お城 de ひとりごと (゜o゜)

お城,興味ない人でもじゃんじゃん遊んでってください(^o^)丿

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

大多喜城

大多喜城
(所在地) 千葉県夷隅郡大多喜町
(遺構)  土塁、空堀、井戸
(形状)  平山城


イメージ 1


2009・02・12

 
イメージ 2


大多喜水道  最後の藩主松平正質が明治2年に着手し翌年完成した。
イメージ 3


現地案内版より
イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6


松平(大河内)家家紋 「三つ扇」
イメージ 7


お城の下方にある大多喜高校にある「薬医門」
イメージ 8


これも大多喜高校にあります。この写真ではわかりませんが下の写真でわかるようにかなり大きいです。
イメージ 9

イメージ 10


駅近くに大手門みたいに作ってありました。
イメージ 11

イメージ 12


大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。

信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。

天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。

以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、大多喜藩の規模縮小に伴い、山頂の天守なども荒廃。天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに二層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられている。

          
                    Wikipediaより

開く トラックバック(1)

太田図書の墓

太田図書の墓


ちょっと寄り道しました(^o^)丿
イメージ 1


2009・02・11

太田図書助資忠<おおたずしょのすけすけただ>は、関東管領扇谷上杉氏の家臣太田道灌の甥です。 臼井城跡の傍にある石碑は、臼井城の合戦にて討死した太田図書の墓と伝えられています。
  文明11年(1479)、上杉方の太田資忠らの軍勢が、足利方の千葉孝胤<ちば・のりたね>らが籠もる臼井城を包囲し、周辺の敵対する諸城を攻略します。 しかし、臼井城の防備は堅固であり、落城する気配がありませんでした。 そのため、資忠らはいったん兵を引き上げようとしたところ、城内から兵が討って出てきました。 これに対して上杉方も反撃を加え、ついに臼井城を落城させました。 けれども、この戦いにおいて、資忠をはじめとする多くの上杉方の武将も戦死しました。
                    

                    佐倉市 教育委員会 文化課 文化財管理班HPより

 
イメージ 2













千葉城(亥鼻城)

千葉城(亥鼻城)
(所在地)千葉県千葉市中央区
(遺構) 土塁、堀切
(形状)  平山城
イメージ 1


2009・02・11

下の説明でもわかるように墨俣一夜城的な感じですね。
天守は小田原城に似ています。

中世館の復元が見たかったです(^。^)
でも、千葉でもここは中心部だからこういう感じかな?
歴史のあるお城ですから歴史の部分で楽しめるところだと思います。

 
イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12


現在、千葉氏が舘を築いていたと思われる場所には、千葉市立郷土博物館が建っている。この建物は近世風の模擬城郭となっている。しかし、高層の楼閣である天守閣が築かれるようになったのはより後の時代であって、千葉氏が亥鼻に築いた舘は中世風の館形式の城郭であると考えられ、現在の千葉市立郷土博物館が昔日の姿を反映していると考えることは誤りであると指摘されている。

千葉市の都市としての歴史は、千葉常胤の父千葉常重が亥鼻の要害に舘を築いたのが始まりである。常重が築いた舘の詳細な地は不明であるが、おおよそ現在の千葉市立郷土博物館が建っている場所と相違は無いと考えられている。城館の領域は恐らく現在の千葉大学亥鼻キャンパスの範囲にまで広がっており、ここには七天王塚と呼ばれる7つの塚が現存する。亥鼻の千葉氏城館の鬼門の方角に妙見信仰の信仰対象である北斗七星を祭ったものと考えられているが、地元では古くから平将門の7人の影武者の首塚との伝承が根強く、祟りがあるものとして恐れられてきた。

常重の時代までは千葉氏は周囲の土豪の圧迫により千葉郡周辺の本所を守ることに汲々としていたが、その後常胤の時代に源頼朝の呼応に従い、又上総氏等の周辺の土豪が消滅したことから、千葉氏は亥鼻を本拠に下総国、上総国の支配権を確立した。

その後、1455年に千葉氏が本拠地を本佐倉城周辺(酒々井町・佐倉市)に移すまで千葉氏の本拠地として亥鼻の舘が用いられた。

ちなみに戦国時代に千葉氏と争ってこの地域に進出した里見氏が本佐倉城の千葉氏に精神的圧迫をかけるために亥鼻の舘跡地に出城を築いたとも言われているが詳細は不明である。



                        Wikipediaより               


開く トラックバック(1)

全1ページ

[1]


.
かあみ
かあみ
女性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(8)
  • 中路正樹
  • まこぴ
  • 番頭
  • ひさにゃん
  • ひでさん
  • こっきぃ
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

標準グループ

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事