 章 1920(大正9)〜2010(平成22)

 母に抱かれて表の道路に飛び出した。
 道路端の細い電柱が左右に大きく揺れ、二本の電線が波を打っている。母に続いて「こりゃすごい地震だ!」と叫びながら男たちが裸足で飛び出して来る。
 大正12年9月1日 関東大震災発生。帝都は一瞬にして廃墟と化す。私が三歳の時のことである。
 母の胸から揺れている宿舎を振り返ると、一人だけ昼食の食器が散乱する飯台の前に蹲踞の姿勢で陣取ったままの男がいる。続いてきた余震に堪えバランスを取りながら飯を掻き込んでいる。田中明三十だ。
 私と二十五才も離れた従兄弟である。ずうっと父の仕事を手伝っているベテランの隧道坑夫で、明治三十年にうまれたから「明三十 めさじゅう」と名付けられたという。

 この頃 父は十余人の坑夫を連れて大門村の扉山というところの隧道工事についていた。宿舎は以前 伝染病患者の隔離病舎として使われていたところで、渡り廊下で幾棟もの古い病舎が繋がっていた。
 二人の兄と姉は、隣村和田の樽屋にあずけられ、和田小学校に通っていた。私だけが父母に連れられてここにきていたのである。何時も彼方此方の現場を転々と、両親と共に移動していたので様々な事件に出くわすことになる。

 長い間使われなかった避病舎の建物は荒れ放題だ。恐いもの見たさで、ある時ここを探検したことがある。
 管理棟と病舎に繋がっている埃だらけの渡り廊下に足跡をつけながら、おっかなびっくり一番手前の病棟の、何時から閉まったままか分からぬ埃まみれのドアノブを回した。中には長い廊下が続き、端に大きな黒い鍋がいくつか転がっている。あとで母に聞くと患者の便を消毒した鍋だと教えられた。
 入ってすぐの天井には、古く色褪せた竹製のお駕篭が二つが釣り下げられている。罹病患者を運ぶのに使われたと思われる。ひとつのお駕篭の横から毛布のような布端がぶら下がっている 曇った小さなガラス窓からの鈍い光の中に静まり返っている光景は、子供心にも凄まじく思えた。踏み入る勇気は最早なく、母の元に戻ろうと思った。
 その時である、駕篭を吊ってある片方の紐が突然切れて、もう一つの駕篭に打ち当たった。一本の紐で宙吊りになった駕篭から埃がぱあっと降りかかってきた。あまりの怖さに母を呼ぼうとしたが声にならない。咄嗟に踵を返して母のいる炊事場に向って走った。長い間眠っていた空間に風を入れたために耐えきれず綱が切れたのだろうが 期待通りの?怖い結末であった。

 父は震災の四日後、古い付き合いの巣鴨の橋本工業の安否を気遣い、信越線の夜行列車で東京に向った。四、五日して戻ると早速 東京の惨状を語ってくれた。そして橋本工業社長の病身の長女を預かってきたので兄たちのいる樽屋へ置いてもらうことにしてきたという。(この娘さんは美代ちゃんという。十八才になるなかなかの器量良の女性でその後の私の思いでの中に度々登場することになる。)

 翌年の四月初め、扉山の現場を明三十さんに任せ、五人の坑夫と母と私を伴って満員の夜行列車で大家の駅から東京に向った。東京の復旧工事に携わる橋本工業を手伝うためである。
 列車が上野駅に着いたのは漸く夜が明け始めたところで、春といっても朝は結構寒い。上野公園の西郷さんの銅像のところで、全員が背負えるだけ背負ってきた食料や衣類を降ろして迎えの来るのを待つ。
 母の羽織の中に入って寒さを凌いでいると、折よく女の人が篭に入れたゆで卵を売りにきた。母は早速買い求め,皆に一個宛手渡して残った二個の殻を剥くと、私を銅像の回りの大鎖に掛けさせ一つ渡して、もう一つを父に差し出した。父は首を横に振ると、腰に差していた胴乱から煙管を抜いて煙草に火をつけうまそうに吸い込むと、明けたばかりの空に向って大きく煙を吐いた。

