(遺構) 土塁、曲輪、空堀、馬出、三日月堀、碑、説明板 (形状) 平山城 築城主 武田勝頼 築城年 1582年(天正10年) 主な改修者 徳川家康 主な城主 武田勝頼、徳川氏 指定文化財 国史跡 2009/01/11 一周ぐるっと見て回りましたが、とにかく広い!!! まず、東出構えのとこから、鳥居のあるとこまで。そこから、階段を一気に駆け上がると本丸にたどり着きます。 本丸から三の丸までは、草むらをワッサワッサと降りて行きました。 三の丸から大手口桝形虎口を抜けると、丸馬出の堀(俗称 三日月堀)に出ます。 これは、ホントにすごい!!! 感激しました。新府城いいっ(^o^)丿 要害山城と共に良かったです。 山梨のお城は、魅力ありますなぁ〜〜〜〜(^◇^) 東出構え 三の丸 大手桝形虎口 三日月堀 現地案内版より 新府城(しんぷじょう)は、現在の山梨県韮崎市中田町にかつてあった城である。1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されており、保存のため公有地化された。本丸跡地には藤武稲荷神社が建立されている。 地勢と構造 勝頼期の武田家の築城の特徴として、台地の突端部(側面・背後は断崖や川)を利用し戦闘正面を限定させ、尚且つ正面からの敵の圧力を側方に流すような構造が挙げられる。具体的には、正面の丸馬出しより城側面に続く比較的深い堀を敵兵に歩かせる。横矢を掛け敵兵を攻撃すると、堀は断崖・川へと続いており、こちらへ追い落とすことにより敵兵を無力化できる。同様な構造の代表的な城に遠江では諏訪原城・小山城、信濃では大島城がある。但し、新府城の場合は現在遺構とされる城跡ではなく、能見城を中心とする新府城北方の防塁跡にこの構造が見られ(浅野家文庫・諸国古城之図)、上記に挙げた城に比べその規模の大きさは群を抜く。また能見城防塁は複雑に屈曲し、最大限横矢を掛けられる様な構造となっており防塁が多数配置されている(但し、これら北側防塁は天正壬午の乱時に徳川家が構築したものとの説あり)。 このような大規模な構造から、少なくとも数千から万単位の兵力による運用が前提となるようである。実際天正壬午の乱においては、徳川家康の北条氏直の軍に対する本陣として使用されている。 有効であったかどうかは定かではなく意見の分かれるところだが、新府城北側に2箇所ある鉄砲出構は江戸時代に築かれた洋式城郭である五稜郭の設計思想と同様の、突出部分の敵と当たる面積を抑えつつ突出部及び出構間に強力な火力を投射するためのものであると考えられる。 使用された期間は短いが、七里岩突端部の南北7-8キロメートル、東西2キロメートルという周辺の自然地形全体が軍事的意味をもっていたことを考慮に入れれば非常に大規模な城であり、武田家を代表する甲州流築城術の集大成となる城である。
歴史
戦国期に甲斐武田氏は本拠の石和から甲府へ進出して川田(甲府市川田町)に居館を移転していたが、有力国人を制して国内統一が進められた信虎期には古府中に居館である躑躅ヶ崎館が築かれ、家臣団を集住させて城下町(武田城下町)を形成した。晴信(信玄)期には領国拡張と平行して城下の整備拡張が進み、政庁としての役割を持つ府中として機能している。続く武田勝頼時代にも整備は行われているが、後背に山を持つ府中は防御に徹しているものの城下町の拡大には限界があり、信濃、西上野、駿河へと拡大した武田氏の領国統治にとって不備であったため、府中の移転が企図されたと考えられており、武田氏滅亡後に入府した徳川家康は城下町南方の一条小山に甲府城を築いて支配拠点とし、以来豊臣系大名時代から江戸時代にかけては甲府城を中心とした新たな城下町が形成された(甲府城下町)。 韮崎は甲府盆地においては北偏りであるが、武田領国の中枢に位置し、古府中よりも広大な城下町造営が可能であったと考えられている。また、七里岩は西側を釜無川、東側を塩川が流れ天然の堀となる要害であり、江戸時代に韮崎は甲州街道や駿州往還、佐久往還、諏訪往還などの諸道が交差し釜無川の水運(富士川水運)も利用できる交通要衝として機能していることも、新城築造の背景にあったと考えられている。 