2008/12/20
現在は、正太寺というお寺になっています。かわいいお地蔵さまがたくさん迎えてくれます。
草がかなり生えていて、道がわかりにくかったです。浜名湖に囲まれているので、景観はとてもいいです。今川氏により大永年間に築城され、浜名湖水運を利用したお城だったことが伺えます。宇津山城北側に見る浜名湖 三の曲輪を取り囲む土塁 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
こんにちは、ゲストさん
[ リスト | 詳細 ]
2008/12/20
現在は、正太寺というお寺になっています。かわいいお地蔵さまがたくさん迎えてくれます。
草がかなり生えていて、道がわかりにくかったです。浜名湖に囲まれているので、景観はとてもいいです。今川氏により大永年間に築城され、浜名湖水運を利用したお城だったことが伺えます。宇津山城北側に見る浜名湖 三の曲輪を取り囲む土塁 |
(所在地)浜松市 北区引佐町井伊谷 (遺構)土塁、説明板
(形状)平山城
(市指定史跡)登城口
2008/12/20
引佐総合事務所の北側にありました。本曲輪に着くと、小さな松を植えている方がなにやらブツブツ言ってるので「どうしました?」って聞くと・・・よく晴れて、ダウン着てたら暑いくらいでした。 「せっかく松、植えてるのにみんな折って行っちゃうんだよ!!!」ってご立腹の様子(~o~) 「そうなんだ」とは言ったものの・・・ 心では「こんなとこに木植えたら見晴らし悪くなっちゃうよ〜〜〜(笑)どぉか植えないで〜〜〜!!!」 なんて叫びました。小心者だから口には出せないんだけど(@^^)/~~~ 帯曲輪 本曲輪 |
(所在地) 静岡県浜松市中区元城町 (築城主) 飯尾乗連(飯尾賢連?) (主な改修者) 松平家康 (遺構) 石垣、曲輪
2008/12/13 何度目の訪城かな?浜松城行ってきました。今回は細かく見て回りました。
軽い気持ちで出かけたので、少し寒かったです。午後3時頃到着 ゆっくり見て回ったのでだんだんと辺りが暗くなってきて、ほんとは家康像も収めたかったのですが、残った写真をみると掲載できませんでした(笑)ライトアップされたお城がとれたのはラッキーだったかな(^o^)丿 でもでも夜は少し怖かった・・・ ははは〜 デートコースみたいで暗くなってきたらカップルさんたちがあちこちで仲良くデートしてました。微笑ましい光景でした。 二の丸跡 この辺りが二の丸があったところだと思います。かなり変わってしまっているので、ちょっと地図を見ても分かりにくかったです。 天守曲輪跡 井戸 鎧掛松 浜松城南側入り口付近にあります。元亀元年(1572)家康は三方原合戦から城に帰り、大きな松の木陰で休んだそうです。その時、鎧を脱いでその松にかけたことから「鎧掛松」と呼ばれているそうです 浜松城公園内の紅葉です。天守の西側に日本庭園がかなりの広さで拝しています。この時期カメラ片手に大勢の方が撮影してました。とてもきれいで心和む感じでした。 作左曲輪 本多作左衛門(1529〜1596)が住んでいたところです。 夕暮れの浜松城 画像が悪くてすいません。 浜松城 徳川家康 三方ヶ原台地の東南端に築かれた平山城。 今川氏滅亡後、遠江を平定した徳川家康は、1570年(げんき1)本拠を三河から遠江に移し、引馬城入り新城の築城を開始する。この年家康は信長の対朝倉戦に従軍するなど多忙であったが、9月には普請も完了し、浜松城と名付け入城した。 1572年〈元亀3)武田信玄に三方ヶ原で大敗を喫した家康は、命からがら浜松城へ逃げ込んだ。 1586年(天正14年)家康が駿府に本拠を移転すると、家臣の菅沼定政が城を預かる。家康の関東移封後は、豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が入城したが、のちに出雲松江に移封となった。以後江戸時代は徳川譜代大名が交代で入城し、幕閣への登竜門「出世城」として意識された。 小学館 ビジュアル・ワイド 日本の城より
|
