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韓国国立中央博物館への第一の目的は、館所蔵の金銅仏を、実際にみるためでした。
ネットや書籍からでもかなりのものは拾えるのですが、実物を目の前で見ることで、脳に強くインプットされ、次の何らかの機会に引き出すことのできる情報になるのです。
本やpcからの平面的な情報も、実際にナマモノを見た幾多の経験があってこそ、具体的な立体物として、脳へ情報のひとつとしてしまい込むことが出来る。
しかし実際にナマモノを経験するのとは大きな違いがあります。平面図からは、大きさ、質感、量感、色相等にいまひとつ想像力が及ばないのです。
ということで、目に焼き付けるために、実物を見にでかけました。
常設展示室三階の305白磁304粉青沙器303青磁302金属工芸と歩き
301仏教彫刻の部屋で小金銅仏をみて次に進もうとすると、昼食を招待してくれその後渋滞の中2時間かけてここまでつれてきてくれた李さんが、こっちを見てないと示す。
大きな曇りガラスで隠された空間にこの像がありした。
半跏思惟像三国 7世紀前半・h93.5cm・金銅製 ・国宝 83
半跏思惟像は片足を他の片足のももの上に組んで座り、指を頬に当てて物思いにふけている姿が表現されたものをいう。これは人間の生老病死について悩み、瞑想にふける出家前の悉達多(シッダルタ)の姿に因るものである。中国では5~6世紀に主に制作され、わが国では三国時代の6~7世紀に大流行した。
国宝第83号の半跏思惟像は大きさが93.5cmで、三国時代の金銅半跏思惟像の中で最大である。頭上に三山冠、または蓮花冠と呼ばれる低い冠をかぶっており、上半身は裸でシンプルな首飾りだけを着用している。単純に表現されているがバランスの取れた体、顔に湛えたかすかな微笑みは、宗教的な崇高さに満ちた美しさが引き立つ。
ミロのビーナスがルーブル美術館の一室を占めているように、この菩薩像も独立した空間で展示してあります。この館のナンバーワンです。
京都太秦の広隆寺の弥勒菩薩と同じ頃のものでしょうか。木製ですが他に類例のない松材のために渡来仏だという説が有力です。(植民地支配の歴史を持つ優劣意識から抜けきれずに時々複雑な展開をみせますが。)
以前の国立博物館の展示空間は悪くはなかったのですが、景福宮の旧日本帝国総督府の建物だったから、漢江近くのここに新美術館をつくったのです。
さて、他の小金銅仏の展示は別の機会にアップすることにして、
この室の先(逆回りですが)にあった2mほどの石仏三体に目を奪われました。
甘山寺跡石造弥勒菩薩立像・阿弥陀菩薩立像 統一新羅 719年頃・慶州市甘山寺跡・h270/275cm・花崗岩 ・国宝 81/82光背の裏には仏像の発願者、制作目的、制作者、制作時期、制作背景などが詳しく刻まれている。その銘文によると、執事省の侍紂 金 志誠(キム・ジソン)が聖徳王18年(ソンドクワン、719年)、亡き母の冥福を祈るために弥勒菩薩を、父のために阿弥陀仏の制作を始めたと記されている。しかし、翌年、制作途中に 金志誠 も亡くなってしまい、彼の冥福をともに祈ることになったという内容である。
この8c初頭の二体の仏像から、白鳳時代の香りがただよてくるような想いがしました。
薬師寺金銅の如来、興福寺宝物館の山田寺仏頭、あるいは法隆寺の夢違い観音等から受ける華やいだ匂い。(これが私の感じる奈良の匂いといってもいいかもしれない。)光背の優しい文様からことさらに感じるのです。
660年に大和政権が連携していた百済国が滅び、その時の敵対していた新羅が半島を統一した時代に入ってから造像されたこの石仏ですが、日本の700年頃と同じ風(思想)を感じました。(新羅が唐との緊張関係に入り連携したころもありました)
統一新羅時代9世紀 Vairocana Buddha (毘盧遮那仏)
頭部の奥行きの深さが、日本の弘仁貞観仏の重量感に繋がるものを感じ、興味をもちます。空海が統合した山岳仏教 密教の時代の一木づくり木彫仏は、強さ、重量感が特徴です。京都高雄の神護寺や新薬師寺の本尊、観心寺。そして密教寺院東寺講堂の諸仏は東大寺造仏所の仕事故、優品で雅びな感じろもありますがやはり重々しい強さをもっています。
その時代の共通項を感じるのですがどうでしょうか。空海の持ち込んだ密教と新羅華厳教の関係は?研究者でないので裏付けは一切ありませんが。
