(所在地) 浜松市 天竜区佐久間町浦川
(遺構) 曲輪、土塁、空堀、
(形状) 山城
2009/02/01
本曲輪の周りをぐるっと約2mにわたって横掘が廻っています。
本曲輪に着くまでに竪掘が二か所ほど確認できます。
北曲輪が伸びていて広々としています。三遠国境に作られた境目の城。本曲輪を中心に4つの曲輪があります。
ここは、2回目の訪城でした。前回は、まだ山城というものを廻り始めたころで看板もなくまったくなんだかわからずに、山登り感覚でまわりましたが(笑)少しづつ知識もついて、どういったものなのかわかってくるようになった自分にも驚きましたが、本丸を廻る空堀に感激しました。
こうして、これからも少しづつでも勉強していけたらいいなぁ!と思い、城を後にしました。
四百年前の「戦国時代」、最も勢力の強かった大名は、駿河からこの地方まで勢力をもっていた今川義元でした。
一方、甲斐の武田信玄、三河の菅沼氏や伊藤氏もこの北遠地方に勢力をのばそうとしていました。
こうした中、鶴ケ城は川上地区の高さ約百メートルほどの山の頂に永禄七年ごろ築かれました。下から見上げると、ちょうど鶴が舞い立つように見えることからこのような名前となりました。城主もこの城の名をとって、鶴山大磯之丞と言いました。
永禄三年、今川義元は大群を率いて、駿府から京都へ、天下統一をしようとしましたが、桶狭間において織田信長に大敗し、命を落としました。すると、菅沼氏や伊藤氏は鶴ケ城まで攻めてくるようになりました。
永禄十一年、別所城主、伊藤源太郎貞次は、長篠城主、菅沼定景の援軍と共に、鶴ケ城に大挙攻め寄せてきました。味方は力尽き、全員で討ち死にすることになりましたが、城主の大磯之丞は何とかして城兵の命を助けてくれるよう敵陣に使者を送りました。交渉の結果、家老山田半之丞が人質となり、城主が切腹することになりました。この時、奥方も運命を共にしたと言われます。
|