友和会

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 私が所属している日本友和会で反原発・護憲等で積極的に活動している仲間から下記のような日本友和会のメール交換スペースに『ヘイトアクションのカウンター行動』に参加しての報告が寄せられていました。ここに本人の許可を頂き転載することにしました。
 先週日曜日午後の在特会系団体のヘイトアクションのカウンター行動に参加しました。ふれあい館のSさんの報告でご存知かと思いますが、ヘイトアクションは50人、それの阻止行動のカウンターには市民500人が集まりました。これほどの人権侵害行動団体の支持行動の中止どころか、神奈川県警察は装甲警備大型車両5台を始め数百人の警察官を動員し、デモを強行させました。川崎駅から追分だんごを過ぎ櫻本へ直行する三叉路を若者のカウンターが座り込みで、結局ヘイトアクション団体は川崎駅まで押し返しました。救援団体の弁護士は座り込みの若者が道路交通法違反などで現行犯逮捕されないか、緊張したと後で語っていました。行動後のカウンター参加者の集会には、民主党、共産党などの議員だけでなく、この行動を準備してきた百にのぼる団体が参加しました。差別を許さない町だから帰れ!川崎には差別者はいらない!いつまでも、この街で共に!・・・・・
と沢山の声が、在日特権は許さない!外国人は出て行け!多文化共生を許すな!ユネスコから政府は脱退しろ!
ハルモ二の戦争法反対を許さない!北朝鮮拉致被害者を帰せ!などに対したことばが双方を飛び交わしました。それぞれの政党が特色を鮮明にし共に市民と歩み、互いに住み易い社会を担ってくれるのは有難いと感じました。またそのような市民を議会に送り出したいと改めて考えされられた半日の行動でした。






 五回にわたって報告してきた今年の友和会の全国大会の報告。今回が最後になります。今日報告するのは、『護憲平和行進』で浜松市役所から浜松駅までの平和行進です。浜松の戦争戦跡巡りを慌ただしく終えて、昼食後一時に市役所前に『浜松市憲法を守る会』の人々と合流。そこで前日大会で採択された『友和会全国大会大会宣言』を友和会の今野理事より発表があり、2時30分頃から護憲平和行進を開始。浜松駅前で解散となりました。
 この平和行進は、前述したように1964年の浜松市挙げての軍事パレードに一人の牧師が「戦争準備絶対反対」のプラカードを掲げてデモ行進したことから始まり、それを全面的に支援した『浜松聖書集会』の主宰者溝口正氏とともに毎月1回第二日曜日の午後に憲法擁護を掲げ、雨の日も雪の日も毎月欠かさず平和行進を続けたその行進の551回目が全国大会の三日となりました。この全国大会の〆としてふさわしい行進と思います。今年の11月で50周年になるとのこと。
 
 平和行進としては、極めてささやかな行進ですが、参加者は手に手にプラカードを抱え、また先導車もでで、スピーカーで町ゆく人たちに平和憲法の大切さを訴え、町ゆく人にビラを配っての行進となりました。
 
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いよいよ全国大会の最終日、全国大会は実質一泊二日。三日目はオプション日で午前中は①浜松戦跡巡り②遠州教会礼拝③浜松聖書集会の内、選択しての参加。無論私はこの案内が届いた時から関心があった①の浜松戦跡巡りを選択、前もって戦跡を案内してくれるガイドの竹内康人氏を事前に知りたくてネットから『浜松の戦争遺跡を探る』という静岡大学生涯学習講座で三回に分けて講義された内容を引出し、プリントアウトして斜め読みでしたが、目を通しました。プリントは、A4にして75枚。大変な分量となりました。この講座の内、三回目が今回の戦跡ガイドをしてくれた竹内康人氏。タイトルが『浜松の戦争遺跡』でした。下が三回分のその資料です。
 
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この浜松の戦跡巡りに参加した人は四名。(一人は天理大学で教鞭をとっておられる天理信徒の男性・一人は無宗教の女性・一人は日本友和会で九条に関しての『手のひらブック』を作成したりして活動的な女性・そして私の四人です。)
 
