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美濃国の城

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大垣城

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大垣城
(所在地)岐阜県大垣市郭町
(遺構)復興天守、門、石垣、碑、説明板
(形状)平城

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2009/01/03

 2回目の訪城になります。前回は中の博物館に入りましたが、今回閉館してました。
博物館は、なかなかおもしろかったですよ。
ちょうどマラソン大会が開催されていたらしくすごい人出でした。
市民マラソンなのかな?年配のかたから小さなお子さんまでみんなゼッケンつけてました。終わってから公園で無邪気に遊んでる姿がかわいらしかったです(^。^)


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大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった平城。麇城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)のとも呼ばれる。

概要
宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し本丸と二ノ丸のみのであったという。氏家氏、伊藤氏によって改築が加えられたとされ、1613年(慶長18年)には石川忠親によって総堀が加えられ、松平忠良が天守を改修した。その後1649年(慶安2年)に 戸田氏鉄によって明治に至る姿とされた。

戸田氏改修後は並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。


歴史

1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる[1]。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされている[2]。1560年(永禄3年) に氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。


 近世
織田氏、斎藤氏と支配権が移った後、1583年(天正11年)に豊臣秀吉の家臣、池田恒興が城主となり、1588年(天正16年)に一柳直末によって[2]若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時に改築が行われ、天守が築かれたとされる[3]。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には石田三成が入城し、合戦に備えた。その後東軍により落城。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。

江戸時代に入り、1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田氏の居城となった。


近現代

1873年(明治6年)に発布された 廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定されたが、1945年(昭和20年)7月29日の空襲により天守や艮櫓などが焼失した。現在の天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年) に鉄筋コンクリート構造によって外観復元されたものである。


遺構

開発により多くの遺構は失われたが、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残る。

移築建造物としては、市内の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が残る。また、大野町西片の民家に、どこの門かは定かではないが城門が移築され現存する。


大垣公園

本丸、二ノ丸址は大垣公園として整備されている。1880年(明治13年) に旧本丸敷地に中学校が設置される計画があったが中止された後に公園として整備された。

復興天守には関ヶ原の合戦を石田三成・徳川家康両者のモノローグでリアルタイムに追ったムービー(各約30分)など様々な動画コンテンツを閲覧できる。火縄銃や槍、弓を実際に触ることができる展示コーナーもある。2000年(平成12年)に開催された、決戦関ヶ原大垣博では、テーマ館の一つとして使用された。入場料は100円である。

                  Wikipediaより

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加納城

加納城
(所在地)岐阜市 加納町
(遺構) 石垣、堀、曲輪、土塁、説明板
(形状) 平城
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2009/01/03

 現在、公園となっています。石垣が見ごたえあります。
あと土塁も迫力ありますよ。のんびりした雰囲気で犬のお散歩しているかたがいっぱいいらっしゃいました。あと子供たちが野球したりしてました。

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加納城(かのうじょう)は、岐阜県岐阜市加納丸の内にあった平城。国指定史跡。

概要
加納城は2重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約600m、東西約300m)であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていた。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、外堀は、荒田川(東側)、清水川(北側)、長刀堀(西側:現在の加納長刀堀町)、加納中学校付近に南の外堀があった。天守台はあったが天守は建てられず、代わりに御三階櫓が建てられていた。当初は予定されていたが、時代の流れが名古屋城に移り必要がなくなったため造られなかったという。城下町は中山道53番目の宿場である加納宿。


御三階櫓
御三階櫓は、享保13年に書かれた絵図[1]によれば独立式層塔型3重4階である。二の丸の東北隅に建てられ、現存当時は「お三階」と呼ばれていた。 慶長6年(1601年)廃城となった岐阜城山頂にあった天守を移築したものと伝えられ、絵図面からは、東西面と南北面とで柱間寸法に違いがあるなど改変の跡と見られる構造が覗える。[2]

