お城 de ひとりごと (゜o゜)

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墨俣城

墨俣城
(所在地) 大垣市墨俣町墨俣
(遺構) 模擬天守
(形状) 平城
 指定文化財 史跡
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2009/01/03


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墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城である。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜で築城したという逸話がある。

概要
長良川西岸の墨俣の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。

墨俣築城に関して、司馬遼太郎は著書『新史 太閤記』(新潮文庫 1968年)で、美濃攻めにおいて織田信長の軍にとっては戦場が遠いことから前線基地として墨俣に築城する必要があるとの当時の木下藤吉郎の進言で信長は築城を任せ、3日でほぼ完成させたと表現している[1]。しかし、ここに墨俣城が創建された年代や位置については、明らかではない。墨俣の周辺は木曽三川の洪水によって頻繁に川の流路が変わったり、沿岸の土地が流れに浸食されたことで戦国時代当時とは地形が変わってはいるが、墨俣を描いた古地図には、墨俣の町の北辺に当時の城跡らしい三方を川に囲まれた台地があり、「城あと」の地名が記されているので、これが墨俣城跡であると推定されている。

現在、墨俣城跡は、一夜城跡として公園に整備されており、史実とは全く異なるが大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられている。また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。


歴史
織田信長の家臣太田牛一の記した『信長公記』には1561年に信長が美濃の戦国大名斎藤氏の「洲俣(すのまた)」にある拠点と交戦したこと、「洲俣要害」を修築して信長自身が在陣したことが記されており、この頃墨俣に要害(城)らしいものがあったことはほぼ確実である。

その後、1566年に木下秀吉(豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いて在城したとされるが、これについては後述する。『武功夜話』によれば、織田信長の稲葉山城攻略の際、秀吉はこの城から出撃して大功を立てたという。

墨俣城が最後に歴史に現われるのは1584年4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修した。その2年後の1586年6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることはなかった。

                Wikipediaより

岐阜城

岐阜城
(所在地)岐阜県岐阜市
(遺構) 模擬天守、石塁、天守台、櫓跡
(形状) 山城
 築城主 二階堂行政
 築城年 1201年(建仁元年)
 主な改修者 織田信長
 主な城主 斎藤氏、織田氏
 廃城年 1600年(慶長5年)
 指定文化財 史跡

 
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2008/01/03

 2回目の訪城となります。標高329mの金華山からの眺望は素晴らしいです。
期間限定で夜景も見られるようで、夜景綺麗だろうなぁ?とか思いました。
途中ロープウェイを使わず歩いて登ってくるおじいちゃんとお話しました。
 「結構大変だけど、時間かけて登れば大丈夫(^^)」なんていいながらとてもいい顔してました。
帰りも、そのおじいちゃんは歩いて下って行きました。感服いたしました(^O^)/

三重塔
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天下第一の門
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上格子門跡
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金銘水 岐阜城井戸
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二の丸門跡
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岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。織田信長が、斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。信長公記に、稲葉山、井口山、井口と記載されている。尾張国小真木山から、濃州稲葉山へお越し、井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けたという。井口山からのつづきが、瑞龍寺山という。

信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する。


歴史・沿革

鎌倉・室町時代
1201年(建仁元年) 二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが始まり。続いて二階堂行政の女婿の佐藤朝光、その子伊賀光宗、その弟の稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永がこの城を修復して、居城とする。

戦国時代
1525年(大永5年) 斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
1533年(天文2年) 長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年) 守護代になっていた道三が、金華山山頂に城作りを始める。
1554年(天文23年) 道三は城を嫡子斉藤義龍に譲る。
1564年(永禄7年) 斎藤氏の家臣であった、竹中半兵衛重治と安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斎藤龍興らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。
1567年(永禄10年) かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。しかし信長は守りを重視した山城には住まず、金華山の麓に御殿を作り、そこを住居とした。御殿へと通じる道の両側に当時は石を積んだ塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところに信長の御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた四層の華麗なものであった[1]。
1582年(天正10年) 織田信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、降伏。
1583年(天正11年) 羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。
1583年(天正11年)から1591年(天正19年)の間、羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城となる。
1600年(慶長5年) 秀吉によって13万石の城主に封ぜられていた城主織田秀信(幼名・三法師)は、石田三成の挙兵に呼応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。
1601年(慶長6年) 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだともいわれている。

               Wikipediaより

竹中氏陣屋

竹中氏陣屋
(所在地)垂井町 岩手
(遺構)櫓門、石垣、堀、土塁、碑、説明板
(形状)平城
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2008/01/03

 小学校や幼稚園に隣接して櫓門があります。あたりは、民家でちょっと不思議な感じがしたけど、普通の暮らしの中にこういうものが残ってるってすごいことだと思いました。
自分の住んでいる地域にもこういった感じのものがありますが、昔から見ているものなのできっと違和感ないんですね。
もっと、地元にも興味もって歩いてみたいと思いました。


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竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、岐阜県不破郡垂井町(美濃国不破郡岩手)にあった陣屋である。別名、岩手城、竹中陣屋、岩手陣屋。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治(竹中半兵衛)の子である竹中重門が築いた陣屋であるが、敷地を囲む水堀があり陣屋というより小型の城に近い。

