お久しぶりです。なかなか忙しく更新できず。。。(;一_一) 去年、9月お店を始めました。 こういうお仕事は全く携わったことがなく わからないことばかりで・・・ 毎日悪戦苦闘してます(爆) とりあえず、今回はお店の雰囲気を見てください。 こんなお店です。。。 また、よかったら一度寄ってくださいヽ(^。^)ノ
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お久しぶりです。なかなか忙しく更新できず。。。(;一_一) 去年、9月お店を始めました。 こういうお仕事は全く携わったことがなく わからないことばかりで・・・ 毎日悪戦苦闘してます(爆) とりあえず、今回はお店の雰囲気を見てください。 こんなお店です。。。 また、よかったら一度寄ってくださいヽ(^。^)ノ
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(遺構) 堀、土塁、碑 (形状) 陣屋 2009・02・12 ここの印象は、今と昔が共存しているといった感じでしょうか? 周囲は、グルッと堀で囲まれています。 その中に普通に住宅があってといった風です。 よくここまで残っていたなって感じで感心しました。 広いので歩いて回るのには時間がかかります(笑) 藪のようになっているところもあり、入っていくと急に開けたり面白いところです。 ただ、藪の中や堀に生ゴミや空き缶などひどく散乱していて残念でした。 とても数人の人が散らかしているのではない感じの量でした。 もう少し、史跡を大切にしてほしいなぁって思いました。 藩庁の置かれた飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる 慶安元年(1648年)6月26日、7,000石を領していた保科正貞が大坂定番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7,000石の大名として諸侯に列し、ここに飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。だが、正之が秀忠の子として認められると、保科氏嫡流を存続させるために正貞が改めて同氏の家督を継ぐことになったのである。正貞は寛文元年(1661年)11月1日に死去し、後を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子であった保科正英に2,000石を分与している。延宝5年(1677年)7月7日、正景は大坂定番になったことから、丹波国天田郡の内に5,000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年(1866年)5月26日に若年寄にまで栄進し、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めた。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益は連座によって謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、罪を許された。翌年、版籍奉還により藩知事となるが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で飯野藩は廃藩となった。その後、飯野県、木更津県を経て、千葉県に編入されたのである。 Wikipediaより |
(遺構) 土塁、空堀、井戸 (形状) 平山城 2009・02・12 大多喜水道 最後の藩主松平正質が明治2年に着手し翌年完成した。 現地案内版より 松平(大河内)家家紋 「三つ扇」 お城の下方にある大多喜高校にある「薬医門」 これも大多喜高校にあります。この写真ではわかりませんが下の写真でわかるようにかなり大きいです。 駅近くに大手門みたいに作ってありました。 大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。 信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。 天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。 以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、大多喜藩の規模縮小に伴い、山頂の天守なども荒廃。天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに二層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられている。 Wikipediaより |
ちょっと寄り道しました(^o^)丿 2009・02・11 太田図書助資忠<おおたずしょのすけすけただ>は、関東管領扇谷上杉氏の家臣太田道灌の甥です。 臼井城跡の傍にある石碑は、臼井城の合戦にて討死した太田図書の墓と伝えられています。 文明11年(1479)、上杉方の太田資忠らの軍勢が、足利方の千葉孝胤<ちば・のりたね>らが籠もる臼井城を包囲し、周辺の敵対する諸城を攻略します。 しかし、臼井城の防備は堅固であり、落城する気配がありませんでした。 そのため、資忠らはいったん兵を引き上げようとしたところ、城内から兵が討って出てきました。 これに対して上杉方も反撃を加え、ついに臼井城を落城させました。 けれども、この戦いにおいて、資忠をはじめとする多くの上杉方の武将も戦死しました。 佐倉市 教育委員会 文化課 文化財管理班HPより |
(遺構) 土塁、堀切 (形状) 平山城 2009・02・11 下の説明でもわかるように墨俣一夜城的な感じですね。 天守は小田原城に似ています。 中世館の復元が見たかったです(^。^) でも、千葉でもここは中心部だからこういう感じかな? 歴史のあるお城ですから歴史の部分で楽しめるところだと思います。 現在、千葉氏が舘を築いていたと思われる場所には、千葉市立郷土博物館が建っている。この建物は近世風の模擬城郭となっている。しかし、高層の楼閣である天守閣が築かれるようになったのはより後の時代であって、千葉氏が亥鼻に築いた舘は中世風の館形式の城郭であると考えられ、現在の千葉市立郷土博物館が昔日の姿を反映していると考えることは誤りであると指摘されている。 千葉市の都市としての歴史は、千葉常胤の父千葉常重が亥鼻の要害に舘を築いたのが始まりである。常重が築いた舘の詳細な地は不明であるが、おおよそ現在の千葉市立郷土博物館が建っている場所と相違は無いと考えられている。城館の領域は恐らく現在の千葉大学亥鼻キャンパスの範囲にまで広がっており、ここには七天王塚と呼ばれる7つの塚が現存する。亥鼻の千葉氏城館の鬼門の方角に妙見信仰の信仰対象である北斗七星を祭ったものと考えられているが、地元では古くから平将門の7人の影武者の首塚との伝承が根強く、祟りがあるものとして恐れられてきた。 常重の時代までは千葉氏は周囲の土豪の圧迫により千葉郡周辺の本所を守ることに汲々としていたが、その後常胤の時代に源頼朝の呼応に従い、又上総氏等の周辺の土豪が消滅したことから、千葉氏は亥鼻を本拠に下総国、上総国の支配権を確立した。 その後、1455年に千葉氏が本拠地を本佐倉城周辺(酒々井町・佐倉市)に移すまで千葉氏の本拠地として亥鼻の舘が用いられた。 ちなみに戦国時代に千葉氏と争ってこの地域に進出した里見氏が本佐倉城の千葉氏に精神的圧迫をかけるために亥鼻の舘跡地に出城を築いたとも言われているが詳細は不明である。 Wikipediaより |
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