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2009・02・23 |

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こんにちは、ゲストさん
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2009・02・23 |
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2009・2・22 |
(遺構) 土塁、堀 (形状) 平山城 2009・02・11 きれいに整備されていて、見やすくなってます。 時折、人とすれ違い「散策ですかぁ?」なんて声をかけていただいて(^。^) すごく気さくに話しかけられてびっくりでした。 ここの近くに{太田図書のお墓}があるのですが、探していて場所が分からないというと、わざわざそこまで案内してくれたり、お城の周りのお宅も趣のあるお宅が多くて住みたくなるような感じでした。 遺構もよく残っていて、広々としていて地域の交流の場になってる感じでした。 本丸からの眺望 土橋 歴史・沿革 享徳の乱の折、文明10年(1478年)12月10日の境根原合戦で千葉自胤に敗北した千葉孝胤は、臼井教胤の養子となっていた一族の臼井持胤[1]の守る臼井城に籠城した。7ヶ月に及ぶ籠城戦の末、文明11年(1479年)7月15日に包囲を緩めた様子を見た城方が打って出て、激戦となり、そして落城したと伝えられる(鎌倉大草紙)。その時太田道灌の甥の太田資忠らが討ち死にし、現在も臼井城の土塁の上に太田資忠の墓が残されてる。 その後、足利政氏の次男足利義明が小弓城を征圧し小弓公方を自称した際には、臼井城主の臼井景胤は小弓公方側に立ち、千葉孝胤の嫡男勝胤とは立場を異にした。だが天文7年(1538年)10月第一次国府台合戦で足利義明が討ち死にした後は里見勢には組しなかった。 永禄4年(1561年)臼井久胤の時、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主正木信茂(従来の説では正木時茂)に攻められ臼井城は落城し、久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出、臼井氏は滅亡した。なお一説によれば、その時城は後見していた久胤の母方の祖父に当たるとされる原胤貞に乗っ取られた状態で、まだ10代だった久胤は軟禁状態にあったともされ、正木信茂の攻撃による混乱を好機ととらえ、母(原胤貞の娘とされる)とともに城を脱出し結城氏に臣従したとも言われており、結局、臼井城は原氏の手中に収まったとのことである。 永禄9年(1566年)には、上杉謙信と里見義弘に攻められ千葉胤富らが臼井城に立て籠り、3月20日には落城寸前となったものの原胤貞より指揮を受け継いだ軍師・白井入道浄三の知謀とその指示に基づいた北条氏側の松田康郷らの戦ばたらきにより謙信を大敗させている(出典:『歴史街道2007年09月号』、PHP研究所 )。 天正2年(1574年)に原胤栄(胤貞の子)は里見勢に生実城を追われたため、その後原氏が臼井城を本拠とする。 戦国時代末期には原氏が城主であったが、天正18年(1590年)の小田原征伐で徳川氏に敗れ、酒井家次が3万石で入封する。文禄2年(1593年)に城内より出火し灰燼に帰し、その後酒井家次は慶長9年(1604年)12月、上野国高崎藩に加増移封、臼井藩は廃藩となり臼井城は廃城となった。 室町時代後期以降の戦乱の時代において、後期千葉氏の拠る本佐倉城と比べて歴史的により重要な役割を果たしたが、戦乱の時代が終わり、土井利勝により慶長15年(1610年)に佐倉城が完成するに至ってその役目を終えた。 Wikipediaより |
