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いつも、行くお城によってスタイルを考えていくわけですが、山城中心のときはこんな格好です。
今回は、寒さが予想されたので寒いの大嫌いな私は半端なく着こんでいきました。 インナーに、セーター、フリース着てダウン着て(笑) 下も中にもちろんインナーはいてます。それとトレッキングシューズはかかせないです。 この格好が一番落ち着く感じです。 雨対策にカッパ、それから水筒、お弁当、お菓子って・・・まるで遠足です。 |

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こんにちは、ゲストさん
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いつも、行くお城によってスタイルを考えていくわけですが、山城中心のときはこんな格好です。
今回は、寒さが予想されたので寒いの大嫌いな私は半端なく着こんでいきました。 インナーに、セーター、フリース着てダウン着て(笑) 下も中にもちろんインナーはいてます。それとトレッキングシューズはかかせないです。 この格好が一番落ち着く感じです。 雨対策にカッパ、それから水筒、お弁当、お菓子って・・・まるで遠足です。 |
(遺構)曲輪、土塁、畝状空堀、竪堀、堀切、碑、説明板 (形状)山城 入城口です 2008/12/31 場所が少しわかりにくく迷いました。「龍護寺」というお寺の南側からちょっと奥に行くと登城口があります。搦手までまわると、少し距離があります。 まず、畝堀と何箇所かに看板が出ていますが、シダが生い茂っていて確認できませんでした。 空堀はわかります。 少し時間はかかりますが、是非搦手まで廻ってみてください。道も人が通れるようになってますから、楽しめると思います。 こんな感じの山道を登っていきます。 残念ながら 石垣は葉で覆われ写真では確認できませんが・・・ 明知城(あけちじょう)は、美濃国明知(現在の岐阜県恵那市明智町)にあった戦国時代の山城。別名白鷹城(しらたかじょう)。現在は江戸時代の一国一城令により廃城し、城址となっている。明智光秀の生誕の城といわれているが定かではない(可児市にある明智長山城で出生した説もある)。
城の概要
明知城は明知遠山氏累代の居城であった。岩村城の南西8kmに位置する遠山十八城のひとつであり、城主は、岩村・阿照・明知・串原・苗木・安木と並んで遠山七頭と呼ばれていた。そのうち「岩村遠山家」と「苗木遠山家」そしてこの「明知遠山家」を「遠山三家」といい、美濃国東濃地方に威を張っていた。江戸時代の名奉行・遠山の金さん(遠山左衛門尉景元)は、この明知遠山氏の六代目子孫である。標高530メートルの山に築かれた天険の地形を巧みに利用した平山城で、土盛砦として保塁数大小23箇所あり、今でもその様子が原形のまま残っているのが日本でも数少ないとされ、県の指定文化財となっている。重要な砦には石垣を積み上げ、中に陣屋として実践に備えた館5棟があった。
城の歴史
宝治元年(1247年) 築城 遠山三郎兵衛景重が築城した。遠山景重の先祖は加藤景廉(源頼朝の重臣)が遠山庄地頭になり、その子岩村城主景朝はこの地名をとって遠山と姓を改めた。遠山景重は加藤景廉の孫にあたる。 戦国時代前の状況(〜1570年) 戦国時代には美濃国東濃地方は信濃国・三河国との国境界に位置するため、美濃攻略を狙う武田と織田の争奪戦が繰り広げられた。始めは武田信玄に従っていた遠山家だが、明知城主遠山景行も織田信長の婚姻政策によって織田勢についた。 元亀3年(1572年) 12月 上村合戦で遠山景行戦死 武田信玄は足利義昭の要請で上洛を決意。東美濃でも高遠城主秋山信友に三千の兵を率いさせ侵攻。その11月、岩村城では秋山信友の和議の申し入れを受け開城した。当主の遠山景任は、元亀元年の武田勢との戦いで負傷、翌年に亡くなっていた。それで一人身となっていたお艶の方を籠絡したのである。 岩村城を手に入れた秋山信友は、さらに兵を進め、上村(現在の恵那市上矢作町)で明知・苗木・飯羽間・串原・足助の諸将の遠山連合軍と東三河の徳川の援兵合わせて五千と戦い、これを攻略した。この上村合戦において、明知城主遠山景行は5・6騎の兵とともに落ちのびたが自刃した。