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(佐久市猿久保の国道141号、運転台から冬の浅間山)
広島の中学生の自殺は大きな反響となっていますが、どんなにそれで社会が反応しようとも亡くなった生徒は帰ってこない、取り返しのできない事態であることを思うといたたまれません。遅ればせながら各紙が扱っていますが、どれも的を得た指摘ではあります。
何といっても情報の扱いについての杜撰さが上げられているのは当然でしょう。特に人違いということを見過ごして記録に残したという過誤は許せません。パソコンが都合の良い機器として取り入れられてのちょっとしたミスが大きな犠牲を生んでいます。生徒の顔を見るより、パソコンのキーと向かい合うことに汲々としている現場人には教育という分野で必須な余裕を奪われてしまっているのでしょう。個人情報の扱い方については社会問題となっている中での出来事です。学校という閉じられた社会では世間の動きも通じないとしたら、教育界の閉鎖性にメスを入れるべきです。
非行歴を3年時から1年時まで拡大して確認しようとした点についても、この進学の押し詰まった時期になぜというのが率直な疑問です。非行というものを教育という現場でどう扱っていくかという根本が問われて然るべきでしょう。
「資料の修正や閲覧の仕方は、各教員の裁量に任されていた。非行行為の記録という重要な個人情報の取り扱いについての検証が求められる。」「進路の選択に重要な影響を与える変更をなぜ入試直前に強行したのか。解明が必要だ」(毎日新聞)
非行の扱いについても取り上げています。非行があれば入試で推薦しないという基準を設けていることへの疑問です。過ちがあればいくら頑張ってももとに戻せないというのでは、指導とは言えません。自分の担当生徒に過ちがあれば、何としてもその更生のために尽力しようとするのが教育者魂というものであるはずです。目の前に生徒を見る現場人の独特な感覚が、人を活かし、また自分をも高めるという教育思想が従来からあったはずなのにと思えずにはいられません。
「罰則を定め生徒指導することもルールの大切さを学ぶ効果はあるだろう。だが、罰則を一律に当てはめるだけでは、問題の基本的な解決にはならない。学校教育で大切なのは、先生が生徒と一対一の人間関係を築くことだ。そのためには子どもを個人として尊重することが欠かせない。」(朝日新聞)
中学頃の生徒からすれば、先生とはとてつもなく対抗できる存在ではありません。先生に言われることは、発する先生以上に生徒には響くものです。だからこそまた教育者の使命感も燃え立つものなのでしょう。しかし一方では、先生の一言で生徒の行動を決めきってしまうこともあるのです。教師の指導で子どもが死に追いやられることを「指導死」と言うそうですが、それほどに大きな力があることを教育に関わる人たちは自覚しなければなりません。
「子どもが教師に反論できないこと、教師の何気ない言葉に深く傷つく場合があること、子どもは苦しんでいることを親に知られたくないと思っていることー。子どもに接したことがある人ならだれでも知っている。まして教師は子どもに関する専門職のはずだ。自殺をなぜ防げなかったのか、学校と教師は厳しく省みてもらいたい。」(信濃毎日新聞)
今度のことで学校が公にした報告書では、今後へ向けてのところに、生徒に生命の大切さについて教育することが大切だと言っているとのこと。大変な違和感を感じます。まるで自殺した生徒に責任があるというような表現です。自己責任論がこんなところまで蝕んでいることは驚きです。そして、こんな事態になっても、学校当局は反省の根本に立ち至らないことに憤怒と絶望を感じてしまいます。
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