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蔡国強でgoogle検索すると今回展示の画像が多く出てきます。
なので前記事では、ほとんどの観客がいかぬ上方.裏からの画像だけをupしました。
普通、美術家は己の美意識にこだわる。そのこだわりの密度が美をささえているのですが、彼はそこをイベント全体の出来上がり方に集中させています。
前画像の「夜桜」は彼が直接自分の手で蒔いた(描いた)火薬の跡ですから、本人の美意識の痕跡がある。絵画だと云っていいと思います。(この絵画作品の優劣にかんしてはここでは触わりません)
しかし立体造形は自分ではつくっていません。(ベネチアの金獅子賞をとった時の塑像群もそうでした。)
テラコッタの花が上からつるされたものもありましたが、横浜美術大の学生たちとのコラボでした。考えと設置は勿論 作家当人ですが、ひとつひとつのつくりは学生の手で。ただその手からの個性の出ぬような造形方法をとってはいる。こういったところにも蔡氏の頭の良さがあらわれている。決してポカはやらない。
大部屋をいっぱいに使う狼の流れも、個々の造形は他者の手でつくられている。(ぬいぐるみ一匹ずつの魅力はありません)(恐ろしくもないし可愛くもない)
空間構成(空間ドローイング)が彼が差配した直接的な関わりの結果です。
全体を捉えて作品にする、絵画出身者の傾向でもあるのですが。 私は個々の美の密度(完成度)を気にします。石、木、金属など素材対象と直接関わる彫刻家の傾向です。
森美術館の『シンプルな形』での展示物たちはそれぞれが宇宙を持っています。それぞれの造形物の密度がバリヤーをつくりだしている。ブランクーシ。聖なる空間といいます。その空間にふれると清浄化される。それが美の効用なのです。
妄想でも極論でもない。ゴッホに感受したものなら分かるはずです。
音楽で精神が洗われることを否定する人は少ないでしょうが美術もそうなのです。幼児の時代から音楽環境で理解を深めてきたのでグールドを理解出来るのですが、美術に関してはそういった環境がない。複製コピーでは脳を刺激できぬので、はっきりいうと無教養なままなのです。
せっかくの聖なる空間に入っていても、なんとなく気持ちがいいだけで終わってしまうことが多いのです。
花のひとつひとつ葉のいち枚いち枚に大宇宙があるという華厳経の世界。
花ひとつひとつの宇宙に近づけるのが造型の妙であります。
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美についての雑感
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2年前に登録してはあったもののうごかしていなかったFBですがブログ仲間がそちらに記事を出しているということで、訪問しようと始めました。
ブログと違うのは実名でアップしていること。(私はブログも作家名、準実名でやっているのですが)
ずいぶん音信をさぼっている作家とも再度交遊をはじめられました。
ダブルで記事を書くほどの余裕もないのですが・・
ということで、此の記事は、フェイルブックに流した記事をWってアップしました。
(初の試み。いろいろしてみます)
実名登録世界で、主として知り合いの美術作家が読む訳ですが・・
『シンプルな形展 美はどこからくるのか』というタイトルで、森美術館が七月頭まで開催している。 ブランクーシとアルプ。あとはコンピューターアートを使った作家がナマモノとして出現させた形(おそらく。未だ見てないのに断定していいのかな)。
私は彫刻家でして、現出させる作品を決定する際には、私がこれだ、ここだ、というカタチ、が、を、決めることで、それが作品の誕生になる。
今、日々、作品を出現させている。恐れ多くも。
ふと思う。ブランクーシやモジリアーニのやり残したことをやっているような・・と。
ミケランジェロが死の直前まで試行錯誤していた、ロンダニー二のピエタの世界が、私ら彫刻にかかわったものの、感動で涙を催す、世界・ゴウの。
運慶はその地獄・極楽まではいかなかったようにも思うけれど。(15.6cよりもちょっと時代が前なんで熟していなかったか)
前世紀末、フォルマを追求しようとした時代があったけれども、世界大戦に翻弄されて初期的な段階、提起するところにとどまって、深化できなかったように思う。