毘盧遮那仏は東大寺大仏がそうです。そして密教の大日如来はマハーヴァイロチャーナだと最近読み出した『華厳経入門』(木村清孝著 角川ソフィア文庫)にありました。中国大陸の仏像もみなければいけませんね。そのうち西京や敦煌へ。
(美術館記事はつづきます)
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korean memo
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ビザは観光目的ですが、今回は見舞いに行ったので観光はしません。
でも美術館二カ所にはつれていったもらいました。
ここで紹介するのは
湖巌ホアム美術館 HO-AM ART MUSEUM 호암미술관
ここはDohさんのアトリエからそれほど離れていない場所にあるのですが、今回は観光案内書も地図も会話帳も持たずにでかけているので(韓日辞書一冊のみ)ソウル市街地からどのくらいなのかさっぱり分からず、昨日からgoogle map で調べていますがハングル文字なのでdohアトリエの場所がまだ特定できないでいます。
この一帯は、サムソン(三星)財閥所有地で、この先には大きな遊園地エバーランドがあり、日曜日とあってこんなに車が集まっています。(白い虎を繁殖させてもいるそうです)
ホアム美術館はサムソンの別荘の場所だそうで隣の敷地は閉じられていて館のオープニングセレモニーはそちらで行ったといっていました。創業者の李秉?(吉が二つ)(雅号の湖巌がこの美術館の名前になっています)彼の銅像が塀の向こうにみえました。
高速道からはなれ里山に入り、しばらくいくと左手に湖がみえ植樹された桜の並木が続き、パーキングがみえてきます。館の入場料は込みだといってしたが、すべて出して下さるので値は分かりません。
どこにでも松を見かけましたがここの樹姿のものを他所では見かけませんでした。
あちこちに展示された石像 気持ちのよい空間
静かな奈良の寺の空気を思い出しました。
しばらくご覧下さい
wikiによるとホアム美術館はソウルの南40kmの京畿道龍仁市にあります
www.hoammuseum.org/ 호암미술관 | Ho-Am Art Museum
サムスン文化財団は、ソウル市内の南山と漢川の間、国立中央美術館の近くに新しい美術館
サムスン美術館リウム、Leeum, Samsung Museum of Art
今回は行けませんでしたがサイトで見ると、青磁の優品が多くありそうです。(中央博物館よりも良さそうだ)次にソウルへ行けたら是非尋ねようとおもっています。国立現代美術館へも。 |
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カッチー 鵲かささぎ リムジンバスをスヒョンで降り、出会えた。17年前に出会って以来だ。
ムクドリと鳩の間くらいの大きさ
飛ぶ姿が、飛翼と長い尾羽をのばし、青と白のコントラストが鮮やかでがとても美しい
市の鳥に指定されていると聞いたような気がするが?人を怖がらずにあちこちで見かける
鴨 オ-リ も愛されています
車道側のウインドウはどんなだったのだろうかな
下は散歩中にみかけた別の店
美術館見学の後、奥様も合流し夕食もごちそうになりました
鴨の焼き肉とマッコリをご馳走になりました。
マシッソヨ美味しかった
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2月2日 am.4:30起床
>コンビニでおにぎりとオレンジジュースを買う
>5:00バス停留所
>5:10満員で次のバス待ち
>5:20乗車12000ウォン(1200円)
降車し、写真を撮って、あれ? 身が軽い? しまった!・・・
リュックを座席に置いたまま降りてしまった。
迎えにきてくれたNさんとタクシーで終点のバスターミナル迄向かいました。
あっ、あの運転主さんだと、ダッシュ。
無地、パスポートも手元に戻り、先ほどの停留所まで地下鉄で3駅を帰りました。
ナントモハヤ・・・
>am.6:15 ? 仁川空港着 > 8:30アシアナ航空 搭乗
> 9:00離陸
行きは10列座席の真ん中でしたが、今朝は窓際をセレクトできました。
(機内)食事の後、しばらくうつらうつらしていたら、日本の上空、それも太平洋のようです。
どうやら利根川河口銚子のようなきがします?