1728年(享保13年)に落雷による大火で焼失し、現在は岐阜地方気象台がある。


歴史

前期加納城
文安2年(1445年)に土岐氏の家宰の斉藤利永によって沓井城として築城された。しかし、天文7年(1538年)には既に廃城となっている。


後期加納城
慶長6年(1601年)に岐阜城が破却され、その代わりとして築城された。建材は主に岐阜城のものが用いられ、岐阜城天守を二の丸御三階櫓として利用したと伝えられる。加納城は加納藩の藩主の居城となり、慶長8年(1603年)に奥平信昌が入った後、奥平氏の居城となった。 寛永9年(1632年)に奥平氏が嫡子がいない為に改易されると大久保忠興が入城、一時的に城主となる。その後の寛永16年(1639年)に戸田光重が入城、3代に亘り城主を務めるが、移封され、宝永8年(1711年)に安藤信友の居城となった。さらに時代が下って宝暦5年(1755年)に永井信陳が加納藩主となり、明治に至るまで永井氏の居城となった。


近代
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり破却。城門などは売却された。昭和14年(1939年)、本丸跡が陸軍第51航空師団司令部となり、戦後は昭和29年(1954年)から昭和50年(1975年)まで自衛隊の駐屯地が置かれるなどした後、昭和58年(1983年)10月28日に国の史跡に指定された。

近年の発掘調査で枡形や前期加納城の土塁・礎石の跡、埋没した石垣や井戸跡、多くの土器などが出土した。遺構は調査後に埋め戻され、現在では加納公園(本丸跡)と周辺に石垣、堀跡などがわずかに見られるのみである

                    Wikipediaより

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墨俣城

墨俣城
(所在地) 大垣市墨俣町墨俣
(遺構) 模擬天守
(形状) 平城
 指定文化財 史跡
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2009/01/03


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墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城である。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜で築城したという逸話がある。

概要
長良川西岸の墨俣の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。

墨俣築城に関して、司馬遼太郎は著書『新史 太閤記』(新潮文庫 1968年)で、美濃攻めにおいて織田信長の軍にとっては戦場が遠いことから前線基地として墨俣に築城する必要があるとの当時の木下藤吉郎の進言で信長は築城を任せ、3日でほぼ完成させたと表現している[1]。しかし、ここに墨俣城が創建された年代や位置については、明らかではない。墨俣の周辺は木曽三川の洪水によって頻繁に川の流路が変わったり、沿岸の土地が流れに浸食されたことで戦国時代当時とは地形が変わってはいるが、墨俣を描いた古地図には、墨俣の町の北辺に当時の城跡らしい三方を川に囲まれた台地があり、「城あと」の地名が記されているので、これが墨俣城跡であると推定されている。

現在、墨俣城跡は、一夜城跡として公園に整備されており、史実とは全く異なるが大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられている。また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。


歴史
織田信長の家臣太田牛一の記した『信長公記』には1561年に信長が美濃の戦国大名斎藤氏の「洲俣(すのまた)」にある拠点と交戦したこと、「洲俣要害」を修築して信長自身が在陣したことが記されており、この頃墨俣に要害(城)らしいものがあったことはほぼ確実である。

その後、1566年に木下秀吉(豊臣秀吉)が墨俣に一夜城を築いて在城したとされるが、これについては後述する。『武功夜話』によれば、織田信長の稲葉山城攻略の際、秀吉はこの城から出撃して大功を立てたという。

墨俣城が最後に歴史に現われるのは1584年4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修した。その2年後の1586年6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることはなかった。

                Wikipediaより

岐阜城

岐阜城
(所在地)岐阜県岐阜市
(遺構) 模擬天守、石塁、天守台、櫓跡
(形状) 山城
 築城主 二階堂行政
 築城年 1201年(建仁元年)
 主な改修者 織田信長
 主な城主 斎藤氏、織田氏
 廃城年 1600年(慶長5年)
 指定文化財 史跡

 
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2008/01/03

 2回目の訪城となります。標高329mの金華山からの眺望は素晴らしいです。
期間限定で夜景も見られるようで、夜景綺麗だろうなぁ?とか思いました。
途中ロープウェイを使わず歩いて登ってくるおじいちゃんとお話しました。
 「結構大変だけど、時間かけて登れば大丈夫(^^)」なんていいながらとてもいい顔してました。
帰りも、そのおじいちゃんは歩いて下って行きました。感服いたしました(^O^)/