何をカタチ化するのか。絶対的なカタチが、球体とか?球体にも微妙にいろいろあり得る。(地球だって引力によってゆがみがあるはずだし、そんなに簡単ではないと思う)
なんでもありだけれど、そんなに単純ではない よ。
彫刻は表面処理(カッコをつけること)で成立はしない。中がからっぽのものは・・
その物体が占める空間、バリアー、エリアーデ流に云えば聖なる空間、それがすべてだと思う。
森美の形展は行きたくないが、書いちゃったから行くしかないのだろうか。
日本に彫刻言語があったことあるのだろうか。
素敵な世界なんだけれど。
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なんと、録画が残っていないからなのだそうです。
1227話中の8話だけしかないのだというこを知り、びっくりしました。
辻村ジュサブロウの人形による「新八犬伝」も464話中4話の残存だとか。
放送用テープは使い回していたとか、、
でも、TV番組製作は、垂れ流しし、消滅するものとして放送していたという、本質的な問題なのでは無いでしょうか。
週刊誌と書籍、映画とTVの存在のあり方を思わせます。
製作現場は真摯な取り組みだったのでしょうが、局の方針はどうだったのでしょう。
子供向けの番組は気にもされていなかったのでしょうか。残念です。
この情報は図書館から借りた以下の新書から
「アーカイブ」とは、従来図書館や博物館が担ってきた、過去の文書や映像・音楽などを収集・公開する仕組み。いわば「知のインフラ」であり、その有効活用によって社会が得られる利益は計り知れない。しかし近年、アーカイブのデジタル化
に伴い、これら「情報資産」を巡る国境を越えた覇権争いが激化している。グーグルやアマゾンなどアメリカ発の企業が世界中の情報インフラを掌握しつつある一方で、お粗末極まりないのが日本の現状。本書では世界を巻き込んだ「知の覇権戦争」の最新事情を紹介し、日本独自の情報インフラ整備の必要性を説く。
著者は国立国会図書館の審議委員等も務めるかたでデーターも今年の前半のものであるレアものです。
2004「グーグルブックス」計画 全世界の書籍1億3千万冊をスキャンしデジタル化してネット上で全文検索を可能にしようという計画が発表され、既に3000万冊がデジタル化済みと言われる。
これの対して2005年、当時フランス国立図書館館長のジャンヌネーが『Googleとの闘い』で「プラットフォーム(ネット上の場)による文化の一極支配と序列化への危惧」と警鐘をのべた。
内容はお読み下さればいいのですが、二三、抜き出しますと、
①グーグルが広告収入に頼る営利企業である以上、広告収入が増えやすい種類の書籍がより電子化され易いだろう
②同様にそのような書籍が上位に表示される様なアルゴリズム(順位決定方法ー公開されていない)が採用されやすいだろう
③英語書籍から優先的にスキャンされ、非英語の書籍の影響力が漸減するだろう
④また、ほとんどの人が検索上位数点しかクリックせずその検索数も参考に順位がきまるとすれば、上位は容易に入れ替わらず固定化されてしまう。「新規参入者・少数者・周辺者を犠牲にして成功が成功を生むシステム」
(ネット検索、最初の1頁目で94%のユーザーはすませ、次頁に飛ぶのは6%に過ぎず、しかも上位1〜3位でユーザーの80%のクリックを占有している、という調査結果が別頁に )
Coursera - Official Siteスタンフォード大 東大等110校 718講座 普段こういった書籍は手にしないが、智のインフラも別の新世界が出現してきている。大変だが、知っておかないとまずいとは思った。
美術はモノの世界。3Dが進もうが触覚は無理であろうし、生の視覚、嗅覚の揺り動かしには近づけない。
情報として想像領域で追体験は出来ても、自然の美、自然の力、生の体感は難しいでしょう。美術の存在価値は、ネット世界の対極にあるのかもしれません。
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アメリカのTV ドラマや映画をみていると、’’ビューティフル’’という言葉をよく耳にします。
日本語でいうところの’’うつくしい’’でしょうが、近頃この言葉を耳にする事はほとんどありません。
’’ビューティフル’’を訳すにも、’’いいね’’という相づち程度にしています。
