(築城主) 徳川家康 (主な城主) 尾張徳川氏 (遺構) 3櫓・1門、庭園、石垣、堀 (指定文化財) 国の重要文化財(櫓3棟、門1棟) 2008/12/24 残念ながら、到着した時には17時を少しまわっていたため登城できず、天守と西北隅櫓のみの画像になってしまいました。しかも暗くてよく映っていませんがあしからずです。 今回2回目の訪城でしたが、次回は時間に間に合うようにまた近いうち出かけたいと思います。 ライトアップされた名古屋城もきれいでした。夜でも中に入れたらロマンチックなんだろうけど・・・ もったいない感じ(^◇^)’’ 大天守 金の鯱をいただく5層(7階地下1階)の天守は層塔型。戦災で焼失したが、1959年(昭和34)に再建。 西北隅櫓 3層3階の入母屋造り。清洲城の古材が用いられたといわれ、別名「清洲櫓」といわれている。 名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった城郭で、現在は名城公園として整備されている。尾張徳川家17代の居城。金鯱城、金城ともいい日本100名城にも指定されている。 伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われ、大坂城、熊本城とともに日本三名城に並び称されている。天守に取り付けられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。城地は織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の故地で、この城はのちの名古屋城二の丸の位置にあったとされる。 歴史 戦国時代 16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。 信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城に本拠を移したため、廃城とされた。
江戸時代
清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。普請奉行は滝川忠征、佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門[1]。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。 清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守も移るという徹底的なものであった。 1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。 ウィキペディアより
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時間切れは残念ですが夜ライトアップされたお城も幻想的で良いですよねぇ^^
2008/12/29(月) 午後 1:30
ありがとうございます。
カメラがもっといいものであれば、いい画像撮れるんだろうけど・・・
2008/12/29(月) 午後 2:36