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近江国の城

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観音寺城

観音寺城
(所在地)安土町 石寺
(遺構)曲輪、石垣、土塁、井戸、碑、説明板
(形状)山城
(築城主) 六角氏頼
 指定文化財 国指定史跡

 今回、雪で道が悪くそれでも途中までは行ってみましたが、断念しました。遠景のみの画像になってしまいました。
春ころまたいってみよう(^o^)丿


2008/12/28

 

観音寺城は標高433mの繖(きぬがさ)山かんのんじに築かれ、山全体を城郭とした
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近江源氏の佐々木氏、後に近江国守護六角氏の居城で、小脇館、金剛寺城を経て六角氏の本拠となる。

標高432.9メートル、南北に伸びる繖(きぬがさ)山の山上に築かれる。南腹の斜面に曲輪を展開、家臣や国人領主の屋敷を配した。総石垣で、安土城以前の中世城郭においては特異な点とされる。天文年間には城下町・石寺も置かれ、楽市が行われていた。周辺は琵琶湖や大中の湖、美濃から京都へ至る東山道、長光寺集落から伊勢へ抜ける八風街道があり、それらを管制できる要衝に位置する。


歴史・沿革
正確な築城年代は定かではないが、古典『太平記』には、南北朝時代の1335年(建武2年)に、南朝(吉野朝廷)側の北畠顕家軍に備えて六角氏頼が篭もったという記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。ただ、この時はまだ観音正寺を臨戦用の砦として活用していたのではないかと考えられている

応仁の乱
室町時代の応仁の乱では、六角氏が西軍に属したため同族の京極持清に攻められている。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたのである。応仁の乱では3度、観音寺城の攻城戦が展開される。

東軍細川家に属していた京極持清の子、京極勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主六角高頼、陣代山内政綱らは京におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、1468年(応仁2年)4月1日城を明け渡した。

1468年(応仁2年)11月初め、陣代山内政綱がようやく京より帰国し観音寺城の防備を固めた。

弓削の戦いで六角高頼に敗れた、六角政暁と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、第一次観音寺城の戦いに続き戦闘準備を整えた。

同年11月8日、六角・京極連合軍は観音寺城を攻め落とすべく攻撃を開始。

山内政綱は防戦したが、守り切ることができず、火を放ち敗走し、六角高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている

東軍の細川勝元は将軍を擁して官軍となった。この権威を利用して1469年(文明元年)5月近江国の守護六角高頼を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。守護に任命しただけではなく、京極持清に従わない者は知行地を没収する特権も持った。

これに激怒した六角高頼とその被官は、焼失した観音寺城を修築、3度立てこもることになる。これに対して、京極持清軍は多賀高忠や六角政暁を派兵、鎮圧に向かわせた。六角高頼軍は、山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城、周辺の砦に配置し、交戦状態になった。攻囲軍は猛攻であったが、六角高頼軍も防備し、三度目の正直、ついに京極持清軍を撃退することに成功する。

その後、六角高頼が幕府御料地を侵略した際には1489年(延徳元年)9月と1491年(延徳3年)8月の2回、第9代将軍足利義尚の親征を受けが、その2度とも観音寺城を放棄し甲賀の山中でゲリラ戦を展開、一時的に城を明け渡すが共に奪回している(長享・延徳の乱)

廃城
戦国時代には大幅な城の改築が行われるが、六角義賢(承禎)・義治の頃には浅井氏に敗れる(野良田の戦い)などで衰退することになる。

1568年(永禄11年)、尾張の織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、9月13日に信長に支城の箕作城を落とされると、六角義賢・六角義治は観音寺城から逃げ無血開城した。

この時の詳しい戦いの状況は観音寺城の戦いを参照。

その後、六角義賢・六角義治は観音寺城に戻ることが出来ずそのまま廃城になったと思われている。

                    Wikipediaより

安土城

安土城
(所在地)安土町 下豊浦
(遺構)曲輪、空堀、竪堀、堀切、土塁、石垣、屋敷跡、碑
(形状)山城


2008/12/28

雪の安土城で階段も雪でほぼ覆われてました。
雪が解けてる部分は足元が悪く、雪の中をザクザク歩いて童心にかえって楽しくまわれました。雪でいっぱいなのに、まわっている方の顔がなんでかみんな微笑んでるので「こんにちは〜!どぉも〜(^o^)丿」ってみんなに言いながら歩きました。
皆さんもなぜか元気よく「こんにちは〜!!!」なんて返してくれて同じ雪を楽しんでるようで違う意味でテンション高く訪城しました。


大手道 
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階段の途中にある石仏
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織田信長公本廟
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天主閣跡 雪のために礎石がところどころしか見えなかったです
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天主閣石垣上から見る町並みとその向こうにかすかに見える琵琶湖
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三重塔 
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仁王門(楼門)
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織田信雄4代供養塔
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時は戦国、天正4年(1576)、着々と天下統一を進めていた織田信長は、安土に居城を作ることを命じた。
 3年後に完成したのは五層七重の天主閣をいだくまばゆいばかりの城郭だった。
 安土城を見たイエズス会の宣教師は故郷への手紙にこう書き送った。
 「ヨーロッパにもこれほどの城は存在しない」と。
 それから3年後、安土城が本能寺の変に滅んだ信長と命運をともにしようとは誰も予想できなかった…。