個展会場ではいろいろな方と作品を媒介としてお話しすることができます。なぜこのような仕事をしているのかというのが一番の関心事だと思いますが。
今回、私がいちばん話したことは、ものごとの価値判断をするときに『美しい』という基準を使ったらどうかということでした。
現在の日本の価値基準はなにか?金額が高いものは、安いものよりも価値が高い。お金ですべてを判断しているということです。そこまで言わなくても、金額でものの価値判断が出来るということを、殆どの方が否定されません。
ところが『美しい』という価値基準を使うとこの泥沼から一瞬にして抜け出す事ができるのです。『美しい』は、お金で換算できないのです。
例えば建物を建てて入り口のタイルを何にしようかと迷ったときに、ほとんどの場合、経済的かどうかを最終判断にするでしょう。耐久年数は、メンテナンスにいくらかかるか等々。見栄えが良いとか癒されるとかいうことがそれ以外の判断材料にはなるでしょうが。AのほうがBよりも「美しい」からAを、ということにはなりません。ことに公共の場合は余計な判断だと思われるでしょう。
『美しい』は一人一異なりはしないのかと言われた方がいました。私は確定した美の基準はあるのだとお答えをしました。
人類が数千年にわたり築き上げ、残してきた文化財、美術品がそれです。
国内だと国宝や重要文化財に指定されているものが、この国の美の基準をつくる基底となっています。
正倉院の品々があり、その後何百年もかけてそれを追い求める人たちがいて、今の日本の工芸が世界に誇れるものとなっているのです。
フランスのルーブル美術館にある山ほどの美術品が『美』の世界基準なのです。
『美しい』をお金に換算出来ません。たとえば、サザビーなどの美術オークションという市場では、一枚の絵にたいして何億という価値換算は行われていますが、それは絶対的なものではなくて、欲しい人がいれば2倍にも3倍にも一瞬にして変わるのです。それはマネーゲームの範疇を越えています。なぜならば、決して手放さない人がいるとゲームになりませんから。
その意味で『美しい』は絶対価値だともいえるでしょう。
一人一人の価値もお金に換算できないように、美術品もひとつひとつ別々の価値なのだと思います。ただ、その仕事がより美に近づいているかいないかの程度の違いはあります。しかし、美への近づき方、ルートも異なりますから、その判断は難しいのですが。
人にはそれぞれの顔があります。その顔の表情も刻々と変わりますから良し悪しは判断しにくい。しかし、その方の 今の顔は美しいという判断はできるでしょう。その時の環境や身心の状態を意志でコントロールできている状態ならば美しい人になれているでしょうから。表情も造形も。(これも金額はつけられません)
すべての物事の判断に、美しい か 美しさに欠ける かを用いるならば、世の中はもっと素晴らしくなると思います。醜いことにも気づき、それを止めようということにもなります。
同じ金額を使ったとしても、もっと住み良い街になると思います。
ビューティフル ベッロ ベリッシモ 『うつくしい』と連発してみませんか?カワイイもいいですが。
最後に 本屋の店頭に’美しい日本’という新書が並んだ時期もありましたが、美しいをこのように抽象的に曖昧に使うのではなくて、具体的に用いるのです。’’この茶碗はうつくしい’’が’’その茶碗はうつくしくない’’というふうに。
なにが美しいか、日々勉強で探してみてください。
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2月末に
美術が分からない。良い悪いの判断はどうしたらいいのでしょうかと、助成金予算書ヒヤリングが終了したあとで、担当官の一人から聞かれた。
お役人には珍しい素直な質問で好感が持てました。
「美術に関して判断基準が分からない、どうすれば分かる様になるか。」
「良いものをたくさん見ること。これは見るべき良いものだと導いてくれる先達がいるのが最上なのですが。
国宝、重文は誰から見ても美的な国の宝なわけで、疑わずにこれは美しいものだと見れば良い。」
次の方が待機されて時間がないので簡略に答えました。
近代や海外のものに関してまでの話をする時間はなかった。
今時のお役人ですから学業成績は悪くはなかったはずです。
にもかかわらず、「美」の判断が出来ない。
生誕〜成人迄の教育、ことに国民全員が受ける学校教育での美術教育は?
