倉雁洋の蔵の中

まあ、そうはいってもまーたすぐ戻ってきそうな気はするんですけどねー。

弁天娘の縁切行脚!

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 それじゃ、行ってきます。
「おうー、行ってらっしゃい……痛たた」
 
 私の声に、布団の中からブンブンと手を振って答えてくれる。今日も二日酔いに悩まされている小町ちゃんには悪いけど、その様子に少しだけ私の気は紛れた。
 昨日の夢は何だったのか。未だに耳にこびりついて離れない、呪いの言葉。そして、昨日の彼の電話。何の関係も無いはずのその二つが、頭の中で同列に置かれている。何故か、その二つが切っても切り離せないもののように、頭に残って剥がれない。
 そんな陰鬱な気持ちのまま、私は今日も退屈で憂鬱な仕事場へと向かう。
 一歩、一歩踏み出すごとに気が重くなる。私は何でこんなに頑張って歩いているんだろう? もう休んでもいいんじゃないの? と、頭の中で声がする。逃げてしまえと言う私の声が聞こえる。
 
 ――ふと、私は足を止めて右手を見る。いつもは何もないはずのその場所につけられた、色とりどりの線。小町ちゃんの手作りだという、ミサンガ。
 ミサンガにお祈り、なんていうのは一体いつ以来だろうか。高校生の頃に、彼との仲が続きますようにと祈ってつけていたような気がする。あのミサンガはどうしてしまっただろう。切れてしまったのか、それとも外してしまったのか。それすらも、もはや曖昧だった。
 ……だから、私はもう一度願いをかけてみることにした。あの時ははっきりしなかった、願いの結果。それを、このミサンガに願ってみる。
 
 ――話がある。何の話かは知らないが、昨日確かに彼は電話でそう言った。
 彼は本当に優しい人だ。はっきり言って私にはもったいないくらい。高校時代だって、何であんな人があんたみたいなのと付き合ってんの、と表に裏に何度も言われたこともある。それを一番不思議に思っていたのは私自信だというのに。
 彼は本当に、老若男女に好かれすぎていた。友人は数知れず。男女の分け隔てなく接しているし、どんな会話でも面白おかしくしてくれる才能を持った人だった。そしてなにより、良く笑っていた。――私から見て、彼は眩しすぎたのだ。まるで、太陽のような人。それが、彼を初めて見た時の私の印象だった。
 そんな彼が私に告白してきたのは、その年の秋。涼しくなってきたころ、夕焼けに染められた教室の事だった。呼んだのは彼。呼ばれたのは、私。
 私には信じられなかった。私も彼の事を気になってはいたが、絶対にあり得ないと諦めていた。それがその時、覆されたのだ。この世界に奇跡があるんだと、心の底から感じられた。私は涙を流して喜んだ。
 ……それから十年近く。まだ、世界は私に奇跡を見せ続けてくれていた。相変わらずついていないのは変わらなかったけど、それでも、いや、だからこそ彼と過ごした時間は奇跡と表現するにふさわしい。
 でも……もしかしたら、今日その夢が解けるのかもしれない。私はまた、冷たい現実に戻されるかもしれない。つらい現実に叩きつけられ、立ち上がれなくなるかも知れない。
 それでも。
 それでも私は――このミサンガに、願う。
 きっと、彼と別れることはないと。きっと、小町ちゃんの言葉を信じると。
 “縁”。小町ちゃんが言うには、私と彼の間には本当に強い“縁”があるらしい。そう言いきった彼女の顔が目に浮かぶ。私は、その小町ちゃんを信じたい。
 
 願いを込めたミサンガは、こころなしか少し重くなった気がした。私の思いが込められたような、そんな不思議な感じ。
 私はそのミサンガを満足げに見ながら、会社へと駆け足で歩き出した。
 
 
 