 尾張出身の織田信長が、安土の地を天下統一の拠点に選んだのにはいくつか理由がありました。第一に東西に陸路が通り、瀬戸内や大阪からの水路の便がいいなど交通の要衝だったこと。生れ故郷の尾張からも、当時の都の京都からも近いこと。信長は旧勢力とは一線を画しながら、人が集まってくる新しい都を自分の手で作り出そうとしたのです。
 
 信長が新しい都の象徴として琵琶湖をのぞむ安土山上に建設を命じたのが、後に近代城郭のお手本となる安土城でした。天正4年(1576)、信長に普請を命じられた丹羽長秀は東海・北陸・近畿にいる配下の武将を総動員し、さらに京都・奈良・堺の名工たちを集めて城造りにあたらせました。これがいわゆる「天下普請」の第一号です。築城の様子は『連日呼声山谷に震動し、雷鳴の轟くが如し』と伝えられるように、1日も休む事なく大がかりな工事に明け暮れた3年間だったようです。
 
 天下の名城を設計したのは室町幕府の御大工を勤めた尾張熱田社出身の岡部又右衛門父子でした。また、安土城建築の大きな特色となっている石垣積みのプロ集団、近江穴太の戸波一門、襖絵などを描いた安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳父子、きらびやかさを演出した金工・後藤、鉢阿弥一門など、当時の一級の職工や芸術家たちが信長一世一代の城造りに腕をふるいました。天正7年(1579)、3年の歳月をかけて完成した安土城は五層七重の天主閣をもつ大城郭でした。なにしろ24mの石垣の上に優に30mの高さの天主がそびえたっているのですから、当時の人々にとっては天をつくように見えたに違いありません。また、安土山の谷筋には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)や徳川家康などの家臣の屋敷が連なっていたといいます。
 
 壮麗な安土城の中でも、一番豪華絢爛をきわめたのが天主閣の最上階にあたる5・6階部分でした。5階は法隆寺の夢殿のように正八角形で室内の柱や天井はすべて朱色に塗られ、壁や天井には昇り龍や降り龍などの極彩色の絵が描かれ、6階は3間四方がすべて金色に彩られ、まばゆい室内に治国平天下の思想を表した狩野永徳の筆による障壁画が描かれていたと伝えられています。信長は日本の宗教と思想を統一した「天道思想」をこの天主に投影したといわれています。つまり、信長にとって壮麗な天主は天下統一のシンボルだったのです。
 
 安土城は天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長が討たれたあと、焼失してしまいます。工事着工から7年、完成からわずか3年後のことでした。けたはずれの規模とはあまりにも対照的な最期でした。現在、往時をしのばせるのは城跡に残る穴太積の石垣と天主閣跡だけですが、それだけでも安土城の偉容が十分伝わってきます。

                      安土町ホームページより

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佐和山城

佐和山城
(所在地)彦根市 鳥居本町
(遺構)曲輪、土塁、空堀、石垣、井戸、堀切、竪堀、碑、説明板
(形状)山城


2008/12/28

 龍潭寺裏の登城口からあがりました。結構急峻で、雨と紅葉後の落ち葉で足場が悪く寒い中汗だくになりながら登りました。軽い山登りだなぁ〜っ感じかな?
道も狭くて足元も悪いので、トレッキングシューズ必須です。
やっと頂上(^^)
「ついたぁ〜!!!頂上(^O^)/」ってとりあえず叫んどきました(笑)
晴れてれば、きっとめちゃくちゃ眺めがよいのだと思います。
達成感と充実感ありまくりです。ここはおすすめです。行ってみてください(^◇^)
 
龍潭寺 
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石田光成公像
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登り道 上から撮影 こんな感じの道をあがっていきます。
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堀切
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本丸跡
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佐和山城から見る彦根城
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千貫井戸 石田時代貴重な飲料水で、千貫にもあたる価値があることからこの名がついた
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太鼓丸跡
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佐和山城(さわやまじょう)は滋賀県彦根市(近江国犬上郡)にある山城跡。犬上郡のみならず近江支配の重要拠点であり、16世紀の末には石田三成が居城としたことでも知られる。


歴史
佐和山城を築城したのは鎌倉時代の豪族・佐保氏とされる。戦国時代には浅井氏の支城となり、元亀年間には浅井氏の家来である城主磯野員昌が織田信長らと激戦を繰り広げた。しかし1571年(元亀2年)2月に磯野は降伏し、代わって織田氏配下の丹羽長秀が入城し、犬上郡支配の拠点とした。

1582年(天正10年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智討伐に功があった堀秀政に与えられ、その後、堀家の転封にともない堀尾吉晴が入城した。さらに、1590年(天正18年、ただし入府時期には異説あり)には五奉行の一人である石田三成が入城した。三成は大規模な改修工事を行い、山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの城を築き、「三成に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」と言わしめた。但し、三成は奉行の任を全うするために伏見に滞在することが多く、実際に城を任されていたのは父の正継であった。

