(築城主) 西郷稠頼・頼嗣(三河国守護仁木氏の守護代) (遺構) 石垣、堀 (指定文化財) 史跡 2008/12/24
今回、3回目の訪城でした。1回目訪城したにも関わらず、そんなことすっかり忘れて2回目も普通にいってしまいました。そのくらいうっかりしているというか・・・なんというか(~o~)
今回は、画像が撮りたくてあえて出かけてみました。学生さんたちのランニングコースになってるらしく、みんなめちゃくちゃ猛スピードで走ってました。 若いって素晴らしい。なんて思いながら廻りました。 堀の広さと深さがかなりあって驚き!でした。 二の丸 能楽堂 家康公はこよなく能を愛好したといわれています。 産湯の井戸 天文11年12月26日(1542)家康公が岡崎城で誕生した。この井戸の水を汲み産湯に使用した。 えな塚 徳川家康公のえな(胞衣)を埋めた塚で、もと本丸南にあったもの。 龍城神社 岡崎城 天守閣 徳川家康公 銅像 1452年(享徳元年)または1455年(康正元年) 龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。 1531年(享禄4年) 松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす。(守山崩れ) 1542年(天文11年) 城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。 跡を継いだ松平広忠は、三河と松平一族を統御できず、東の今川、西の織田に挟まれて苦しみ、今川家に臣従し、子の竹千代を人質として差し出した。 1549年(天文18年) 松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は今川家の支城として城代が置かれた。 1560年(永禄3年) 桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると松平元康(後に家康、徳川へ改姓)は岡崎城を取り戻し今川家から独立する。その後、織田信長と同盟を結び三河を平定する。 1570年(元亀元年) 徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入った。しかし、信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。 1590年(天正18年) 家康が関東に移封となると、豊臣家臣・田中吉政が入る。吉政は城を拡張し、石垣や城壁などを用いた近世城郭に整備した。また、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し、「岡崎の二十七曲がり」といわれるクランク状の道に整備され現在の岡崎城の原型を造った。 1602年(慶長7年) 徳川氏譜代の重臣である本多康重が上野国白井より5万石で入城。以降、徳川政権下では家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めている。 1617年(元和3年) 3重の天守が完成する。 (江戸時代の岡崎の政治と歴代藩主に関しては岡崎藩を参照のこと。) ウィキペディアより
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