また、景行の甥で娘婿にあたる小里光次も戦死している。新しく明知城当主になった遠山一行(景行の長男景玄の子)が幼少のため、馬場山田・万勝寺に出家していた景玄の弟が還俗し名を遠山利景と改め、一行を補佐し明知遠山氏を守った。 元亀4?年(1573?年) 明知城奪還 遠山一族は秋山勢に歯が立たず織田信長に救援を求めた。信長は時を移さず明智光秀を急派し、秋山勢を美濃領から駆逐するように命じた。両軍は山田子村で対陣、三日間に渡る激戦の末、秋山勢は敗れて信濃に撤退した。 天正2年(1574年) 2月 明知城落城 武田信玄の遺志にて武田勝頼は美濃、尾張、三河、遠江、駿河攻略の拠点となる明知城を、一万五千の大軍をもって襲撃する。明知城主遠山一行・叔父利景らは兵五百でこれを防ぎ、織田信長に急を報じた。信長は明知城を失う重大さを思い、奈良多聞山城から呼び寄せた子信忠と明智光秀とともに、三万の兵にて明知城西八丁の鶴岡山に布陣し、包囲された明知勢と連絡して武田勢を挟撃しようとした。 勝頼は山県三郎兵衛昌景に命じて兵六千で信長の退路を断った。信長は山岳戦の不利を思い、光秀をなだめ、仕方なく撤退する。援軍を失った明知城は篭城奮闘したが、城内では飯狭間右衛門による謀反が起こり、援軍として在城する坂井越中守を滅ぼし、また搦手水の口曲輪が破られ城郭・城下は火の海となり、戦死者五百を数えた。この戦いで遠山十八城のうち明知城は17番目に落城した。当主一行は利景とともに城を脱出し、妻の実家である足助の鈴木氏を頼った。 天正3年(1575年) 5月 明知城奪還 織田信長は長篠の戦いで武田勝頼を破ったのに続いて、嫡男信忠を総大将とする武田征伐軍が武田方に占拠された諸城を次々に奪回し、明知城も再び織田方の城となる。足助の鈴木氏を頼っていた遠山利景と一行は、明知城に帰還した。 天正11年(1583年)利景、家康を頼る 美濃の領主であった信長の三男信孝を追い出し自害させた秀吉のもと、池田恒興が岐阜城主となり、その娘婿で東美濃を任された森長可が支配権を行使するなか、圧迫された遠山利景は従兄の小里光明(和田助右衛門)とともに、足助の鈴木氏を頼った。利景の妻は鈴木重直の娘、小里光明の姉妹が鈴木重直の嫡男で現当主の鈴木信重の妻という関係である。鈴木は徳川と縁戚関係にあり、家康の大叔母で育ての母松平久子が鈴木重直の妻となっていたので、家康の配下にあった。 一行は本能寺の変の際に利景とともに甲斐に在番していた。変の混乱の後、一行を甲斐に残し、利景のみ明知城に戻った。その帰路、家康の家臣本多重次に会い、徳川に味方することを誓っている。一行はそのまま甲斐に残り、その後松平頼国(依田頼国)に従って信州を転戦した。 天正12年(1584年)4月 再び奪還するが剥奪される 小牧・長久手の戦いにおいて、遠山勢は菅沼定利の部隊に組み込まれた。長久手の戦いで岩村城主森長可が没したその隙に、家康の命により明知城を奪還する。しかし、家康が和睦し、天下人豊臣秀吉に城を長可の弟森忠政に返すよう命じられ、森左近が明知城城代となる。再び足助の鈴木氏を頼った。 慶長5年(1600年)2月 原土佐守が明知城城代となる 秀吉死後、さまざまな確執がある中、家康は森忠政を川中島に移封、代わりに田丸直昌を岩村城主とした。その際明知城城代として原土佐守を置いた。 慶長5年(1600年)9月 関ヶ原合戦 故城奪還 関ヶ原の戦いの際、小山の陣から真田氏とともに田丸氏は家康から離れ西軍に属することした。家康は秀忠軍が通ると想定されたことから、利景に東美濃奪還を命じた。利景の子の方景や小里光明とともに、また妻木氏などと協力して田丸勢を追い出し、明知城を奪取し東美濃を平定、岩村城も開城させた。 慶長8年(1603年)9月 旗本になる 東濃平定の戦功により遠山利景は、恵那・土岐郡内で六千七百石を与えられ旗本となる。旗本五千騎のうち、六千石以上の旗本は50指に満たない。岩村には、(大給)松平家乗が入城するが、家乗は利景の妻の親戚筋(松平久子の曾孫)となる。 元和元年(1615年)一国一城令により廃城 一国一城令により旗本二代領主遠山方景に江戸邸が与えられ、明知城は廃城となり、城下大手門近く(北西側麓)に陣屋を構える。この陣屋は代官が江戸時代から明治の大政奉還まで行政を行ったところである。 Wikipediaより