史料上の初見は、天正9年(1581年)に家臣の真田昌幸へ普請を命じたもので(「長国寺殿御事跡稿、真田宝物館所蔵文書)、天正3年(1575年)の長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い)で織田・徳川連合軍に武田方が敗北した後、勝頼は領国支配を強化し、河内地方から織田・徳川領国と接する駿河を領する穴山信君(梅雪)が織田軍の侵攻に備えて七里岩台地上への新たな築城を進言したという。築城は翌天正10年(1582年)から開始され、年末には勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ移住している。 天正10年(1582年)、信濃での木曽義昌の謀反を鎮圧するため諏訪へ出兵するが、織田・徳川連合軍に阻まれて帰国。織田軍はさらに甲斐国へ進軍し、勝頼は3月には小山田信茂の岩殿城に移るために、城に火をかける。勝頼は岩殿城に向かう途中に笹子峠(大月市)で信茂の謀反にあい、天目山(甲州市)へ追い詰められ武田一族は滅亡する。同年6月には京都で信長が横死し(本能寺の変)、武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏の争奪戦(天正壬午の乱)が起こると戦略上の重要拠点となるが、後北条氏が滅亡すると廃城となった。
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新府城行かれたのですね〜〜
三日月堀きれいに写ってますね(笑)
こちらもトラックバックさせて頂きます〜
2009/1/21(水) 午後 8:56 [ 三日月堀 ]
変わった山城ですねぇ〜
武田家の築城方法は変わっていると思います。躑躅ヶ崎館もそうですよね♪
2009/1/21(水) 午後 9:50
三日月堀さん
はぁい(^o^)丿
全体を撮ろうとあっちに行ったり、こっちに行ったりうろちょろしたけど、やっぱり無理でなんとかこのアングルに収まりました。
2009/1/21(水) 午後 11:11
さぶまねさん
ふむふむ!ほんとにそうですね。
何か、他のお城のように形式ばってない独特な感じがします。
2009/1/21(水) 午後 11:15
いいですね。今回もいろんなところ行ってらっしゃいますね。
うらやましい
2009/1/21(水) 午後 11:29 [ ガッツ ]
風車(ウインドミル)の弥七さん
失業中なので(;_;)/~~~時間だけはたっぷりあるのでした・・・
再就職したら、こんなことも出来なくなるから今のうちにと思って!!!
早く就職しないとっ(^o^)丿やべ〜!!!←これ現実で切実(~_~メ)
2009/1/22(木) 午前 0:09
出張が何年か続いたときがあって、行く先々の仕事場がお城の近くでした。熊本城や小倉城もタクシーの車窓から見ただけ。岐阜城も山すそから見上げただけ。それを写真でバッチリ紹介してもらえるんだから、いいですよ。
失業ですか?永久就職は・・・まだなのかな?
2009/1/22(木) 午前 6:27 [ ガッツ ]
風車(ウインドミル)の弥七 さん
まじかにあるのに見れないのは、くやしぃ〜〜〜!ですね(~_~メ)
ありがとうございます。がんばって更新していきます(^o^)丿
永久就職は・・・残念ながらないです・・・
希望は捨ててませんけど(笑)ははは〜
2009/1/23(金) 午後 0:21
直球で失礼しました 笑(笑ってごまかす)。
2009/1/23(金) 午後 4:10 [ ガッツ ]
風車(ウインドミル)の弥七さん
お気になさらずに(^。^)
心も体も(笑)運動音痴だから、カーブより直球の方が打ちやすくてありがたい〜〜〜!
はははぁ\(~o~)/
2009/1/23(金) 午後 7:58
こんにちは。通りすがりです。
つい最近、身延あたりまで行ったときに道路案内に
韮崎の字が見えたので、一瞬行こうかどうか迷ったのですが
日も暮れかかっていたこともあり、やめました。
なかなか面白そうな城跡なので、今度は目的地として
行こうと思います。
2009/5/5(火) 午後 1:05