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「……此処が、お前の家か?」
うむ。懐かしい。本当に、懐かしい。この庭で私はご主人とよく遊んだのだ。この家が、私とご主人の城だった。しかし――この状況は何なのだ? 山から下りると、私はそこが嗅ぎ慣れた匂いの町だということに気がついた。心臓が高鳴る。尻尾が踊る。そこここから感じる、仲間たちの匂い。ライバルだった彼の、縄張り主張。私がいない間に広がっているようだな。――そう。此処は、間違い泣く私が住んでいた場所だった。 ここまで来れば大体分かる。分からないが、感じる。私とご主人が共に生き、共に暮らしていたあの家が。 「あ! 待てよ!!」 少女が後ろから叫ぶが、私はそれにかまっている余裕はなかった。血のように赤い夕焼けが、いやに私の心をかき乱す。いてもたってもいられなかった。早く、ただ速く。――ご主人の元に、向かわなければならない。それだけが、私の心の中に響いていた。 ――そして、私はたどり着いた。懐かしい家、懐かしい庭、懐かしい匂い。確かに記憶の中にある通りの、私の、ご主人の家だった。……だが。 私の知る家であると同時に、私の知らない家だった。 「……こりゃ、見るからにあれだな。……事件現場、だな」 ……… 私が住んでいた家は、良くわからないテープで囲まれていた。扉は閉め切られているが、何人もの知らない人間が入り込んだ匂いがする。……少しだけ、不快な気持ちになった。 「あ、オイ待てよ!」 私は少女を無視して家の中へと入った。……するりと体を家の中へと潜り込ませる。 「ちょ!? ……ああクソ、チョット待てよ!」 少女が何かを言っているが、申し訳ない。今の私には、それに構う余裕なんてなかった。時間が無いのだ。少しずつ、私はこの家で有ったことを思い出し始めている。……自分が何者かになっていくかが、分かり始めていた。 ……死臭。家の中に漂う空気は、まさにそれ一色だった。立ち込める、濃密な死の気配。匂いというよりも、魂に直感させるソレ。私は、そのむせ返るような死臭の中で、私のご主人の匂いを探した。 それは、一階のリビングにあった。テレビを見るのが好きだったご主人の、良く座っていた長椅子。ご主人は、私と一緒にそこで寝るのが好きだった。私も、そんなご主人と一緒にいるのが好きだった。……その椅子に、ご主人の匂いが色濃く残されていた。 一緒に、一段と濃い死の匂いも。 そう。 ご主人は此処で殺された。 ……そして、微かに、本当に微かに残るあの男の匂い。 私は、初めからあの男がどことなく嫌いだった。最近、ご主人の友達になったというその男。最初に家に来た時は、思わず吠えてしまったほどだ。しかしご主人に窘められ、空気を読む犬である私は黙るしかなかった。ご主人が大丈夫と言っているのなら、それに従うのが私。 ……思えば、それこそが最大の過ちであった。 あの日。 あの日、その男はご主人のもとに訪れた。笑顔ではあったが、その背後にとても大きな悪意を感じた。普段は小さかったそれは、その日まるで月が満ちるように強大になっていた。 だから私は、全力で吠えた。 『ご主人、コイツはダメだ! 離れて!』 しかし、それがご主人に伝わることはなかった。私は人の言葉を話せない。人は私の言葉を理解できない。そんな事、とっくに理解していた。それでも、私は吠え続ける。奇跡でも何でもいい。ご主人にこの思いを伝えるために。 ……しかしそれは実現されなかった。あまりにも騒いでいる私を見かねたご主人は、檻の中に私を入れる。そうなってしまっては、私は黙るしかない。私は男の事を睨みつけながら、ただひたすらに何も起きないように祈りつつ、時を待つしかなかった。 ……そして、それは起こった。ご主人の宝物を見たいと言ったその男。ご主人が気をよくしてそれを持ってくると、その男は大層喜んだ。……その手に、ナイフを握って。 それは一瞬の出来事だった。ご主人の首を切る男。何があったかわからず、長椅子に崩れ落ちるご主人。あふれ出る、黒い液体。 ……私は、その光景を見た瞬間、全力で檻にぶつかっていた。体が軋む、痛む。それでも私は、何度でも檻にぶつかっていった。一瞬の後、檻のカギが外れ私は飛び出す。 私が暴れても大丈夫だと高をくくっていたのだろう。男は……ご主人の仇は、驚いて体をこわばらせていた。その腕に向かって、私は全力で飛びかかったいく私。 確かに、私の牙がその腕に食らいついた―― ――そこまでは思い出した。そこまでは思い出したのに、その後記憶はぷっつりと切れる。後の記憶は山の中で彷徨っていた事しかない。どうして山に来たのか、仇がどうやって逃げたのか……まったく思い出せない。 否。……思い出す、意味が無い。
まぁいい。私は此処に帰って来たのだ。ならば、後は復讐を果たすのみ。今度こそ、あの男の命に食らいつく。それだけだ。 私の心が、暗くざわついた。 「……遅かったな。何かあったか?」 ……いや、何もなかった。 私が家の外に出ると、そこには少女が立っていた。その瞳は、何処までも済んだ黒い色で。私は彼女の瞳を見つめるのが、少しずつ怖くなっていった。私の、中身が見透かされている。そういう気がするのだ。 「……そうか。……物取りの犯行、なんだってな。話を聞いてきた」 …… 私は空を睨み、少女には何も答えなかった。これ以上あの男の事を思い出せば、私は私で無くなる。私にとって、ご主人の持ち物がとられたのは、確かにつらい。つらいが。 一番つらいのは、ご主人を獲られたことなのだ。 私は空を睨み続ける。あの男への復讐。それだけが、今の私の心残り。
「……まだ、ダメだ」 ギュッと、少女が私の体に抱きついた。その表情は苦しげで、まるで痛みをこらえているかのような顔をしていた。 「俺も、手伝ってやる。だから、まだダメだ。……まだ、耐えてくれ」 ……私には、もうその言葉に応えることはできなかった。 満月がまぶしい、夜。私たちは、人通りの激しい通りの片隅にいた。目の前を多くの人間が通り過ぎていく。煙草の匂いをさせる人間。香水のにおいをさせる人間。数多の人間の匂いが私の鼻を刺激する。私の鼻は、今や冴えわたっていた。それでいて、多くの人間の悪臭に悩まされることも無い。ただ、あの男の匂いだけを探し続けていた。 「中にはうちのみたいに、かなり理不尽なものもあるけどな。大抵は、そいつが、そいつの家族が、先祖が。何かに対してやった行いに、罰を与えられているもんだと思う」 少女は、私の横に座って私に語りかけていた。その少女の姿に、道行く人たちが訝しげな目線を向けてくる。しかし少女はそんな視線を気にした風も無く、話を続けていた。 「だから、ちょっとアレな言い方になっちまうが……ある意味で、呪われて当然って奴はいると思う。……いや、俺は別だぞ。こんな呪い、理不尽なもんの代表みたいなもんだ」 少女が、私の頭をなでた。その手の感触が、少しだけ私の心のささくれを押さえる。そうやって撫でてくれている間だけ、私は私に戻っていられる気がした。 「それでも……呪った奴は、相手が呪われて、不幸な目に会って。それを見て、どんな気持ちになるんだろうな。……楽に、なれるのかな」 そんなこと、私が知ったことではない。私は、ただあの男に復讐するだけだ。 だから、私は少女には何も答えず、ただ人の流れだけを見続ける。 「……なぁ。飯、食うか?」 私は何も答えない。不思議なことに、今私の腹は全く空腹を訴えていなかった。もう何日でも、このままでいられる。そう、私の直感が告げていた。 「……まだだ……あとちょっと。あと、ちょっとだからな」 そう言って、少女はまた私に抱きつく。その少女が何を言いたいのか。もう、とっくに答えは出ているのだ。私は、私でない何者かになる。 ……だが、それがどうしたというのだ。例えこの身が何になろうとも。 私は、構わない。 ……見つけた。 ……さぁ。狩りを始めよう。 (四へ続く) にほんブログ村に参加しています。面白ければワンクリックお願いします。
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