 浜松が戦災にあったことで、一般的には東京の空襲のためにB29がその帰路の途中に余った爆弾を投下していった、と言われていますが、このテキストを読む限り、実際はそうではなくあらかじめ米軍が航空機で浜松の航空写真を撮り、それをもとに計画的に爆撃したとありましたので、それを確認したいことと、この浜松市が第二次大戦でどのような役割を果たしていたのか、確認したかったのがこのオプションに参加した私の動機でした。
 
 全国大会三日目も晴天に恵まれ初夏を思わせる暑い日でした。オプションに参加した四人は、天理市から参加した青年の車でガイドの竹内氏のとの待ち合わせ場所である浜松駅前に行き、最初に浜松市の戦跡を地図をもとに説明を受け、スタートしました。戦跡巡りの時間は二時間余りと限られていたので戦跡はその一部しか回れませんでしたが、その間、竹内氏は、情熱的に早口で多くのことを語ってくれました。
 その話によりますと、浜松の空襲は、東京空襲のついでではなく、かなり意図的に行われたということでした。当初こ豊橋市と浜松市が軍需工場誘致に競い合ったということですが、浜松には日本楽器や中島飛行機や鈴木織器機等の工場があり結果的には誘致合戦は浜松が勝ち、日本楽器では飛行機のプロペラ、中島飛行機ではエンジン、鈴木織機では砲弾を製造することになります。また、浜松飛行機学校では毒ガスの研究も盛んに行われ、戦後すぐに毒ガス・イペリットを破棄したそうですが、現在でも山林から毒ガスの缶が見つかっているとか。浜松には早くから歩兵隊の兵舎があって(現在は静岡大学となっています。)歩兵連隊の練兵場あったとのこと。その他、現在航空自衛隊浜松基地となっている場所に飛行機第七連隊の飛行場や爆撃演習場があったりして、浜松は軍事色一色の町であったので、当然米軍の爆撃の重要な場所とされていたようです。この工場には朝鮮からの多くの出稼ぎ労働者(半強制)が飛行場の造成に動員されたということです。竹内氏は、慰安婦問題が朝日の件で問題になっている件にも触れ、この浜松に来た多くの朝鮮人も出稼ぎとはいえ、そうならざるを得ない状況を作り出し、強制的意味合いが強かったと語りました。そのようにして造成された飛行場から「満州」での戦争以降、中国各地で爆撃を行い、その他マレーシア・シンガポール等東南アジアの多くの国々への爆撃に浜松が関係していたとのことです。結果米軍の攻撃目標となり空爆を受け3,500人もの浜松の人達が戦死したとのこと。
 
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 上の写真は空襲で亡くなった戦没者の碑。竹内氏はこの碑が寄贈した企業や基金を出した人々の名前は記載されているものの、肝心な戦没者の氏名が書かれていないことに大きな疑問を呈していました。亡くなられた人々の名前を載せるべきが筋だと強く語りました。
 
 彼は、そのことにも抗議するために亡くなられた人達を一人ひとり掘り起し『浜松・磐田空襲の歴史と死亡者名簿』をまとめあげ戦争が風化しないためにも自費で出版しました。下がこの名簿本です。素晴らしいの一言です。
 
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上の写真は石垣沿いが現静岡大学。当時の煉瓦作りの兵門が見えています。
 
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参加者の前で熱く語るガイドの竹内氏
 
彼は、『浜松の戦争遺跡を探る』の冊子の最後に次のように語って報告を締めくくっています。
戦争の遺跡を考える意義は次の三点にあります。
 
一つは、生命や人間の尊厳について考えること。そこには亡くなった人もいますし、あるいは殺す側に回った人もいます。戦争遺跡は生命への視点を示し、人間の方向性を問うものであります。
二つ目は、歴史認識や歴史的責任を考えるということです。戦争遺跡は、その戦争の原因や責任を考え、どのように過去を清算しよい社会を作っていくかという歴史的な責任を問いかけるものにあります。
三つ目は、それらの考えを踏まえながら、どのようにして非軍事の平和な社会、アジアの友好や共同性を作っていくかというテーマを提示するものにあると思います。
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上の写真は分科会の様子。私の『非暴力市民運動』を選びました。
 
