お城 de ひとりごと (゜o゜)

お城,興味ない人でもじゃんじゃん遊んでってください(^o^)丿

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気賀関所

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 2008/12/20

気賀関所

浜松市北区細江町気賀4577番地

冠木門 町木戸門 本番所 向番所 遠見番所 姫様館 他


冠木門(かぶきもん)
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本番所
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雪隠(せっちん)
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遠見番所からの景色
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気賀関所

気賀の関所は、慶長6年(1601年)徳川家康によって設置されました。
当時の関所は気賀宿の東入口に位置し、敷地547坪(約1,805平方メートル)で、
裏に竹薮117坪(約387平方メートル)がありました。

周囲に瓦屋根塀・矢来をめぐらし、その中に本番所、向番所、遠見番所などの建物がありました。
本番所は通行人吟味する場所で、前には砂利を敷き詰めた広庭を隔てて向番所があり、
中には牢屋もありました。
また、向番所の裏には遠見番所があって、上に釣鐘が掛けてあり、
下には大砲一門が備えられていました。

関所は、主に「入り鉄砲に出女」など、
婦人の通行と当時最も恐れられていた武器である鉄砲の移動を厳しく取り調べました。
この建物は、江戸時代の文書や現存する本番所の一部などを参考にして、
平成元年ふるさと創生事業で再建したものです。
 
               気賀関所公式ホームページより

諏訪原城

諏訪原城
(所在地)島田市金谷町 牧之原字元宿
(遺構)馬出、空堀、曲輪、土塁、井戸、碑
(形状)台地城
(築城主) 馬場信春?
(指定文化財) 国史跡



2008/12/26

 初めて訪城しました。9割くらい・・・ということはほとんど当時のまま遺構がのこってるみたいでビックリしました。広くて、人も誰もいなくてお城独り占めな感じで、15時くらいだったのですが、薄暗い感じでした。
女1人は、ちょっと怖い?かもしれません。怖いもの知らずの私みたいなタイプのかたなら大丈夫だと思いますが・・・
是非、お友達や恋人、ご主人と行かれることをお勧めします(笑)
堀の数の多さと巨大な堀、土橋、曲輪の広大さに驚きの連続で一人で「お〜〜〜!」「すげ〜!」なんて叫んでました(^o^)丿
ガイドしてくれたらもっといいんだけどなぁ!
今度、見学会があったら参加してみようっと。


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大手曲輪
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二の丸跡
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搦手口
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諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡菊川(現在の静岡県島田市菊川)にあった戦国時代の山城である。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。徳川氏時代の城名は牧野城。『家忠日記』には牧野城のほか牧野原城とも記載。東照宮御実紀(徳川実紀)に、牧野の城(諏訪原をいふ)と記載。

現在は建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残り、戦国時代の武田氏・徳川氏の築城様式を知る上で貴重なものとなっている。国指定史跡。




立地
諏訪原城(牧野城)は遠江国の東端近くの牧之原台地の舌状台地の先端部に立地する。城のすぐ南を東海道が通り、東の金谷坂を下ると大井川をまたいで駿河国に入り、西の菊川坂を下ると小夜の中山を経由して掛川(現掛川市中心部)を中心としたやや広めの盆地部に出る。また、南に牧之原台地を下ると、菊川下流域の平野部に出る。


歴史
武田軍が遠江(徳川領)攻略の出城として築城し、天正3年(1575年)には武田氏と徳川氏で激しい戦いが繰り広げられたが、同年8月落城、徳川氏の城となる。


築城
永禄12年1569年)、駿河・遠江を領していた今川氏が武田氏と徳川氏に挟撃され滅亡し、駿河は武田氏に、遠江は徳川氏の所領となった。しかし、間もなく両氏は争うようになり、元亀2年(1571年)に武田氏当主・武田信玄は遠江南東部の高天神城を攻撃した。このときは落城させることが出来なく撤退したが、翌元亀3年(1572年)には徳川氏に大攻勢をかけ、二俣城などの諸城を落城させ、さらに本拠地・浜松城から討って出た徳川氏当主・徳川家康を三方ヶ原の戦いで破った。

翌元亀4年4月(1573年5月)、信玄は病死するものの、跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。ただし、このことを記す史料が『甲陽軍鑑』等確実とはいえない史料のため、築城者については確定できないものの、この時期の築城は間違いないと考えられている(『武徳編年集成』には永禄12年(1569年)に「金谷城」を築城したとあるが、この城が諏訪原城と同一かどうかは断定できない)。信玄後期から勝頼期に建設された城郭の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀が3乃至5箇所あり、枡形虎口などの遺構も残る。城の三方は台地の断崖となっており、前面の巨大な空堀がこの断崖へと続いている。小山城と共に、大井川西岸の防衛線及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。

                  ウィキペディアより

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高天神城

高天神城
(所在地)掛川市大東町 土方
(遺構)曲輪、土塁、井戸、堀切、碑、説明板
(形状)山城
(築城主) 不明
(主な改修者) 武田勝頼
(指定文化財) 国史跡


