(遺構) 曲輪、天守台、石垣、空堀他 (形状) 平山城 通称 舞鶴城、一条小山城 築城主 徳川家康 築城年 1583年(天正11年) 指定文化財 山梨県史跡 2009/01/10 とにかく石垣がものすごい!!!高さに圧巻です。ビックリしました。 とても綺麗に整備されていて、ボランティアガイドのかたがたくさんいらっしゃいました。 あちこちでガイドしてる姿が見受けられました。 駅のすぐそばで、駅には信玄公の銅像がありました。 銅像を正面から撮りたかったのですが、パフォーマーが陣取っていて撮影不可でした(;_ /~~~でも、パフォーマーが強烈なキャラクターで思わず足を止めてしばし観覧!!! パフォーマーさんは、1人で。ギターを持ってるんだけど、アンプもなく、小さなコンポから音楽が流れていて、エアーギター状態(^^)マイクもなく「うぉ〜〜〜〜〜!!!!\(~o~)/」みたいな・・・地声で熱唱していました。 「今日は成人式なので、スーツでやってますぅ」とかって、スーツにビジュアルメーク! ビジュアル系好きな私ですが、そんな私でもインパクト強すぎました(^◇^) 甲府城よりその彼のパフォーマンスが強烈で脳裏に焼き付いてしばらく離れませんでした・・・ ホントは銅像正面から撮りたかったけど、彼の一生懸命さに(笑)・・・完敗?乾杯?ってな感じで 正面から撮れなくても、あれだけいいもの見せてもらったんだから彼に感謝です。 パフォーマーのあなた!!! 楽しませていただいてありがとうございました(^o^)丿 上方に見えるのが、埋殺しの石垣 天守台の石垣 中の門跡 鉄門跡 坂下門跡 稲荷櫓 天守台から見る富士山 駅前にある武田信玄公銅像 甲府城(こうふじょう)は、山梨県甲府市にあった城である。別名、舞鶴城(まいづるじょう)。山梨県史跡に指定されている。 概要 甲府盆地北部、現在の甲府市中心街の一条小山に築城された中世から近世にかけての平山城である。 甲斐国では戦国期から甲府が政治的中心地となり、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した徳川氏や豊臣系大名が甲斐を支配し、甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備された。豊臣政権では徳川家康を牽制する要所、江戸時代では将軍家に最も近い親藩(甲府藩)の城となった。天守台はあるが天守が建てられていたかは不明である。浅野長政父子の時代に天守があったとする説がある。江戸時代には初期の幕府直轄領時代から甲府藩時代、享保年間に再び直轄領とされた甲府勤番時代を通じて統治の拠点となる。 明治時代、1873年の廃城処分となった以降にも甲府は政治的・経済的中心地として機能し、甲府城は県庁主導の殖産興業政策において建物などの破却が行われ、内堀が埋め立てられて官業施設化される。さらに中央線(JR東日本中央本線)の開通と甲府駅(甲府城清水曲輪跡にあたる)の開業により城跡は分断されたが、戦後には城跡の発掘調査や史跡の整備が進み、現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、武田氏居館とともに甲府駅周辺の観光地となっている。
歴史・沿革
甲府城が築城された一条小山は甲斐国山梨郡板垣郷に属し、甲斐武田氏の一族である甲斐一条氏が領し、一条忠頼の居館があった。忠頼の死後、館は夫人がその菩提を弔うために開いた尼寺となり、鎌倉時代には時宗道場の一蓮寺となる。安土桃山時代 戦国時代には武田信虎期に甲府が新たに府中として定められて城下町が整備されるが、武田城下町において一条小山は武田城下町の南端に位置している。武田氏は晴信期に領国拡大を行い信玄晩年に至るまで甲府は拡大領国の中心地であり続けたが、勝頼期には盆地西部の西郡に新たに新府城が築城されて府中の移転が試みられたが、織田・徳川連合軍の侵攻による武田氏の滅亡で途上に終わった。 武田氏滅亡後、本能寺の変により空白化した武田遺領を巡る天正壬午の乱を経て1582年(天正10年)に甲斐国は徳川家康の所領となるが、家康は引き続き甲府を甲斐の政治的中心地と定め、翌1583年(天正11年)に家臣の平岩親吉に命じて一条小山の縄張りを行い、一蓮寺を移転させて築城を開始したという。しかし、完成前に家康は関東に転封され甲斐は羽柴秀勝の有する所となり、さらに加藤光泰、浅野長政・幸長父子ら豊臣系大名の領主が代わり、浅野氏時代に完成したとされている。 1590年(天正18年) 徳川家康の関東移封。羽柴秀勝(豊臣秀吉の甥)が城主となる。 1591年(天正19年) 城主となった加藤光泰が築城を再開する。 1593年(文禄2年) 浅野長政・幸長父子が城主となり、城が完成する。 1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、翌年平岩親吉が再び城代になる。