1600年(慶長5年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、佐和山城攻めを願い出た小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城主不在にもかかわらず城兵は必死の抵抗をみせたが兵力の劣勢は覆せず2日後には落城。三成の父・正継や妻など大半の者は討ち死にした。

徳川方の兵士は「栄華を極めた三成はさぞ華美を尽くしたのだろう」と思い、我先にと城内に乱入したが、城の壁は粗壁であり、また何の装飾もない質素な作りとなっていたという。しかも、三成邸にあったものは豊臣秀吉から送られた感謝状のみであったと伝わっている(『甲子夜話』)。

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ入城した。三成は領地で善政を敷いており、領民からも大変慕われていたので、直政はその威光を払拭するため新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま1602年(慶長7年)に死去したため、嫡子の直継がその計画を継ぎ、佐和山城などの築材を利用して建造した彦根城が完成した。1606年(慶長11年)に直継が彦根城に移ったため、佐和山城は廃城となった。

ほとんどの建造物は彦根城に移築したり破却されたため城跡には残っていないが、石垣と土塁の一部などが現在も残っている。

                    Wikipediaより

彦根城

彦根城
(所在地)彦根市 金亀町
(遺構)現存天守、櫓、曲輪、石垣、濠、土塁
(形状)平山城


2008/12/28

 雨の彦根城でした。今回2回目の訪城で、到着してあまりの人だかりに驚き!!!
なにかなぁ?と思ったら突然ひこにゃん登場(*^_^*)ポーズを決めて可愛かったです。
日記に画像貼っときます。見てみてください。
博物館は、閉館してました。佐和口多門櫓が現在公開中で、2010年3月まで公開するそうです。
見学していたら、熱くガイドしてくれて、井伊家の話から歴史の話まで幅広くお話ししてくれました。

 
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二の丸佐和口多門櫓
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馬屋
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天守からの眺め
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二つのやぐらを持つ天秤櫓
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本丸入り口を固める太鼓櫓
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佐和口多門櫓側の外堀 石垣
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堀切にかかる廊下橋
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入場口手前向かって左側に見る堀切
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鐘の丸
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天守閣内の鉄砲挟間
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 彦根城は彦根山(金亀山)を利用して築かれた平山城〔ひらやまじろ〕です。現在も、山頂には国宝の天守があり、その周囲を巡るように重要文化財の各櫓〔やぐら〕が残っており、麓には下屋敷をはじめ内堀や中堀などが当初の姿を留めています。この彦根城跡は、全国的に見ても保存状態の良好な城跡で、昭和31年7月19日、国の特別史跡に指定されました。なお、下屋敷は昭和26年6月9日に「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。

 
彦根城の築城

■井伊直政 佐和山城に入る
 関ヶ原合戦後の論功行賞〔ろんこうこうしょう〕により、石田三成〔いしだみつなり〕の居城であった佐和山城を与えられたのは、のちに徳川四天王の一人に称〔たた〕えられる井伊直政〔いいなおまさ〕でした。慶長6年(1601)正月、直政は上野国〔こうずけのくに〕高崎城(群馬県高崎市)より佐和山に入ります。ところが直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年亡くなってしまいます。この時、嫡子〔ちゃくし〕直継〔なおつぐ〕はいまだ若年でした。直政より後事を託された家老木俣守勝〔きまたもりかつ〕は、城の移築計画を徳川家康にはかり、慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2kmの彦根山において、新たな築城工事が始まりました。

■天下普請の前期工事
 築城には、およそ20年を要しました。前期工事は、本丸や鐘の丸などの城郭主要部が築かれました。幕府から6人の奉行〔ぶぎょう〕が派遣され、近隣諸国の大名に助役〔すけやく〕が命ぜられるなど、天下普請の様相を呈していました。豊臣恩顧〔おんこ〕の大名が多い西国への押えの拠点と意識され、完成が急がれたのです。そのため、普請に必要な材木や石材を周辺の古城や廃寺から集めました。天守そのものが大津城天守を移築したものと伝えています。
 こうして彦根城の築城が急ピッチで進む中、慶長9年7月には、徳川秀忠〔とくがわひでただ〕が築城見舞いの使者を派遣しています。また、翌年9月には家康が築城の様子を見分〔けんぶん〕しています。重要な事業をまかされた、いまだ若い直継への配慮でしょうか。こうした家康・秀忠親子の支援もあって、築城は順調に進み、数年ののち城郭の主要部はほぼ完成しました。

■大坂の陣後の後期工事
 慶長19年(1614)、豊臣勢力の一掃を策した大坂冬の陣が、また翌年には夏の陣が勃発します。彦根城の築城工事は一時的な中断をよぎなくされました。大坂の陣に出陣し活躍するのは、病弱の直継に代わった弟の直孝〔なおたか〕でした。
 大坂の陣後は、この直孝によって後期工事が再開されました。後期工事は彦根藩単独で実施され、城下町にいたる城郭の全容がほぼ完成しました。

 
彦根城の縄張り

 彦根城は南北に長い尾根を整地して、丸を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城です。南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なっています。彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。


                 彦根市教育委員会ホームページより

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