2008/12/26

ここは、何回行ってもいいですね〜!
急峻な階段を登ると本丸に向かうのですが、富士山がきれいに見えます。ハイキングには最適な場所です。結構広いので、時間をかけてゆっくり出かけると見るところがたくさんあります。南アルプスも天気が良ければ見えます。
一度登城する価値ありますよ(^^)必見!!!
堀切、切割などその他、甚五郎抜け道(別名、犬走り猿走り)なども遺っていて 退路が伺えます。


搦手門 高天神城跡の北側の入り口付近です。長い石段が上まで続きます。
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三日月井戸 三日月状の井戸で、城の守りに欠かせない貴重な飲料水でした。
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三の丸跡
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元天神社
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御前曲輪跡
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本丸から見る富士山
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本丸跡
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西の丸跡
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石牢址 天正2年の開城時に、最後まで武田勝頼に降伏しなかった大河内源三郎政局が8年にわたって幽閉された石窟
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高天神社
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かな井戸 合戦中、ここに深井戸を掘って露命を繋ぎ、また勝頼率いる武田勢の猛進を仕切りを設けて必死の防戦に努めた場所
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高天神城略図 現地案内版より
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《今川氏滅びる》

 駿河と遠江二ヶ国の守護、今川氏真(うじざね)が、駿府今川館を、武田信玄によって逐われたのは永禄11年(1568)12月13日、信玄と家康が相談し今川領に同時進攻をはかった。
 氏真は掛川城に逃げこんだが家康に包囲されてしまった。永禄12年(1569)1月12日から5月17日まで、はげしい攻防戦がくりひろげられた。
 その攻める徳川軍の中に、寝返った(今川から徳川へ)ばかりの高天神城主の小笠原氏興・長忠の父子がいた。
 そして5月17日、氏真が降服し今川氏は滅び、家康はほぼ遠江を平定した。

《第一次・元亀2年の戦い》

 信玄は永禄12年(1569)10月、家康が越後の上杉謙信と盟約を結んだことを知り、これに刺激されて翌年の元亀元年(1570)、いよいよ本格的に遠江への侵攻を開始することとなった。
 元亀2年(1571)2月、信玄自ら2万の大軍を率いて甲斐を出発し、3月に高天神城の南東にあたる塩買坂(現在の菊川市川上)に陣を張り高天神城の攻めにとり組んだ。
 しかし信玄は、「城外に出ている高天神城の兵たちを城内に押しもどすだけでよい。」とばかり獅子ヶ鼻(現在の菊川市大石)と国安川のニケ所で小競りあいを行なっただけで、三河に進み、伊那を通って甲斐にもどった。
 真相は、高天神城が天嶮の要害に築かれた堅城であるのを見て、力攻めをあきらめたようだ。
 こうして第一次高天神城の戦いは終った。
 このとき城に籠った兵は、城主小笠原長忠以下2,000名といわれる。

《第二次・天正2年の戦い》

 元亀2年の戦いは、信玄による示威行動で、本格的な攻防戦にはならなかった。しかし信玄は、重圧に命じて高天神城を囲ませていて、このときから高天神城は臨戦体勢をとることとなった。(三方ヶ原の戦いの項を参照)
 元亀3年におきた浜松城を守る家康と信玄の三方ケ原の戦いのあと信玄は死去。その後をついだ勝頼は、天正2年(1574)5月、高天神城を狙って、25,000の兵を率いて出陣し、12月には城を包囲。
 城主、小笠原長忠は早速使いを浜松城に出し、後詰(敵の背後から襲うこと)として援軍を要請。
▲ 家康が遠州攻略の拠点とした浜松城




 勝頼が全力をあげて高天神城を包囲したことを知った家康は、さらに信長の援軍を要請した。
 なかなか後詰のこない高天神城では、武田軍の猛攻がくりかえされており、6月11日には本曲輪(本丸)二の曲輪(二の丸)しか残っていなかった。
 城主長忠は、家康からの後詰めなく生き残る道を模索しはじめ、勝頼に対して、いろいろな願いごとがなされた。
 勝頼は、何としてでも高天神城を手に入れたい一心から、この小笠原長忠に好条件を提示して味方に誘った。このときの開城の条件として、勝頼は城兵の命を保障したばかりでなく、城主長忠と共に武田方につくのもよし、そのまま家康方に残るもよし、とその後の進路は各人の判断にまかせた。
 長忠は駿河国富土郡の一部を与えられ、渡辺金太夫たちは武田方へ、渥美源五郎らは徳川方へ残り、6月17日に開城した。