 父たちが救援工事に着工し二日程して、何処へ行くためだったか母は私を背負って隅田川の船着き場から小さな屋形船に乗った。乗船の際、舳先の方から母は頭を下げて中に入ろうとした。私の頭は母のそれより上にあったので、入り口の板にしたたか額を打ちつけてしまった。痛い痛いと騒いだので、母は慌てて私を背中から降ろして、おでこに何度も何度も唾をつけてさすってくれた。実際には音がしただけで騒ぎの程に痛くはなかった。船から見る隅田川の両岸には、焼けて黒くこげた木材の屑が、川幅が狭く感じるほどど流れ着いていた。

 母と私はそれから四日程して、今度は昼間の汽車で東京を後にする。列車が薄氷峠にかかると目で見て分かる程前方上がりに車体がかしぐ、アプト式の歯車がガチガチとレールに食い込む音が躯に響く、夏蜜柑を通路においてみると ころころと後部へ転がっていってしまった。後ろの席に乗っていた黒い服の学生さんが持ってきてくれた。母は私が好奇心からわざとしたのを知っていたので、きまり悪げに「どうもありがとう」といって頭をさげた。
 父たちは震災より一年経った九月末に五人の坑夫と共に元気で帰って来た。

 その翌年の春、扉山の工事も一段落したので兄たちのいる樽屋へ引き上げることになる。私たちが引き上げたあと、避病院は取り壊されてすぐ南側にあった小学校の農園に変身した。

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金井 章 略歴
1920 大正9  長野県小県郡長門町大門にて生まれる
1935 昭和10 大門尋常小学校卒業
1939 昭和14 国鉄に奉職/甲府管理部
1943 昭和18 山本ゆき子と結婚
1945 昭和20 7月上海より除隊帰国/海軍陸戦隊
1951 昭和26 国鉄退職 木曽福島にて長門建設の出張所長として働く
1957 昭和32 独立し金井組設立
1992 平成4  小型合併式浄化槽の普及による環境保全の功績により
        環境庁長官表彰を憲政会館にて受ける
1993 平成5  妻の介護に専念のため引退 四国土佐山田へ移住
1995 平成7  介護の傍ら鉛筆画を始める
1996 平成8   東京にて初個展
1996 平成8  妻ゆき子逝去
2000 平成12 東京 昭島市に移住し 絵に専念の毎日となる 
2001 平成13 立川ルミネ朝日ギャラリーにて13回目の個展
2002 平成14 福生市に移住娘家族に同居
2010 平成22 福生市にて逝去 享年90才 
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 同居していた義父の展覧会です。
 彼は生前に展覧会でお別れをしたいと決めていたので約束を果たします。
 73才の時に、糖尿で目や足が不自由になった妻の介護に専念するため、会社を名鉄XXに売却し、冬が厳しい木曽谷から暖かな土佐にバリヤフリーの広いワンルームを作り移住。
 それまで、水回りの設備の仕事で木曽谷の別荘地や旅館や官公庁などあちこちを飛び回る日々から一転して、高知の山の中で介護の日々を過ごすことになった。時々は飛行機で我家へやってきて息抜きはしていくものの、時間を過ごすのに苦労して、紙を切り貼りして飛行機を数百もつくってみたり、沖縄民芸の蛇腹の蛇を山ほどつくったり、、もともと設計から現場までの手や頭を動かす仕事の毎日だったのが180度展開して、、
 若い頃は妻と映画を見るのが習慣だったので、映画スターの似顔を鉛筆で描いて妻に見せていた。それを見て私の連れ合い/彼の次女が絵を描いてみたらとすすめた。
 展覧会をすると、小県の小学校同級生たちは彼がどのようなな絵を描いても少しも驚かなかったが、木曽での知り合いは皆一様にビックリしていた。
 短い間に17回?新作で展覧会をした。見知らぬ若い方とも友達になれたし、自分が絵が描けたことにうれしい驚きも持てたと思います。いい晩年でした。
 高知へ移動して3年程で妻が亡くなり、一時はすっかり落ちこんでしまっていたのも、絵を描くことで立ち直った。そのころは「もういいやな」といっていたが、肉体のエネルギーを十分に使いきり、幸せに苦しまないで逝けたのでありがたいことでした。