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(遺構)石垣、井戸、曲輪 (形状)山城 築城主 加藤景廉 築城年 1185年(文治元年) または1195年(建久6年) 主な改修者 川尻鎮吉、各務兵庫 主な城主 遠山氏、森氏、大給松平氏 丹羽氏 指定文化財 史跡 2008/12/31 ここも、私のお気に入りのお城です。今回2回目の訪城となりますが、石垣がスゴイです。 800メートルほどの石段を登ると天守にたどり着きますが、途中看板が出ていて「あと700メートル」とか「あと600メートル」みたいな感じだから、少し大変だけど山城より気持ち的に楽かなぁ? 前回のときは、道が途中崩れていてかなり凸凹していて歩きにくかったけど、今回はすっかり修復されていました。 岩村城の石垣は、ほんとに凄いです。素晴らしい!!! 日本三大山城と銘打つだけの事はあります。ここもまた訪れたいお城の一つです。 苗木城と共に、歩きやすい格好で出かけてみるとよいと思います。 天守跡 本丸埋門 出丸跡 駐車場になってます 昇龍の井戸 天守郭にあります 霊泉 霧が井 菱櫓と俄坂 霧が城 龍神社 竜神の井 太鼓櫓 この石垣のライン 大好きです(^。^) 概要 岩村城は恵那市の南部に位置し、恵那駅より明知鉄道明知線で5駅目にあたる岩村駅の南東に位置する城山山上にある。本丸が諸藩の居城中最も高い海抜721mに位置していた。このため、日本三大山城の一つに数えられている。 本丸の外側に二の丸、西外側には出丸、二の丸の外側に三の丸が配されていた。本丸には二重櫓が2基あったが天守はなく、三の丸大手口にあった三重の到着櫓が天守と言えるものであった。
歴史・沿革
城の創建は古く、1185年(文治元年)鎌倉時代初頭に源頼朝の重臣であった加藤景廉が美濃国遠山荘の地頭に就いた時に始まる。しかし、一説には築城年代は1195年(建久6年)ともいわれる。景廉は遠山荘を所領したが領地への赴任は一度もなく鎌倉にあって頼朝の側に仕えた。景廉の子、景朝の代になって初めてこの地に赴任し、姓も遠山と改めた。以後、遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。戦国時代以前
戦国時代・安土桃山時代
1570年(元亀元年) 遠山氏最後の城主は景任で、武田信玄によって攻められたが織田信長の援護もあり守り抜いた。 1571年(元亀2年) 景任が病没すると信長は5男で当時6歳の御坊丸を遠山氏の養子とした。景任夫人は信長の叔母にあたる人(「おつやの方」又は「おゆうの方」又は「お直の方」)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。 1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に秋山信友に岩村城の攻略を命じた。しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、信友は夫人を説得し妻に迎えることを条件に城は開城した。 1575年(天正3年) 長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。長男信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、城は陥落した。開城の際、助命が約されていたが織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。 織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。河尻秀隆が甲斐国に移封となると、森氏の居城となり蘭丸、長可、忠政の3代続いた。この時の城代となった各務兵庫助元正は18年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。 豊臣氏の時代、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。 1600年(慶長5年) 田丸氏は関ヶ原の戦いで西軍につき改易されると、松平家乗が入城した。 1601年(慶長6年) 家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備した。