(築城主) 不明(松井氏か) (主な改修者) 大久保忠世 (遺構) 石垣、土塁、堀
当時は、現在の流路と異なり、東に二俣川、西に天竜川が合流する自然丘陵の先端に位置していた。 最も手薄な北側後方の尾根筋に二条の堀切を設け、防御をより強固にしていた。 天守台の残る本丸を中心曲輪とし、それを補完する南側蔵屋敷までが中枢部分であったと考えられる。 南側最前線には出丸が配されていた。 堀切は、4条確認でき、いずれも尾根筋を遮断する目的を持っている。 本丸は、天正18年以降の改修によるもので、この時天守台と東側石垣が築かれた。 北東側に位置する食い違い虎口は、前段階の土塁折をして築いた石垣の可能性が高く、 本来の大手は東側の石垣に挟まれた場所になる。 この石垣上に渡櫓門が存在していたと推定される。 天竜区魅力ある区づくり事業実行委員会 「北遠の城」より 堀切 大手門 階段の両側に野面積みの石垣が残る 二の丸曲輪 土塁 この部分が現在残っている土塁で一番高い土塁 天守台 途中階段がなくなっているのが、不思議?今は、木で階段をつくってある 堀切 北曲輪の南側の堀切跡 北曲輪 |
(所在地)浜松市 天竜区二俣町二俣
(遺構)曲輪、城門礎石、土塁、空堀、石塁、説明板 (形状)山城 現在は鳥羽山公園!!春は桜がとてもきれいで秋は紅葉が素晴らしい。 ピクニックに最適☆彡しかし、お城の遺構を見たい私にとっては、木がなければもう少し、当時を 感じることができるのにとちょっぴり残念(/_ ![]() 天正3年に徳川家康が武田方の二俣城を奪回するためにここを本陣とした。 その後、整備、拡張され、二俣城と別郭1城の城として機能し、二俣城と同時期に廃城となったと 考えられる。曲輪、虎口、枡形門、土塁、堀切など多くの遺構が残る。 特に枯山水の庭園遺構は、全国的にも珍しいものである。 見晴らし台 周りは木が生い茂っている。 昔は、木もなく眺望が素晴らしかっただろうと思われる(*^。^*) 堀切 現在は草や木などに埋まってあまり明確に確認できない。残念・・・ 本丸東虎口 上の橋は後から付けたもの。虎口の下には、門の礎石が見られる。 正面左手に見える山が和田ヶ島砦 右手に見える山が百々(どうどう)砦
鳥羽山城は、旧二俣川を挟んで、二俣城との南側に立地する。天竜川を眼下に見下ろし、遠く
浜松城までみることができる鳥羽山の山頂に造られている。 天正三年(1575)、徳川家康により二俣城と攻略のため陣城として、蜷原砦、和田ヶ島砦、 毘沙門堂砦と同時築城された。二俣城攻略後は改修され、二俣城との一部(一城別郭)として利用さ れた。 昭和二十六年(1961)頃から鳥羽山公園の管理人をしていた鈴木喜代次氏が20年以上にわた り、単独で発掘を行い土砂や落ち葉などに埋もれていた石垣列や門跡・井戸・排水施設を掘り起こし 幻の城郭が発見されたと脚光を浴びた。 昭和49・50年(1974・75)には本丸の発掘調査が行われ、建物跡・排水溝・庭園遺構 が発見され、瓦・陶磁器片(天目茶碗・すり鉢)・陶製硯・鉄滓が出土した。 庭園遺構は、露頭の岩を用いた枯山水の庭園で、大久保忠世か堀尾家が支配している時代(天正 3年〜慶長元年)に作庭されたものと考えられる。 城は、慶長5年(1600)の堀尾家の出雲国松江転封以降に廃城になったと考えられる。 発行元 天竜区魅力ある区づくり事業実行委員会 「北遠の城」より |
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | |||||
| 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
| 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
| 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
| 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
[PR]お得情報