|
長田先生をどう評価すればよいのだろうか。この先生のシリーズを締めくくるにあたって、もう一度先生の人となりを振り返ってみました。
まず私の目に浮かぶのは、美術教師として類まれな生徒への愛情と観察を持った人であったということです。この評伝の前半でも触れましたが、美術部の顧問であった先生が、後継として私に美術部の顧問を譲り、サブとして部員と接しておられた日々・・。生徒たちの作品の批評会で、いつも実に含蓄のある言葉、一人ひとりの作品から可能性と良さを見出し講評をされていた姿でした。先生は、いつも私は教師でなく、画家として制作に専念したかったと口癖のように語られていましたが、私には、先生のその思いを理解しつつ、職場の誰よりも教師であり、生徒の良さを引き出す教育者だったと思っています。
ここに生徒を観察した先生の文章があります。
昭和五十三年 忘れられない顔(創立五十年記念によせて)
思い出は美化されるかも知れないが、忘れられない生徒の顔が幾つかあります。
その一、20年前の木造の薄暗い教室で石膏レリーフ実習の折、Aと言う生徒、弥勒象を作った。最後に割り出した瞬間両手を広げてジーツとして動かない。その両手で囲った空間だけボーツと明るい。苦しい陣痛の後、生まれたわが子をみるは、かくやと思ったその顔。
その二、本校に中学部があった頃、修学旅行で京都・奈良に行った。夏を思わせる参道だった。Nと言う生徒、地べたに座って泣き叫んでいる。道辺に老女が座っている。その物乞いが母に似ている。「母ちゃんだ。母ちゃんだ」と言って動かないのだ。涙でグショグショして陽光に向かって振り返ったその顔。
その三、Iという中三の子、小学校から勉強が苦手だった。友はなく、他の子から馬鹿にされても棒のように動かなかった。生来感情を忘れたのか。まるで能面の子であった。夏の終わり、その子の母親が亡くなった。葬の日、いよいよ棺が玄関を出た時、私はメリメリという音を聞いた。かつて動いたことのなかった彼女の白壁のような顔にビリビリとひびが入った。涙が吹き出たその顔。以上、三つの顔。五十年の歩みにふさわしいものではないかもしれないが、私は校舎の今昔もさることながら愛らしく忘れられない顔である。
このように生徒へいつも細やかな愛情の目を持って見、観察していた先生が私にとって最良の教師と呼ばしめるところです。
しかし、このように優しい視線を持っていた先生は、実はその裏側には自己に厳しく、いつも自己に問いかけ自己と対峙した先生でもありました。先生のスケッチブックには走り書きのように自画像が書き込まれていました。この自画像からは、生徒思いで私に常に優しく接してくれた先生とは裏腹に鋭く恐ろしいまでの形相の先生がいます。当時お子さんたちが成田闘争に巻き込まれ裁判沙汰になっていて親としての自分を責めたてる先生がいました。それは、正しく自己と対峙する先生の自己に対する厳しさでもあったのです。このシリーズの中に幾つか自画像を載せましたが、いずれも対峙する先生がいます。自画像を沢山描き残したゴッホに通じるものを感じます。つまり自意識が強く自己と対峙する姿です。
このシリーズを締めくくるにあたって、以前刊行した『長田国夫作品集』に載せた私の文章を再録しておきたいと思います。
先生は、探究の人、思索の人、努力の人、そして情熱の人であった。先生が絵の世界の第一歩を踏み出した時に絵画集団を結成し、その会を命名したのが先生で会の名前は『互歩会』でした。画家ゴッホをもじっての命名だそうですが、ゴッホがそうであったように先生もまた情熱の人、情念の人でした。この項を締めくくるにあたって、感情や情念においてゴッホ。太い線で描く画風はルオー。教育者においては実物教育を謳ったペスタロッチをあげたい。この三者の姿が投影されるその重なりの中に先生のもう一つの実像を見る思いがするのです。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用





