(遺構)現存天守、櫓、曲輪、石垣、濠、土塁 (形状)平山城 2008/12/28 雨の彦根城でした。今回2回目の訪城で、到着してあまりの人だかりに驚き!!! なにかなぁ?と思ったら突然ひこにゃん登場(*^_^*)ポーズを決めて可愛かったです。 日記に画像貼っときます。見てみてください。 博物館は、閉館してました。佐和口多門櫓が現在公開中で、2010年3月まで公開するそうです。 見学していたら、熱くガイドしてくれて、井伊家の話から歴史の話まで幅広くお話ししてくれました。 二の丸佐和口多門櫓 馬屋 天守からの眺め 二つのやぐらを持つ天秤櫓 本丸入り口を固める太鼓櫓 佐和口多門櫓側の外堀 石垣 堀切にかかる廊下橋 入場口手前向かって左側に見る堀切 鐘の丸 天守閣内の鉄砲挟間 彦根城の築城 ■井伊直政 佐和山城に入る 関ヶ原合戦後の論功行賞〔ろんこうこうしょう〕により、石田三成〔いしだみつなり〕の居城であった佐和山城を与えられたのは、のちに徳川四天王の一人に称〔たた〕えられる井伊直政〔いいなおまさ〕でした。慶長6年(1601)正月、直政は上野国〔こうずけのくに〕高崎城(群馬県高崎市)より佐和山に入ります。ところが直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年亡くなってしまいます。この時、嫡子〔ちゃくし〕直継〔なおつぐ〕はいまだ若年でした。直政より後事を託された家老木俣守勝〔きまたもりかつ〕は、城の移築計画を徳川家康にはかり、慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2kmの彦根山において、新たな築城工事が始まりました。 ■天下普請の前期工事 築城には、およそ20年を要しました。前期工事は、本丸や鐘の丸などの城郭主要部が築かれました。幕府から6人の奉行〔ぶぎょう〕が派遣され、近隣諸国の大名に助役〔すけやく〕が命ぜられるなど、天下普請の様相を呈していました。豊臣恩顧〔おんこ〕の大名が多い西国への押えの拠点と意識され、完成が急がれたのです。そのため、普請に必要な材木や石材を周辺の古城や廃寺から集めました。天守そのものが大津城天守を移築したものと伝えています。 こうして彦根城の築城が急ピッチで進む中、慶長9年7月には、徳川秀忠〔とくがわひでただ〕が築城見舞いの使者を派遣しています。また、翌年9月には家康が築城の様子を見分〔けんぶん〕しています。重要な事業をまかされた、いまだ若い直継への配慮でしょうか。こうした家康・秀忠親子の支援もあって、築城は順調に進み、数年ののち城郭の主要部はほぼ完成しました。 ■大坂の陣後の後期工事 慶長19年(1614)、豊臣勢力の一掃を策した大坂冬の陣が、また翌年には夏の陣が勃発します。彦根城の築城工事は一時的な中断をよぎなくされました。大坂の陣に出陣し活躍するのは、病弱の直継に代わった弟の直孝〔なおたか〕でした。 大坂の陣後は、この直孝によって後期工事が再開されました。後期工事は彦根藩単独で実施され、城下町にいたる城郭の全容がほぼ完成しました。 彦根城の縄張り 彦根城は南北に長い尾根を整地して、丸を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城です。南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なっています。彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用







ひこにゃんに会えましたかぁ♪
次はひさにゃんに会いに来て下さいよ!
2009/2/20(金) 午後 3:19
ひさにゃんさん
ひこにゃんに偶然運よく会えました。
そうですね。今度そちらに行く時には、前もって連絡します。
ナビお願いします(^。^)
ありがとうございます。
2009/2/23(月) 午前 11:03