江戸時代・近代
稲荷櫓1603年(慶長8年) 徳川義直(家康の九男)が城主となる。 1607年(慶長12年) 義直が清洲へ転封。城番制がしかれる。 1616年(元和2年) 徳川忠長(秀忠の二男)が城主となる。 1632年(寛永9年) 忠長死去。城番制がしかれる。 1661年(寛文元年) 徳川綱重(家光の三男)が城主となる。 1678年(延宝6年) 徳川綱豊(綱重嫡男)が城主となる。 1704年(宝永元年) 綱豊が将軍世嗣として江戸城に入り、徳川家宣と改名。 1705年(宝永2年) 柳沢吉保が城主となる。初めて親藩以外の領地となる。 1724年(享保9年) 柳沢吉里(吉保嫡男)が大和郡山へ転封。甲斐一国が幕府領となる。甲府勤番の設置。 1727年(享保12年) 甲府城大火。 1734年(享保19年) 城内に盗賊が侵入し1400両の公金が盗難される甲府城御金蔵事件が発生する。犯人は不明で、当日に博打をしていた甲府勤番士の怠慢が指摘され17名が処罰される。1742年(寛保2年)には 高畑村の百姓次郎兵衛が捕縛され、事件は解決した。この事件は人々の間で関心を呼び、作者成立年代は不明で出版もなされていないが、フィクションを交えた勧善懲悪の物語として構成された実録小説『甲金録』となった。 1866年(慶応2年) 勤番制を廃止し、城代を設置。 1868年(明治元年) 明治維新。板垣退助らが無血入城。 1873年(明治6年) 廃城。 Wikipediaより
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甲府城から見た富士山、絶景ですね〜。あそこのへんは高層ビルがないから、当時のままの姿で見れますね♪甲府城は五層天守があった説が最近出ているようですが、あれだけの石垣なら納得だな…
2009/1/21(水) 午後 5:15
竹さん
ほんときれいに見えました。
そうですね。あれだけの石垣であればずいぶん立派な天守が存在してたことでしょう!!!
2009/1/21(水) 午後 5:23
信玄公は、正面からよりこのアングルで正解だと思いますよ^^貫禄ありましたね!
でも、甲府城・・・信玄は、実はノータッチなんですよね(苦笑)
甲府城も石垣が大変魅力的なお城でしたね♪
自分が行った時は、こんなに綺麗に富士山見えなかったです。。。
2009/1/22(木) 午前 9:07 [ 馳という名の前世 ]
hase☆sanjiさん
逆にいい方向にいったんですね!(^^)!
富士山ホントにきれいでした。
最近、どこに行っても富士山がきれいで神々しいです。
しかも、時節柄富士の高嶺に雪はふりつつ・・・でなお一層眩しく崇高な感じが漂います。
この季節は、富士山日和が数多ですね(^。^)
2009/1/23(金) 午後 0:43
もし自分がこの城の城主だったら、、、そういう気持ちで見るとお城ってとっても楽しいです♪
富士山もきれいに撮れていますね♪
2009/1/25(日) 午後 6:09
傑作ポチ☆です♪
2009/1/25(日) 午後 6:10
さぶまねさん
傑作ポチありがとうございます。
そうですね!(^^)!
やっぱり、自分が主だったらと考えると見え方も変わってきますね。
富士の山も望めて「満足じゃ!天晴れ(^O^)/天晴れ(^O^)/」
みたいなぁ〜〜〜!
2009/1/25(日) 午後 8:24
かあみさん、甲府城の石垣はとっても立派ですよね。僕もすごいインパクトを受けました!
天守台から富士山がきれいに見えたんですね!傑作行きますね!
2009/2/16(月) 午後 10:00
Shaneさん
傑作ありがとうございます。
インパクト大ですね。
この辺は、ホントに富士山きれいですね。
この日は、くっきり見えました。富士さん好きです(^。^)
2009/2/16(月) 午後 10:56