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歴史学を専攻している孫が、夏休みのレポートに関連して、旧約聖書のダニエル書の記事に興味をもって訪ねて来て、種々話をしている中で、枚方の現代史に触れました。街の歴史にも是非関心を持ってもらいたいと日頃考えていたので、いい機会だと思ったのです。明治以来、枚方には軍需工場があって多数の朝鮮人労働者が働いていたことは当時の新聞記事などでわかっていますが、そういう事実は子どもたちに伝えられていないのです。この地に古くから住んでいたわたしの伯母の親族たちが、夏の夜に見た不思議な火の玉の話も、或いは当時の朝鮮人の人たちに関わりのあったことかもしれないと話したのです。そうしたら、一緒に来ていた娘が、「私も不思議な火を見たよ。」と語り出したのです。その話を聞いて、さまざまな思い出がよみがえり、今のうちに書いておこうと思ったのです。
わたしが枚方に住むようになったのは、母の姉に当たる伯母が、枚方に嫁いでいて、借家を持っていたので、そこに結婚以来住まわせてもらうことになったのがきっかけです。今では、枚方の官庁街に隣接していますが、私が住むようになった1930年代には、周囲な田圃ばかりでした。母が娘時代のことでした。叔母の家に集まった兄弟や甥、姪たち四、五人が二階で涼みながら田圃の向うの天野川の堤防を見て話をしていたところ、突然、堤防の上に火の玉が次々と浮かび上がって下流の方に移動して、またすっと消えていったというのです。伯母からも、他の一緒に居た親族からも間違いない事実だったと聞かされました。後年、町の歴史を調べるうちに、上に書いたような、市民から忘れられた朝鮮人労働者が多数おられた事実を知って、その職場が天野川を隔ててすぐ東側の丘陵地帯にあったことから、夜の堤防に浮かんだ火の玉は、昼間は過酷な労働を強いられた朝鮮人の人たちが、夜、ひそかに河原に出て、仲間の弔いか何かの集まりを持ったのではないかとふと連想したのです。
娘の話は、概略以下のようなことでした。枚方の伯母が亡くなった翌日の夜、当時80代を過ぎて私のところに同居していた母と私の娘が、何気なく誰もいないはずの伯母の家の方を見ていたところ、家の中にほのかな明かりがともっているのに気付いて、空き巣でも入って居てはいけないと思い、管理していた近所に住む伯母の親族に連絡して、調べてもらったが、何もなかったというのです。娘にとっては忘れられない経験だったに違いありません。伯母の一家は、小学校の校長をしていた主人と、一人息子の三人家族でした。私の従兄弟に当たるその息子は、名前も『一 一(かづいち)』と名付けられ大事に、大事に育てられたのです。その期待に応えて、当時の第三高等学校から京都大学の電気工学科に進み、卒業後は、通産省の研究所勤務となって、将来を嘱望されていたのです。ところが、大戦末期になって、動員され、一兵士として南方に派遣されて帰らぬ人となったのです。伯母夫婦の悲しみと苦しみがどれほど深いものであったかは、到底計り知ることはできません。戦争と軍人が憎いと、その苦しみを私も聞かされました。この話で、改めて伯母夫婦の悲しみと苦しみの深さを思いました。そうした苦しみは日本国中、いや世界中に燃え続けているに違いありません。
その伯母は、わたしの母が、戦争から生還した兄が、精神を病んで戦後の混乱の中で、ありとあらゆる治療の末に、最後の手段として、脳にメスを入れる手術を受けさせることを決断した時、母を心配して付き添いに来て下さったのです。手術の夜、伯母は病室の窓の外を見ていて、「火の玉がすう―と闇に消えて行くのを見て、背筋の寒い思いがした。」と後で語っていました。兄の受けた手術は、絡んだ迷走神経を切り離して正常にするのだと、母から聞かされていましたが、実際は前頭葉の一部を切り取られていたのです。母もそれを知らなかったと思います。わたしが兄の受けた手術の実態を知ったのは、それから半世紀がたって、母の死後、兄が髄膜腫を病み、整形外科医で手術を受ける際に外科医があらかじめ撮ったレントゲン写真を見て、「この人は脳の一部がえぐり取られている」と驚いてわたしに教えてくれたのです。手術後、兄は今までと全く違う無気力な人格になって、89歳で亡くなるまで半世紀以上の生涯を耐え忍びました。兄の苦しみがどれほどのものであったかを思うにつけ、伯母の話も単なる妄想と聞き捨てにならないものがあると、思わざるを得ません。わたしはこうした経験はしたことがありません。しかし、世には不思議なことがあると思わざるをえないのです。
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