三重塔
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天下第一の門
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上格子門跡
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金銘水 岐阜城井戸
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二の丸門跡
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岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にある山城跡。織田信長が、斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。信長公記に、稲葉山、井口山、井口と記載されている。尾張国小真木山から、濃州稲葉山へお越し、井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けたという。井口山からのつづきが、瑞龍寺山という。

信長以前の斎藤氏が居城としていた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する。


歴史・沿革

鎌倉・室町時代
1201年(建仁元年) 二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが始まり。続いて二階堂行政の女婿の佐藤朝光、その子伊賀光宗、その弟の稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、廃城となる。
15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永がこの城を修復して、居城とする。

戦国時代
1525年(大永5年) 斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
1533年(天文2年) 長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。
1539年(天文8年) 守護代になっていた道三が、金華山山頂に城作りを始める。
1554年(天文23年) 道三は城を嫡子斉藤義龍に譲る。
1564年(永禄7年) 斎藤氏の家臣であった、竹中半兵衛重治と安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斎藤龍興らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。
1567年(永禄10年) かねてから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。斉藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。しかし信長は守りを重視した山城には住まず、金華山の麓に御殿を作り、そこを住居とした。御殿へと通じる道の両側に当時は石を積んだ塀がめぐらされて、その先の上段の「千畳敷」と呼ばれるところに信長の御殿があった。当時としては珍しく、南蛮様式を取り入れた四層の華麗なものであった[1]。
1582年(天正10年) 織田信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、降伏。
1583年(天正11年) 羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。
1583年(天正11年)から1591年(天正19年)の間、羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城となる。
1600年(慶長5年) 秀吉によって13万石の城主に封ぜられていた城主織田秀信(幼名・三法師)は、石田三成の挙兵に呼応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。
1601年(慶長6年) 徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城山頂にあった天守、櫓などは加納城に移されたという。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだともいわれている。

               Wikipediaより

竹中氏陣屋

竹中氏陣屋
(所在地)垂井町 岩手
(遺構)櫓門、石垣、堀、土塁、碑、説明板
(形状)平城
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2008/01/03

 小学校や幼稚園に隣接して櫓門があります。あたりは、民家でちょっと不思議な感じがしたけど、普通の暮らしの中にこういうものが残ってるってすごいことだと思いました。
自分の住んでいる地域にもこういった感じのものがありますが、昔から見ているものなのできっと違和感ないんですね。
もっと、地元にも興味もって歩いてみたいと思いました。


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竹中氏陣屋(たけなかしじんや)は、岐阜県不破郡垂井町(美濃国不破郡岩手)にあった陣屋である。別名、岩手城、竹中陣屋、岩手陣屋。

羽柴秀吉(豊臣秀吉)の軍師(参謀)であった竹中重治(竹中半兵衛)の子である竹中重門が築いた陣屋であるが、敷地を囲む水堀があり陣屋というより小型の城に近い。

元々、竹中氏の居城は菩提山城であったが、山城で不便なことから、麓に陣屋を築いたという。


概要
1588年(天正16年)、竹中重門が菩提山城の山麓に陣屋を築く。尚、築いた時期は、文禄から慶長年間の頃の説もある。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにて、竹中重門は当初西軍につき、犬山城城主石川貞清に協力。稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らと犬山城に籠城する。しかし、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わり、黒田長政軍として参戦する。関ヶ原の戦いは竹中氏の領土も戦場となったことなどから、徳川家康より1千石の米を下賜され、また、領土(不破郡岩手 6,000石)を安堵される。

竹中氏は旗本交代寄合として、1868年(明治元年)まで存続する。

現在その跡地は岩手小学校と民有地となっているが、白壁の櫓門、水堀の一部分、石垣の一部分が残っている。また入り口付近に竹中重治の像が建てられている。

                 Wikipediaより

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