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2009・02・11、12、13 子供の卒業旅行♪ 2月11日から子供が卒業旅行(ディズニーランド)に行くとのことで、前日ホテル取ったりいろいろ支度していました。 ところが、子どもたち「青春18きっぷ」がないことに気づく・・・ これが確か夕方5時くらい。 急遽、私が車で送っていくことになり大慌て(汗) 私は、どうせ行くならとお城調べに必死(笑) とにかく時間がないぃぃぃぃ〜〜〜! ・・・・・・ってなわけで 千葉に住んでる”じゅんぴぃ”にソッコウ電話☆ 私「もしもし、今から千葉の地図用意しといて♪そんでお城にマーキングしといて♪」 じゅんぴぃ「うん・・・えっ?作ってどうするの?どうすればいいの?送るの?・・・」 私「取りにいくから(^o^)丿」 じゅんぴぃ「えっ?どこへ?えっ?だれが?どういうこと?えっ・・・?」 私「とにかくいいから〜〜〜〜!作っといて!朝4時にそっち着くからぁ〜〜〜!」 じゅんぴぃ「えっ?今からって・・・」 なんて会話で、この時すでに時間は、21時くらい。 大慌てで資料用意して、着替えキャリーバックに突っ込んで、おにぎり作って水筒持って それいけぇ〜〜〜〜(^o^)丿 みたいな感じで、夜中1時過ぎに出発♪ 子どもたち車中で爆睡!!! 眠気と戦いながらぶっ飛ばす。 やっと、千葉到着4時過ぎ。 地図を取りにじゅんぴぃのところへ 地図作って待っててくれた。しかも、千葉のお城をすべて調べてマーキングしてくれてあった。 すげぇ〜〜〜〜ビックリした。 私のホテルまだ取ってなかったから、そういったらホテルまで取ってくれて(*^。^*) 資料と照らし合わせて、まわる順番まで決めてくれて・・・ じゅんぴぃほとんど寝てない様子・・・ 私・・・心の声 (ごめんなさい。ホント勝手ばかり言ってごめんなさい。 わがままばかりなのに、いやな顔一つせずに・・・ありがとう) 「じゅんぴぃ ホントありがとうございます❤ 感謝しています。」 やさしい。優しすぎる(涙)なんていい人なんだぁ〜〜〜♪ ・・・・・・なんて感動っ(^o^)丿しながら車走らせる。ディズニーランドへ・・・ 子どもたちを降ろしてお城へゴゥ〜〜〜★ てな感じの千葉始動なのでした。 下の写真がその時じゅんぴぃが作ってくれた地図です(@^^)/~~~マーキング丁寧にしてくれてあります。
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(遺構) 曲輪、空堀、土塁 (形状) 平山城 現地案内版より 2009・02・11 このお城は、土塁がすごいです。堀も大きくて見ごたえ十分です。 とにかくかんどぉ〜〜〜! 道場台を通り過ぎると、いきなり空堀が見えてきます。 そこを通り過ぎると右手に梅園があり、梅がちょうどきれいに咲き始めていました。 また堀を越えると、本丸と二の丸の間の小堀がなんとも言えません(^O^)/ 二の丸を先に進むと、印旛沼がきれいに見えます。 二の丸から左に曲がっていくと虎口がわかります。 道場台と三の丸の間の空堀 三の丸 土塁がはっきりわかります。 三の丸に咲く梅 土塁の高さに圧巻です。 二の丸跡 二の丸と本丸の間の小堀 小堀 本丸 二の丸からの眺望 早朝の印旛沼が太陽に映えてとても綺麗でした。 堀の大きさがわかるように、タイマーかけて突っ走って撮りました(笑) 1人って寂しいのね・・・誰も見てなくてよかった(笑) 師戸城は、千葉氏の一族であった臼井氏の居城である臼井城の支城として、14世紀に築かれたといわれています。その後、何度か改築され、現存するような形となったのは、16世紀中頃と推定されます。 城主については明らかでないが、江戸時代初期に書かれた「臼井家由来抜書」に名前の見える臼井氏四天王の一人である師戸四郎がこの城に関係があったかとも考えられています。 印旛沼の対岸にある臼井城とは、「渡(わたし)」で連絡され、臼井城の防衛に大きな役割を果たしたと考えられています。永禄9年(1566年)、上杉謙信の臼井攻めにもよくその猛攻を防いだが、天正18年(1590年)、豊臣氏による下総攻略で落城し、臼井城と命運を共にしました。 「本丸」、「二の丸」、「三の丸」、「道場台(どうじょうだい)」の4つの郭(くるわ)、外敵を防ぐための「土塁(どるい)」、「空堀」などがみられ、中世城郭としての様式をよく残すとともに、千葉県の歴史を知る上で価値の高い城跡であります。 園内には現在でも「空掘」、「本丸跡」、「二の丸跡」や「土塁(どるい)」が残されております。 印旛沼公園HPより |
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