元々、竹中氏の居城は菩提山城であったが、山城で不便なことから、麓に陣屋を築いたという。


概要
1588年(天正16年)、竹中重門が菩提山城の山麓に陣屋を築く。尚、築いた時期は、文禄から慶長年間の頃の説もある。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにて、竹中重門は当初西軍につき、犬山城城主石川貞清に協力。稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らと犬山城に籠城する。しかし、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わり、黒田長政軍として参戦する。関ヶ原の戦いは竹中氏の領土も戦場となったことなどから、徳川家康より1千石の米を下賜され、また、領土(不破郡岩手 6,000石)を安堵される。

竹中氏は旗本交代寄合として、1868年(明治元年)まで存続する。

現在その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っている。また入り口付近に竹中重治の像が建てられている。

                 Wikipediaより

篠脇城

篠脇城
(所在地)郡上市 大和町牧字志ノ脇
(遺構)石垣、空堀、碑、畝状竪堀
(形状)山城
築城主 東氏村
 築城年 鎌倉時代末(1310年頃)
 主な城主 東氏
 指定文化財 史跡

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2009/01/01

 東氏館を通り過ぎると、入城口があります。入口に杖がおいてありますので、是非使ってみてください。ここで、登る途中くまさんに出会いました。木をカリカリやっててビックリしました。
見間違いではないとおもいます。鹿やたぬきにはあったことはありますが、くまは初めてで驚きました。
歩いて行くと、「大手門通」という看板がでてきます。そちらのコースがおすすめです。
楽に歩きたい方は、その看板を右に上がっていくとスムーズに天守に向かえます。
大手門通の道は、放射線状に竪堀がみられます。ここまで凄いのは、初めての経験でとにかくそんなだから道は、凹凸になっていてあまりよくありませんし、途中狭くなってるところもありましたが、あの竪堀をまじかに見ると圧巻です。
そのためにも、杖は持って行ったほうがよいと思います。私見ですけど・・・(笑)


東氏館跡と庭園の横を歩いて行くと登城口にいけます
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登城口
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現地案内版より
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途中何体か迎えてくれます
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是非こちらにどうぞ!!!
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こんな竪堀が何本も迎えてくれます
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城用井戸跡
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途中の道です 雪が降っててこんな感じでした
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篠脇城からの眺望
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篠脇城(しのわきじょう)は、岐阜県郡上市にかつて存在した山城。東氏が8代・約230年間にわたって居城とした。栗巣川左岸の篠脇山山頂にあり、北は牛道郷(現・郡上市白鳥町)、北東は寒水(現・同市明宝村)、東は小駄良(現・同市八幡町)にそれぞれ通じ、西には長良川がある要衝だった。現在は県指定の史跡。


歴史
『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされる。1468年(応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城したが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはある。1471年(文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けている。1540年(天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶が撃退している。翌1541年に常慶は八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となった。後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としている。


構造
年不詳の『篠脇城跡略図』によると、麓の東西に土井、中央に門口、東方に矢場、西方には馬場があったとされる。土井囲の中には東氏の館があった。現在は山麓の登り口に表門跡とされる礎石がある。また、山頂の三段の平地のうち最上段が本丸跡と推定される。城郭を囲む放射線状の30本余の竪堀がこの城の特徴で、臼の目堀ともよばれる。ほとんどは深さ2〜3m、底幅2m、長さ10〜40mで、その内2本が山麓まで達する。二の丸の西北に湧水があり、城の飲料水だったと考えられる。

                   Wikipediaより

郡上八幡城

郡上八幡城
(所在地) 郡上市 八幡町柳町
(遺構) 模擬天守、石垣、井戸
(形状) 平山城
 築城主 遠藤盛数
 築城年 1559年
 主な改修者 遠藤常友
 主な城主 遠藤氏、青山氏
 廃城年 1871年
 指定文化財 岐阜県史跡
       郡上市有形文化財(模擬天守)

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2009/01/01

 司馬遼太郎さんが日本一の美城と評しただけのことはあるなぁ・・・と思うほど風光明媚なところで眼下に広がる町並みも山々も落ち着いた雰囲気の漂う感があります。
 今回2回目の訪城となりますが、東海北陸自動車道を岐阜市街から郡上方面に向かうとその姿が現われ遠方から見ても素敵な感じです。

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土霊水 八幡城本丸跡にある井戸
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お城からの眺望
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現地案内版より
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概要
戦国時代末期の永禄2年(1559年)、遠藤盛数が八幡山の上に砦を築いたことが郡上八幡城の起源である。その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放される。慶隆追放後稲葉貞通が一時城主となり、この際に天守や二の丸などが建造されている。その後関が原の戦いの功により再び慶隆が城主となり、以来廃藩置県まで郡上藩の藩庁となる。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以下井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となる。廃城の翌年、石垣のみを残し取り壊わされる。

現在の天守は、大垣城(当時)を参考に昭和8年(1933年)に造られた。模擬天守としては全国的にも珍しい木造。石垣が岐阜県史跡に、天守閣が郡上市有形文化財に指定されている。内部は歴史資料館などとして利用されている。山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しい。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。


現存する建物遺構
二の門は競売にかけられ、使用されたが、その後、門扉部分が美並村根村の宝樹庵の庫裡御堂の正面の戸として移築され現存する。その他、本丸御殿の部材が善光寺に、城郭の部材が愛宕町の民家に、それぞれ用いられたと伝わるが、いずれも原型を留めていない。
      
                   Wikipediaより
                 

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