今の学校は絵を描く時間を持っていない。交通や防火のキャンペーンポスターをつくる授業時間はあります。美術などの役に立たぬものは減らして産業に役立つものにあてるという国の方向に合致しています。デザインはこの路線上にあります。琳派、浮世絵、アニメ、漫画などを日本が世界に誇るデザイン領域だという論調がやたらに目立つのもこのことと関連します。
絵を描くという行為は、防火ポスターをつくるのと何が違うのでしょうか。
(防火)ポスターは、前提としての決まり事がありますね。’’火事 ’’防ぐ’
ということを入れねばならない。そこで’’火事’’とはそれを’’防ぐ’’方法はと。
脳を働かせて、それまで獲得した知識を並べ、組み立てて作り上げる。手で描いても良いし、コラージュで組み合わせても良い。写真などの切り紙も使えますし。これは制作者がもつ現在の頭脳の呼び出せるもので作り上げられます。だから成績の良い子が知恵を働かせられれば何とかなってしまします。
さて’’絵’’を描くとはどういうことなんでしょう
(たとえば花や果物の写生を思ってください)
’’白紙’’があり’鉛筆や絵の具’そして’筆などの道具’があります。
’’白紙’’という平面が目の前にある。
どうしようか この何を描くのか どのように描くのか
立ち止まってそこから踏み出せない子がいる
ほとんど考えずにさっさと始める子もいる
年のいかない子ほど (筆が)立ち止まる時間は少ないし、描く時間も少ない。
情報量、理解する力が少ない、考える時間も少ないからすぐに完成したと。
もう少し年がいくと目で見えるものが増える。例えば 雌しべや雄しべまで見えてくる。そこについた花粉に目のいく子もいる。薄い陰まで見える子もいる。
目の情報量、脳の情報量でもあるのですが、目の理解力ともいう言い方もありますが、それはそれぞれで全く違うけれど数量化できないので問題にされていません。
その目の力、脳の力と言っても良いと思いますが、絵を描く事でそれは分かります。一人の子と、絵を描く行為を何年もつきあうとそのことがよくわかります。それが十人二十人と見て来たので確信がもてます。
義務教育学習の美術教育では最近は絵を描く授業時間はほとんどないようです。組み立てるの工作ものやポスターの時間でいっぱいでしょうか。
白紙に筆をおく最初のプレッシャーを越えることは誰でもが大変です。アドレナリンの出し方をおぼえた私らはすぐに戦闘態勢の静寂な領域に入れますがこうなる迄いろいろありました。ジンマシンを出すという大先生もおられたくらいです。
クラスの生徒全員をその瞬間持って行くのが、プロの技。強い管理下におかれた今の教員には望めません。
誰か一人がプレッシャーに負け悪い冗談やちょっかいを出すとあっという間に総崩れになり、心身はもう絵を描く為の状態にはなりません。
絵を描くということは目を使うこと、目が情報を読み取ること。脳の情報を総動員しながら。そして新しい’わかり’がある。瞬間瞬間どんどん増えて行く。
誰も助けてくれません。自分で決めて自分の手と頭で描く。
見る見るうちに成長します。(絵を描くことを通して他のお勉強の力も増えて行きます。子供クラブほしの子たちを思い出しながら・・)
いまの日本が足りないものは 美術教育、絵を描くことをしなかったというそのことに原因を持って行けそうです。
自分の頭で考える。自分の行いが出来るなどなど。
余分な話
中央にいる官僚、政治家、企業責任分野の方などは成績優秀の方がほとんどでしょうか。学校時代の成績表で他はオール5でも美術は3という方も多そうです。まあポスターで張り出されたとかはあるでしょうが。
考えてみると脳の一部の発達が偏っている。発達を止めてしまっているということにもなります。なかなか世の中が良い方へ向きにくいのもこの辺に原因があると思っています。
(私は音痴でどうも音楽は苦手だと恥ずかしそうに言う方でも、あんな絵はわけがわからん。何を考えているのか。と威張りながらいう日本の現状です。)
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