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311の原発事故以来、このブログに新たな書庫『原発事故』をもうけ40数日をこれに当てています。
新たな緊急事態に私自身も含めどう対応したらよいのか、その最善の方法を探し、あちこちのネットから知恵を集めました。また同じように探すブログの情報もずいぶん利用させてもらいました。
この事態の、解決法はない、もしくはどんな展開になるのかだれも知らない。
初めから分かってはいましたが、地獄になるかもしれぬ状況下でただ待つわけにはいかない。少しでもあがく、生き延びるぞという動機で、まず、より正確に事態をつかむぞ というのがこの行動の理由です。
それにチェルノブイリ事故の時にも6才の子のためにヨウ素剤を購入したり、泊り原発の反対漁民から産直の魚をいただいたりと反原発ではありましたから、今回の福島事故に際しても事態は捉えられていましたのでそれを私のブログを見てくれている若い人(教えている子たちにも)に伝えたかったのです。雨に平気で当たりながら歩くのは危険だと。あの時も茶葉から放射能がでたと。
『チェルノブイリの祈り』を何人か読んでくれています。それを今回事故の対応にどの程度 活かせるかは,,
読書会が必要な気がします。近頃ではとんとはやらないけれど。だれか声をかけてくれないかな。
さて私は美術家で、野外美術展などの企画、実行をしてきました。
多摩川河川敷で1988昭和の最後の秋の福生が最初です。
自治体から1円も貰わずに企業の協賛一口10万円、足りない分は作家に自腹を切ってもらいました。
89の2回目は作家には制作運搬などを自己負担でお願いし、印刷運営費用を協賛企業に頼むことで成立させました。(この時はアジア作家の参加も企画に入れて、北京オリンピックの美術監督蔡氏のデビュー、火薬使用の許可などに15日かけました。)
88の協賛は7社。オープニングのビールの提供ハイネケン、私のこども美術クラブ、地元の西友や酒造会社、友人の出版プロダクション、エプソン、村内美術館
89は高校の同期会へ出かけ、日興證券などなどが協賛に加わった。電気新聞という業界紙につとめる友人が東京電力に話をしてくれ、同窓の総務部長と本社であい協賛に加わることに。
91府中での多摩川展でも東電本社に電話してお願いした。多摩地域の元締めの八王子支店は、これは異例だなどといやいやながらも一口30万円の協賛をしてくれた。
92信州大町は、大町ダムがあるので当然と、協賛一口10万円を頼んだ。
当時は86チェルノブイリ事故後、私も反原発建設反対運動の署名をしていました。その原発の当事者東電を協賛(=恊働主催のようなものと考えていた)に入れていいのかちらっとは考えました。が同時代の社会の一員同士だからと思い決めました。 出品作家の誰かが何かいうかなとも思いましたが何も反応はありませんでした、、、。
有楽町の東電本社でお会いしたYさんはその後副社長になり次期社長候補だったそうですが急逝されました。(宝島別冊『原発の深い闇』P74.75)人気があった方のようです。私も好感がもてました。
東電その他企業からお金を出してもらいました。作家には制作展示を持ち出しでやってもらう。受益者は住民、子供たち。企業にはそれを後方支援してもらう。その見返りは社会的な信用。というコンセプトで運営しました。(4回展以後搬送の費用は作家に負担欠けないまでにできましたが)
作家には自己満足のためのような仕事、社会に敷衍性のない作品展示はしないでくれと討論を重ねました。今はこんな言い方が出来ますし敷衍性の内容も厳密に話せますが、当時は対等の関係の作家にこれを言うのはなかなか大変で、、。私は実質はプロデュースしていましたが、一作家として作品批判ををすることになるので、ここがなかなか難かしかった。しかしこれが展覧会全体のレベルを決めます、、、。
良い内容のイベントでなければ場所の提供者やお金を援助する協賛企業に対しても責任を取れないし、地域の市民や子供たちにプレゼントする意味がない。
仲良し会のプログループ展示を私は見ません。ほとんどはどうでもいい?自己満足の作品ばかりですから。(見なくても分かる)
原発事故の責任は東電だけにあるとは思いません。
原発を容認していたのは今の社会全体です。
兵器でない、核の平和利用という 夢の世界のイメージで。
しかし今回の事故で核は制御不能であると誰が見てもはっきりと解った以上、
原発を即時停止せぬのは、、、
バンザイクリフの反省がない。クリフに飛び込めば終わりますが、
原発事故は終わらないのです、国を越え、種別も越えて、、地球を壊しています。
なのに次の事故の危険を避けようとしないのは、勝手もはなはだしい。
脱原発を言えない政治家は犯罪者です。
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