恐ろしや木曽のかけ路の丸木橋 ふみ見る度に落ちぬべきかな(千載集)空人
桟やいのちを絡む蔦かづら (更科紀行)芭蕉
かけはしや水へとどかず五月雨 (かけはしの記)子規
数多を古歌にまた俳句に詠まれ天下の名所史跡として世に名高き「木曽の桟」とはこの地である。
木曽の桟とは対岸へ架した橋ではなくこの絶壁に平行して作られた桟道であった。 往古に丸太の柱に板を敷いた桟道あったが正保四年に焼失した為尾張藩が直轄工事として木曽の山村、千村両家中に命じ慶安元年に終わりの十兵衛により当時の金子八百七十三両を費やして石垣を完成してた。
長さ 五十六間(102 m)
巾 二丈二尺(6.7 m)
高さ 七間(13 m)
左の岸壁に彫られた銘文がそれである。なおこの岸壁には往時の柱穴や工事担当者名 寛保元年修理の銘文が刻まれていたが上部巨岩崩落し通行安全のためコンクリート防護壁が施工されその中に埋没された。
この地の建立されていた明治天皇駐輦碑 芭蕉句碑等は総て橋を渡った対岸の地に移された。現在も対岸から保存された慶安の石垣を見ることができる。
-----昭和五十七年十二月吉日 上松町教育委員会・上松町文化財審議委員会-----
対岸からの風景(道路標識の左に銘板、その左壁脇に江戸時代に刻印された岩)
別の説明板もあった
[ 長野県史跡 木曽桟跡 昭和41年3月31日選定]
桟は、けわしい道に橋をかけ、わずかに通路を開いたるもので、木曽桟は歌枕にもなっていうと共に、県歌「信濃の国」に歌いこまれており、寝覚の床とともに木曽路の旅情をあたためたことでもその名が高い。
道はかわしい岩の間に丸太と板を組み藤づる等でゆわえた桟であったが、正保四年(1647)にこれが通行人の松明で焼失した。そこで尾張藩は翌慶安元年(1648)に長さ五十六間(102m)中央に八間(14.5m)の木橋をかけた石積みを完成した。このことが、今も大岩壁と石垣に銘記されている。寛保元年(1741)の大改修と、明治十三年(1880)の改修と二度にわたる改修で、木橋下の空間はすべて石橋となり、残されていた木橋も、明治四十四年(1911)には、国鉄中央線工事のため取り除かれてしまった。現在、石垣積みの部分は国道十九号線の下になっているが、ほぼその全貌が完全な姿で残されていることが判る。
この史跡は、慶安年間に築造された石垣を根幹とし、その後いく度か改修された遺構をほぼ完全な姿で望め往時の木曽路の桟を偲ばせる貴重なものである。
江戸の時代には、京都と結び、参勤交代の大名行列も通ったメインロード。幕末の将軍家への和宮降嫁もこのルート。荷馬や人足などの労役に駆り出され大変だったようです。
江戸京都間の最初の鉄道ルートには東海道と並び中山道案もあたようです。徒歩で旅する時代には、増水などで度々足止めをされる東海道よりも利用し易かったのかもしれないと想像しています。(木曽谷の天候は山に囲まれているためなのか割と安定しているのです)