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それを言葉化してもらいました。
とても気に入っています。
秋の発表に使わせてもらう、その前にここへ載せてしまいます。
了承済みです。(渋々?)
すぐれたアートは長命なものです。
中でも彫刻は、素材的にも長い時間に耐えうるようにつくられており、4千年5千年も元の姿をとどめることが出来るものもある。石に比べれば木はやや短命とはいえ2千年もながらえる。元々私たち同様、地上の生き物であったことを考えればその命の長さは驚きにあたいする。
本質的には、木は大地から切り離された時に死ぬわけだが、木の不思議はその後も何百年経っても、生きていると私たちに思わせることだ。歴史的建造物の柱や壁ふれた時、私たちはその木が死んでいるとは思わない。その内に脈打つ生命の流れを感じ、はては地球上の生命すべてと、つながっているような共感と安どを感じる。
G が木を彫ることから離れられなくなったのは、こういった、誰もが感じる木の力に従ったからにほかならないであろう。
圧倒的な木の力に押しつぶされずにノミを入れることは決して易しいことではない。相手は数十年も数百年も、この地球に生きて来た強者である。やみくもに抗えば怪我をする。押さえ込もうとすれば木はふっとただの”物”になって口を閉ざしてしまう。
かたくなに口を閉ざした木の作品に、G は日常のなかで折々遭遇するという。それは人間のエゴの前に、”物”として死んでいる木の痛ましい姿である。
G とてエゴから逃れられている人間ではあるまい。彫刻をこころざしたことこそ、彼の自意識とエゴの強さを示しているといってよいであろう。
しかし、木に対するとき彼の中からそういった負のエネルギーは消えていく。木を怒らせないよう、木に嘲笑されぬよう、木に「その気」にさせるように、注意深く己れを刻み込んでいく。そういった仕事が出来るようになるには、長い年月と、多くの敗北の経験が必要となる。この楠とうまくやれたからといって、あの桜とうまくやれるとはかぎらない。お互い一個の生き物同士である。数百年も宇宙の力をたくわえた死んでも生きているという不思議の前に、たかだか5、60年の齢の身で挑むのである。
木に寄りそい裸になってそのエネルギーを受けて、共に仕事を成しとげるのである。エゴなぞというものが入り込む隙はない。 石や鉄、ブロンズ等の作品は、それらの素材を御する技術と、作家の哲学(美学)が大切になるだろう。
ひきかえて、木を彫ることはそれよりなにより、素裸になって木に寄りそう姿勢が必要になる。円空仏や木喰仏が生きながらえるのは、作者のその姿勢によって木と一体になったエネルギーが渦巻いているからだ。
木の力とはそのまま森の力である、大地の力であると私たち人間は感じて来た。縄文の昔にも人々は森と木に寄っていた。ヨーロッパでも新大陸でも森と木にエネルギーをもらって来た。現代でも人々は森に入って生気を取り戻し,森の力が自然農法やビデオナミ農法をささえている。
木や森の、その言葉を聞きとることは難しい。しかし木に無心に向かい合うとき、人は瞬間、己をすてることが出来る。その瞬間を経験すること、その経験を重ねることが、人を変える。G が、作品に静かに触れて欲しいと願うのは、そのことなのだ。
木の軽さ 重さを掌にのせる
木の温度(温かくも冷たくもない)を計る
木の木理にふれる
木の香をかぐ
木の色をみる 経年の変化をみる
木の滑らかさ粗さをみる
木の刃あたりを楽しむ
そんな誰にも出来ることをする。それが木に寄りそうことである。寄りそえば、木は語りだす。「私が彫刻することは、見えない木のパワーと知恵を表にだし、あなたに見えるようにすることです。木はなかなかに大声です。」とG はいう。
西田 听
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