(遺構) 空堀、石垣、土塁 (形状) 山城 通称 要害城、積翠山城 築城主 武田信虎 築城年 永正17年(1520年) 主な改修者 武田勝頼、加藤光泰 主な城主 武田氏、徳川氏、加藤光泰 指定文化財 国史跡 2009/01/11 駐車場がないので麓のホテルに聞きに行くと、停めてもいいとのことで停めさせていただきました。ありがとうございました。 本丸までは、30分くらい歩いたと思います。もう本丸かなぁ?もう次は本丸かな?とか思いながら、なかなか本丸にたどりつかないなぁ・・・とか思いつつ、途中から雪が、本丸は結構深く積もっていました。広さがあって雪がなければハイキングにぴったりの山だと思いました。 帰りはすべる石段に気をつけながら下ってきました。 もう一度、登りたくなる山です。ホントいいお城でしたぁ〜〜〜!\(~o~)/ 麓のホテル 武田菱が印象的でした。 要害山城(ようがいやまじょう)は、山梨県甲府市上積翠寺町にあった城。躑躅ヶ崎館の詰の城として築かれた山城である。平成3年(1991年)、国の史跡に指定された。要害城、積翠山城とも呼ばれる。
立地
甲府盆地周縁の中央北部、相川扇状地の扇頂部に位置し、標高770メートルの丸山と呼ばれる要害山中腹の傾斜地を中心に築かれている。沿革 武田氏家臣駒井政武「高白斎記」に拠れば、築城は武田信虎時代の永正17年(1520年)6月であるという。前年には居館を石和川田館から躑躅ヶ崎館(甲府市古府中町)へ移しており、駒井政武の領地であった積翠寺郷の丸が城として取り立てられ、館の詰城として砦や狼煙台が築かれた。同年には今川氏勢の武将福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻し甲府へ迫っており、信虎は室の大井夫人を避難させ福島勢を駆逐しているが、夫人はその最中に城中で嫡男(後の武田晴信)を出産したという。その後、勝頼期の天正4年(1576年)に修築が行われており、領民にも普請役が科せられている。 武田氏滅亡後、徳川氏の支配期を経て豊臣系大名が入城し、加藤光泰により修築が行われた。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの後廃城となった。 Wikipediaより |

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