 今回の会場のキ・アリは私どもの店、オーガニックレストランです。私の連れ合いが、病気の母親が上京した時も面倒を見ながらでも営業出来るようにと普通のしもたやではじめ、その後昭島に移転10年営業し、今度は父親が介護の必要になりそうだとカウンターメインの一人でも出来るような店をと立川に移転。(彼女がシェフなので私は介護の役割)彼女は父親と同じようにすすみました。お金があった人と全くない人の違いは大きいのに。

 この展覧会は、店の営業時間中の展示です。キ・アリは1996の暮れからオーガニック イタリアンのレストランとして続けてきました。結構名は知られていますが、まるで秘密の場所のようにもみえます。素材、ことに野菜は筋金入りの自然農法栽培もの、調理も揺るぎがありません。一度お出掛け下さい。私の手作りの(指示はシェフですが)店も是非見て下さい。大工さんに張合って、電気に頼らず(隣近所に音が伝わらないように)手仕事でつくりましたので3月もかかってしまいました。なにせ壁に釘を打つなとの大家の条件をのんでの苦心の秀作?ですから。

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上段;キクチャン 
4才で天国へ行ってしまったこの子は天使のようでした。キャバリアキングチャールズ
七人の侍の菊千代ー三船敏郎が亡くなった日に、二ヶ月でやってきました。絵画クラブの卒業生が私らに貰って欲しいと、、
この絵、もう目が見えなくなった頃のキク、時々目が落ち込んで苦しそうでかわいそうでした。亡くなった朝の一声が忘れられません。
今、犬とつき合っていないのはこのことが大きい。
キャバリアは戻し交配で作った種なので、遺伝子に欠陥が組み込まれてしまっているのだろうと、翻訳本には記されていた。(他の本にはマイナスなことはかかれていない)天使の様なキクチャンはあっという間に帰っていってしまった。いい子すぎたんだ。もう幾年もたっているのにこたえます。

中段;自家栽培のフダンソウ&青森鯵ヶ沢 今さんの有機栽培リンゴ&私の銀杏の彫刻(銀杏は昭和飛行機の敷地にあった樹でその場所は現在、一般道の直下)

下段;自家栽培のサンマルツァーノとまと(イタリアの品種)&白茄子&イタリアから持ち帰ったポレンタ用の銅鍋 


ー画像はいずれも金井章の色鉛筆画です

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妻の父親、90才です。
今はベッドからはなれられません。
いろいろわかりますし食欲はあるのでまだまだ大丈夫でしょう。

彼と暮らし出してまだ10年になりません。
73の時、木曽の設備会社をたたんで、気候の暖かい高知へ糖尿で目も不自由になった妻と移住。
山中のバリヤフリーの部屋で24時間妻を介護の生活に入りました。
それまでは旅館や別荘地の厨房風呂浄化槽等の仕事で朝早くから飛び回っていた生活が一変し、時を過ごすのに色々と試みをしていました。紙の飛行機を何百とつくったり蛇腹の琉球のおもちゃを山ほど折ったり、若い頃は二人で映画にはまっていたので、映画スターの似顔絵を描いて妻に見せたり、
たまには東京まで妻と二人で飛行機で息抜きに出たり、、 

苦悩する?姿を見て娘が絵を進めました。似顔絵は色鉛筆で描いていたのでその続きで。75才の初心者です。
写真を選び拡大して描きました。以後凄い勢いで、筆圧が落ちて描けなくなる数年前までほぼ10年間で200まいほど。個展も10回程しました。

大正の生まれ。戦前はリアルな絵に価値があったのでしょう。そっくりに描きたいのです。

画像の左の絵は、孫が拝島大師となりの大日堂階段をのぼる写真から描いたものです。
右の絵は、彼の娘、すなわち私の連れ合いが描いた大日如来、彼ら夫婦は申年です。
その下は、
TVの上のタマチャン 
おじいさんの部屋です。

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