しばらく海岸に沿って移動し右に旋回し
> 11:10 成田空港着陸
> 京成本線で日暮里駅 > JRお茶の水
>駿河台下 文房堂ギャラリー 阿部浩個展
> 九段下駅..5:30帰宅
1/29より4泊で韓国の友人宅へ訪問。突然の病の知らせで会いにいってきました。難しいところですがとりあえずは希望を持ってやっていました。
お見舞いなので遊び回りませんでしたが国立中央博物館等で金銅仏や石仏はみてきました。(この報告は別の機会に)
最近は車で移動する機会が減っていましたが、今回は移動のすべてが車でした。 制限時速が80kmの道路が多く車線も多いので隣の座席でも緊張します。 どの車も飛ばしているので、遠慮をして車線を譲るようなこともない。4車線道路だとバックミラーよりも左右のミラーをチェックすることが必要のようです。
韓国の車は右側通行、そして交差点では常時右折可。横断歩道をわたる時には注意が必要です。
これは土曜日午後の高速1号線(ソウルー釜山)をソウル方向へ向かい渋滞中の画像です。
軽自動車はほとんどみかけないしガッチリした車が多いのはどうやら身の安全のためのようでした。
この車とハングル文字の洪水の酔いからまだ抜けきれていません。
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週刊金曜日2014.10.27が特集を組んでいる。
私は新聞TV週刊誌を読んでいないのですが、朝日新聞の慰安婦報道が餌食となっていることは知っています。そしてその誤報道を批判することで、日本軍に従軍していった慰安婦(これは植民地であった朝鮮半島の婦人ばかりでなく日本婦人も含みますし台湾や満州の方おられたことでしょうが)の方たちに対しての思いは消されている(意図的に)ことに違和感を覚えていました。 『西日本新聞』の宮崎記者が9/13記事で
「一部メディア批判加熱」「まっとうな枠超え異常」「人狩りのような強制連行と業者に騙され意に反して慰安婦を続けさせられた『強制性』の違いは何か。『強制連行』はないと日本が主張することを国際社会はどう受け止めるのか」と記事で書いたそうだ。
ドイツではナチス政権のユダヤ人ジェノサイドを知っていても知らない見ない様にしていた。日本では一億火の玉からはずれる言動は家族の為にもしない様にしていた。その結果は火の粉は自分たちに降りかかった。
ヘイト・スピーチに会わぬ様に身を避けていたら、気がついたら我が知り合いたちが戦闘員となったり銃後の挺身隊として、同じ世界に生きる他の地の人を傷つけるはめになる。即ち我が身を傷つけるのだ。
従軍慰安婦という国家認定の制度は確かに存在した。
これを(積極的に)肯定するものは戦争には必要だとかいう。
今の自衛隊や米軍にこんなことが許されていると思うのでしょうか。だいたい身内のご婦人方が男の性だからとそれを認めると思っているのでしょうか。すると、あの時代は許されたといけしゃーしゃーという。しかし私は知っているあの女性かもしれぬ人が従軍慰安婦として軍艦で南方戦線に移動し、扉の前で列を作る兵隊を何人何十人も相手する性奴隷として奉仕?しているなんて耐えられない。
こんなことを戦争下で行っていたのだから続かないですね。
上野千鶴子さんも『「報道」検証より「慰安婦」検証を』として書いています。
『・・1991年「慰安婦」被害者の女性たちの証言が初めて歴史に登場したとき、多くの人たちがそれに衝撃を受けた。あの当時、日本国民のあいだにあった、何かしたい、せずにはいられない、という気分を思い出す。たとえどんな批判を受けようとも、「女性のためのアジア平和国民基金」に5億7千万円近い浄財を寄せた多くの国民の気持ちも同じだったろう。・・』と。
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