 夜。淡い月の光が空を照らし、私と彼を浮き上がらせている。二人、何を語るわけでもなくその月の照らす夜道を行く。彼は少し前から黙ったままだった。
 今日は本当に不思議だった。会社でも、会社を出て待ち合わせの場所に行くまでも、全く何事も無く過ぎて行った。今まで一日五回はミスしていた会社でも、今日はゼロ回。むしろ同僚が私の心配をしていたくらいの出来だった。
 おまけにここ連日の忙しい仕事は全て終わり、追加も何もない。何日かぶりに定時に帰れるという追い風まで吹いてくれた。当然、待ち合わせ時間に遅れることなんてない。余裕を持ちすぎたくらいの物だった。私の何処にも、問題がない。こんなことは人生で初めてかもしれないくらいだ。
 ただ……久しぶりに会った彼の様子が妙だった。
 
「悪い、遅れたっ!!
 
 まず、待ち合わせの時間に遅刻してくる。聞けば、同僚がやたらとミスを連発しそれをフォローするのに四苦八苦していたのだと言う。それくらいなら珍しいこともあったね、くらいで流せるのだが……その後も彼はことごとく調子が出ない。
 
「おわっと……すいません」
 
 道を歩けば数歩以内に誰かの方にぶつかる。決して混み合っているわけでもないのに、だ。それも決まって彼の方が悪い。心ここに有らずという感じで、良く前を見ていない。
 
 大丈夫? 体調が悪いなら今日は無理しなくても……
「いや、大丈夫だ。……大丈夫」
 
 元々、真面目な割には何処か抜けたところがある人だった。でも、今日のそれは話をかけて酷い。本人がこう言ってる以上そうなのかもしれないけど……どう見ても、彼の行動は尋常じゃなかった。……やはり、何か隠している。
 私の中で疑惑が疑念に変わっていく。思考が悪い方向へと転がっていく。彼の隣を歩きながら、私はただその考えを必死に押さえていた。そんなことあるはずがない、そう考えているのに、頭の中の何所かでまたそれを否定している。
 そんな揺れ動いた気持ちのまま、私と彼は予約してあるというレストランへと向かった。それは近所でも評判のレストラン。その味や店の雰囲気がかなりの物で予約を入れないとほぼ確実に食べられないといわれるほどの店。決して安くないその店を、彼は予約してくれていた。
 
「えっ!? でも確かに俺は予約を!?
「申し訳ございませんお客様。当店ではその、そのような格好の方は……」
 
 ……ただし、ドレスコードの存在を失念した形で。普通なら決して忘れることのないだろうその存在を、彼はこの時まで一切合財忘れていたらしい。なんとか、と食い下がってそれならば別の日に、というところまではもって行けたが、それ以上は無理だった。
 
 いいじゃない、別の日でも。……正直、いきなりこんなところじゃ落ち着かないわよ。
「あ、ああ……済まない。本当に済まない……」
 
 私のフォローを聞いても心ここに有らずのままの彼。青い顔をしたまま、どうしようと呟いている。……本当に、今日の彼の様子はおかしい。彼ならこのくらいの事、笑って済ませるくらいが普通だと言うのに……。
 結局私達はそこからそう離れていないファミリーレストランで食事をとった。味は悪くないし、私としては満足していたのだが……最後まで彼の表情が晴れることはなかった。
 
 そのまま、店を出た私達は何をするわけでもなくこうして夜道を歩いている。もちろんホテルに行こうかという雰囲気でもない。ただ、彼が歩こうと言ったからついて行っているだけ。
 ……私としては、早く話を切り出して欲しい。こちとら、さっきからの騒動何かでもう覚悟は決めているのだから。彼が何かを隠しているのは、恐らく間違いない。それが別れ話なのかどうなのかは分からないけど、ただ……この宙ぶらりんの状況を何とかしてほしい。私の気持ちはただそれだけだった。
 そんなことを考えながら歩いていたら、彼があるところでその足を止めた。それは、小町ちゃんと出会ったあの海沿いの道。私の会社からの帰り道。私の好きな、道。
 
「……話があるんだ」
 ……だから、私を呼んだんでしょ?
「ああ。本当はレストランで言うつもりだったんだけど、あんまりにも予定が狂ったから……。そのまま、今まで踏ん切りがつかなかったんだ。でも、不思議とここなら言える気がする」
 