▲戦国時代の高天神城の想像図

《第三次・高天神城の戦い 〜落城〜》

 高天神城が武田方のものになったため、家康は高天神域に対する押さえの城を築く必要にせまられ横須賀城のほかに、小笠山砦、三井山砦など計6つの砦を築いた。
 高天神城には小笠原氏に代って横田甚五郎尹松が城番(城代)として入ったが、天正7年(1579)には岡部丹波守真幸と交代し、横田は軍監となった。
 第二次高天神城の戦いの翌年には長篠の戦いがあり、勝頼は大敗、武田勢は守勢に転ずることとなった。
 家康は北遠地方の城を次々と勝ちに乗じてとり返し、遠江における武田の城は、高天神城と小山城しかなかった。
 高天神城に籠城する武田軍と、攻める徳川軍との間で、はじめて大がかりな武力衝突があったのは天正6年(1578)、国安の菊川の川辺であった。
 城外でたびたび小競りあいがあった中で、家康は着々と高天神城包囲の態勢を整えた。要するに兵糧攻め。勝頼が運び込む兵糧、弾薬をストップさせれば、城は自然に落ちると考え、高天神城に入れない監視所が必要となった。これが砦であった。(天正7〜8年をピークに築かれた。)
 高天神城の岡部長教(岡部丹波守妻幸と同じらしい)ら籠城衆は、何度勝頼に応援を依頼しても音沙汰がないため、とうとう独自の動きをとった。
 「降服したい」と家康に申し出が矢文を使ってなされたが、家康はその申し出を許可しなかった。
高天神城ではいよいよ兵糧がつきてきた。勝頼の後詰の動きはない。
城主岡部長教は天正9年(1581)3月22日、血路を開くため、ついに城内から全員が討って出、玉砕した。
 実に壮絶な戦いだった。死者730余名が堀に埋まったという。家康は戦い終って城内を検視し、城郭を焼き払って浜松城へ帰った。
 「高天神城落城」第一次の戦より約10年の長い武田、徳川の攻防であった。
 翌年、武田勝頼は自刃し武田氏は滅亡した。


                 掛川市役所商工労働観光課 ホームページより

掛川城

掛川城
(所在地)掛川市 城内
(遺構)掛川市 城内 木造復元天守、御殿、土塁、空堀、碑、説明板
(形状)平山城
(築城主) 朝比奈泰煕
(主な改修者) 山内一豊
 指定文化財 国の重要文化財(二の丸御殿)



2008/12/26

掛川城訪城3回目になります。最初のころとずいぶん感じが変わったような気がします。
町全体がお城!!!みたいな感じで。大河ドラマの影響なのかな?道路もきれいに整備されてオシャレな雰囲気になっててびっくりしちゃいました。
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大手門
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大手門番所
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三日月堀
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十露盤堀(そろばんぼり)
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太鼓櫓
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掛川城御殿 現存する御殿です
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天守曲輪にある霧吹き井戸
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戦国時代、掛川は東海道の東西交通の要衝として重要な戦略拠点であったため、今川、徳川、武田氏など多くの武将がこの地をめぐって争いを繰り広げました。
 掛川城は、室町時代に駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まりです。しかし、今川義元が桶狭間で討たれると今川氏は力をなくします。1568年、武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ今川氏真を徳川家康が攻め、半年に渡る激しい攻防戦の結果、家康は掛川城を手に入れます。

 1590年、事実上の天下統一を果たした豊臣秀吉の命により、掛川城には”内助の功”で有名な山内一豊が入城します。一豊は戦乱で傷んだ城の大改築を実施し、同時に城下町の整備を行いました。
 江戸時代になると、掛川城には徳川の譜代大名数氏が城主を引き継ぎ、最終的には太田氏(太田道灌の子孫)の居城となり、明治維新まで続きました。
 しかし、1854年の嘉永の大地震により天守が倒壊し、その後しばらくは再建が行われることはありませんでした。

 現在の掛川城は平成6年4月に、日本初の本格木造天守閣として復元されたものです。天守閣の再建にあたっては、山内一豊が築城した高知城を参考に、残された図面に基づき、樹齢300年を越える厳選された青森ヒバを用いて、「東海の名城」とうたわれた往時の美しさを忠実に復元しました


              掛川市役所商工労働観光課ホームページより

横須賀城

横須賀城
(所在地)静岡県小笠郡大須賀町松尾町
(遺構)曲輪、石垣、土塁、水堀、碑、説明板
(形状)平山城
(築城主) 横須賀康高
(指定文化財) 国史跡


2008/12/26

ホントに寒くて、手袋を忘れたので手がかじかんでカメラが持ちにくかった・・・
今回2回目の訪城で、前回は2時間くらいかけて自転車ででかけたけど 今回は寒くて断念しました(笑)
このお城の近くに愛宕下羊羹って和菓子やさんがあるんですが、栗ようかんがとてもおいしいです。
いつも早い時間に売り切れてしまって、なくなったら閉店みたいだからありつけない・・・
食べたかったよ〜〜〜!栗よ〜〜〜かぁん(^o^)丿

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横須賀城(よこすかじょう)は、遠江国城東郡横須賀(静岡県掛川市横須賀)にあった戦国時代から江戸時代にあった城。平城。武田氏の高天神城に対抗するため徳川家康が大須賀康高に命じて築いた城郭である。大須賀家2代の後、渡瀬家1代、有馬家1代、その後、再び大須賀家2代となるが除封され、能見(松平)家2代、井上家2代、本多家1代とめまぐるしく藩主が代わり、西尾忠成が2万5千石で入封し、以後7代をもって明治維新を迎える。

西尾家歴代の藩主のなかで忠尚は名君の誉れ高く、若年寄を勤め5千石加増され、都合3万5千石になり、老中も勤めている。

               ウィキペディアより

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