「出開帳」とは大都市に会場を設けて、寺院の秘仏霊宝等を公開する行事で . . . . 成田不動や信州善光寺の出開帳が評判になった。出開帳の会場では、曲芸などの出し物が披露されるなど、当時の人々にとっては信仰とともにレジャーの場でもあった。
....本所回向院を会場とし...約3か月にわたって...法隆寺東院仏舎利を本尊として、玉虫厨子、橘夫人厨子、夢違観音像、聖徳太子直筆「法華義疏」を公開。....将軍綱吉の生母桂昌院は江戸城にて宝物を拝見し、寺に三百両を寄進。他にも大名、旗本らの寄進が....出開帳は成功裏に終わり、法隆寺は念願であった堂塔の修繕を行うことができた。
....明治十年天皇家へ献納された品の大部分は戦後に国有財産となった。 (法華義
疏や紙幣のデザインに使用された「聖徳太子及び二王子像」など10件は引き続き「御物」のまま...
法隆寺献納仏は「出開帳」
円空仏は上京(入京)。全国を回っていても生前に足を踏み入れた形跡はない?お江戸へ。
一般に「円空と木喰」と列び称されます。
「円空1632-1695」は美濃の生まれの遊行僧、作仏聖です。
「木喰五行(明満.行道)1718-1810」も遊行僧、作仏聖、かれは甲斐の出です。
民芸運動の推進者であった柳宗悦が大正13年に世に送り出し「木喰」の名で呼ばれますが、木喰とは修行のひとつ「木喰行」のことですから木喰某とよばれる行者は何人もいます。円空のことを木喰円空と呼んでもあながちはずれてはいないでしょう。研究が進んできたいまの時代には「木喰」でなく「木喰五行」と正確にきすべきだと思います。
彼らよりさきんじて(木喰)弾誓1551-1613という聖がいます。
佐渡信州甲斐相模そして京都古知谷で入定した。、
その血脈から万治の石仏1660(万治三)が生まれたと推定されている。
木喰山居1665-1724は安曇野の弾誓寺で入定している
木曽御岳山中興の祖に秩父の木喰普寛1731-1801という行者もいる。
江戸幕府の本山本寺末寺、本末関係の支配では律しきれない世界があった。
行者、聖の世界である。かれらは世を拗ねる敗残者変わり者ではない。米や麦など五穀を口にせず、蕎麦や木の実を火にかけずに食し、単衣で洞窟修行するような厳しい修行を続けたにもかかわらず、おしなべて長命だったのは人々の支持があったからこそだろう。
円空の造った像が何千体も確認されていますが、作仏も修行のひとつで、千体仏、万体仏を課しているわけです。常念仏という行もある。あみだ、みだ、みだ、、などと唱える。
主に,五来重著作集で教えてもらっています。
弾誓派は、文書を残さず直接に伝授しながら渡すので支配層でない歴史を知るのは手間がかかります。
その意味でもモノとして残った仏像から彼らの思いを受け取り感じることから始めるしかないのではと思います。
左:両面宿儺坐像(りょうめんすくなざぞう)江戸時代・17世紀 総高86.9cm 千光寺蔵
右:如意輪観音菩薩坐像
江戸時代・17世紀 総高74.8cm 東山白山神社