江戸時代
1645年(正保2年) 大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城。 1702年(元禄15年) お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封となった。同年に信濃小諸城より松平乗紀が入城した。乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けた。以後、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。
近現代
廃城令により、1873年(明治6年)城は解体され石垣のみとなった。藩主邸は残されたが、1881年(明治14年)に全焼した。跡地には1972年(昭和47年)岩村町歴史資料館が開館した。1990年(平成2年)藩主邸の一部、表御門・平重門・太鼓櫓などが復元された。2006年(平成18年)には日本100名城の一つに指定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリー(38番)が開始された。
遺構
遺構の保存状態は良く、石垣、井戸等が良く残る。建造物は廃城の際解体されたが、土岐門が徳祥寺の山門として、不明門と伝わる門が妙法寺山門として、それぞれ移築され現存する。また、どこの建物かは不明であるが、勝川家の土蔵の一部として岩村城の部材が利用され残る。岩村町の八幡神社本殿はまた、城内から移築されたものである。 |
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2009・01・05 |
(遺構)石垣、曲輪 (形状)山城 築城主 遠山直廉 築城年 天文年間 主な城主 遠山氏、森氏、川尻氏 指定文化財 国史跡 2008/12/31 よく晴れてました。今回2回目の訪城で、ここは岩村城と共に私の中ではめちゃくちゃお気に入りのお城で、前回の時は、あまりの興奮に落ち着いて見ることのできない部分も今回は落ち着いて大人な感じ?(笑)で見ることができました。思い出の多いお城なので、自分のなかでも何か感じることも多くこれからもっともっと頑張らなくちゃなぁ〜!!!なんて思いつつ廻りました。 ここは、石垣が多く眺望も素晴らしく、お城好きな方でなくとも感銘を受ける場所だと思います。私的には秘密基地的な感覚で、童心に返って遊べる感じの場所でもあったりして(^o^)丿 また、いつか訪ねたいお城です。 今回は、連休中のせいか、何人かのお城好きそうな方々とすれ違いました。中には、熊本ナンバーの車も来ていて、驚きました。 大矢倉跡 牢屋 苗木城には1つしか牢屋がなく、三の丸と二の丸を区切る部分に位置する 苗木城天守台からの展望
概要
戦国時代の天文年間に遠山直廉が築城した。織田信長没後、豊臣方の森長可に城を落とされ、城主遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。 関ヶ原の戦いが起こると、友忠の子遠山友政は豊臣方の川尻氏から苗木城を奪い取った。戦後この功が家康に認められ、遠山氏は再びこの地に返り咲き、苗木藩主として幕末まで苗木の地を治めた。
遺構
山上に石垣および堀が良く残る。また、菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。建築物としては、大手門の扉と柱が残り、中津川市苗木遠山史料館にて展示されている。
沿革
天文年間、遠山直廉により築城される。 天正11年(1583年)、本能寺の変後、森長可に攻められ落城した。 慶長4年(1599年)、森氏が川中島に移封され、替わって川尻直次が入った。 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの際、徳川家康の下に逃れていた遠山友政が攻め落城、同戦役後一万石余りをもって苗木に封じられ居城とした。 以後、明治4年(1871年)に廃城となるまで、遠山氏十二代の居城として用いられた。 昭和56年(1981年)、国の史跡に指定された。 Wikipediaより
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