 そう言って、彼は話を始めた。それは私が予想していた、一番聞きたくなかった話。
 
「……どうしようもないくらい好きな人が出来たんだ。……その人を幸せにしたくて、でもどうしたらいいかわからなくて。だから……ここしばらくはずっと残業してたんだ。あることをしてあげたくて」
 
 ……やっぱり、別れ話じゃないか。心の中で何かが砕け散る。腕に付けたミサンガの重さが、今は憎らしく思える。――私は自分の心が深く深く沈んでいくことを自覚した。早く消えてしまいたい。この海の底に沈んでしまいたい。そう願う私の心を無視して、彼は話を続けた。
 
「一生、自分の人生のすべてをかけて、その人を守りたい。だから勇気を出して、その人に告白することにしたんだ」
 
 彼は輝く瞳でそう続けた。その表情は高校生の頃から変わっていない。太陽のように眩しい、あの笑顔。私の影を浮き彫りにするような、あの笑顔。
 私はもうその話が聞きたくなかった。冷たい現実の足音が、すぐそこまで歩いてきている。泣きたかった。でも、もう――涙は流れなかった。
 
「だから」
 
 だから、別れて欲しい。涙すら流れない私の暗い瞳は、彼の口がそう動くものだと思っていた。悪いことばかり聞こえる耳が、彼の声をそう聞くのだと思っていた。だから――
 
 
 
 
 
「だから………結婚してくれ」
 
 
 
 
 
 
 ――その言葉の意味を理解するのに、時間がかったのも無理はないと思う。
 
 
 
 
 ………………………。
 
 
 …………え?
 
 
 
 
「君が好きだ。ずっと昔からそうだったけど、もうその気持ちが抑えきれない。本当に、自分以上に、君の事が好きになってしまったんだ。愛してる。この………」
 
 戸惑っている私を置いてけぼりに、彼は懐から小さな箱を取り出した。正方形に近い、丸みを帯びた青い箱。開けられたその箱の中には、小さなダイヤが乗った指輪が輝いていた。
 
「指輪を、受け取ってくれないか?」
 
 彼は高校生みたいな純粋な瞳で、真っ直ぐに私の目を見てそう言った。ただ、純粋に。純粋であるからこそ、その言葉が私の胸に響いてくる。さっきまで枯れ果てていた目に涙があふれてくる。沈んでいた心が持ちあがってくる。
 どうやら、世界は……私にまだまだ奇跡を見せてくれるらしい。
 
「……はい、喜んで……!」
 
 留まる事を知らない涙を隠そうともせず、私は頷いた。涙で霞んで、彼の顔が良く見えない。ただ彼の笑顔の温かさが伝わってくる。
 彼はそのまま私の手を取り、その左手の薬指に指輪をはめた。
 月光を受けて輝く、永遠の輝き。それは私の幻想が、奇跡が、本当の意味で世界に認められたような気がして嬉しかった。
 
 
 
 
 
 
 ――そんな、最高に幸せな時だったから。
 
『口惜しや……口惜しや……』
 
 朝夢で聞いた声が聞こえてきたときは、何の冗談かと思った。地獄の底から響いてくるような、恐ろしい声。幻聴かとも思ったが、どうやらそうではないらしい。彼もきょろきょろと、辺りを見渡している。
 
「……何だ、妙な風が……?」
 
 確かに、辺りには生温かい妙な風が吹き始めていた。その風は、まるで意志をもったように、私たちの周りを回り始める。まとわりつく湿った生温かい風。それはいつかの私のため息のように、私から幸福を奪っていくよう。
 
『……口惜しや……口惜しや………』
 
 その風は再び、何処からか暗く悲しい声を運んできた。ただ、絶望と悲しみだけが込められた、呪詛の声。もう聞きたくない、そう考えてしまう声。
 私たちが思わず耳をふさいだその瞬間。
 世界が、爆ぜた。
 
 
 
 
 
(五へ続く)
 
 
 
 

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