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  上の写真は中日(東京)新聞の記者 古田哲也氏の講演の様子です。
 
 
 全国大会の二日目は、午前が分科会に別れての話し合い。分科会は、①集団的自衛権 ②解釈改憲 ③秘密保護法 ④非暴力市民運動の4つ。全国大会の案内が届いた時、①の集団的自衛権の分科会に出ようかと思いましたが、①〜③は、いずれも問題が多く、相互に関係しあっているので最終的には④の非暴力市民運動の分科会を選びました。ところが大会直前に送られてきた名簿では参加者の内、半数近くが④の非暴力市民運動を選んでいて、分科会の参加者に偏りが目立っていました。何と一番少なかったのが②の解釈改憲でした。この解釈改憲は①でも問題となるので参加者が少なくなったのだと思います。しかし、すでに現在の個別的自衛権としての自衛隊の存在もすでに解釈改憲で公けに認められています。そこで②では、そもそも平和憲法である九条の第二項において『非暴力』を掲げる日本友和会が、この平和憲法の原点に戻り、非武装・中立について論議する必要があるのではないか、と思い、当日、この②の分科会の人数が少ないようならば、②の分科会に変更しこの問題を深めようと思っていました。ところが事前に人数が多かった④の分科会がさらに2グループに分けられていたので、分科会の変更は申し出ないで④の分科会の1に出ました。そもそもこの④の分科会参加を決めたのは、『キンカンデモ』で参加している感想と、非暴力市民運動とは、そもそも何なのかを皆さんと考えたかったからでした。今年の7月にジオラマ作家の高校時代から旧友と久しぶりに飲む機会があり、そのおり丁度金曜日の夕刻だったのでキンカンデモに誘ったところ、彼の口から「あれはヒスだ。ヒスは嫌いだ。」という大変ショックな言葉発せられたのです。それは彼の大きな誤解だと言いたかったのですが、久しぶりの友との再会で変に口論になっては酒もまずくなると思いそのままにしました。昨年の特定秘密保護法では、その法案阻止に連日、議員会館前で大勢の人が抗議のシュプレヒコールを挙げていましたが、それを称して石破幹事長が「あれはテロだ。」とブログで述べて物議となりました。その後、石破氏は発言を取り下げましたが、最近でもキンカンデモがうるさいので仕事にならないと高市議員から苦言が出されたりしていました。高市氏は問題が波及すると思い、間もなく発言をしぶしぶ取り下げましたが、私からしてみますと、この発言を含め、一部の国会議員が国民の意志を無視して特定秘密保護法の成立のために強引に動議を出して衆参の両方で集中審議を打ち切り採決強行し成立をはかりました。集団的自衛権行使容認においては国会で審議を尽くさず内閣だけで行使を容認しました。この一連の事の方が、よっぽと『テロ』行為であり、成立にしゃかりきになっている安倍さんの行為自体が『ヒス』だと思っていたので、果たして非暴力市民運動は何なのか、を分科会メンバーと語り合いたかったのでした。最後に各分科会からまとめの報告がありましたが、時間的に不十分だったせいか、今一つ内容の欠けた報告のようでした。
 
 午後は、講演会で弁士は、中日新聞東海本社の編集局報道部記者の古田哲也氏。 演題は『現場から見た安倍内閣』  
 今年四月に東海支社に転勤になりましたが、第二次安倍内閣では七か月余り安倍首相の東京新聞の番記者をつとで、取材の苦労や内側から見た安倍首相の長短を忌憚なく述べてくれました。記者会見があらかじめ発言記者からの発見内容の提出が義務づけられていて、その内容に外れた質問は出来ないことになっていて、如何に記者会見が極めて形式的で、安倍サイドの都合に良いようになっている。安倍さんは、仲間を周辺に配置することで、自分の意に沿った方向を打ち出させる術を知っていて、その点では長けているとのこと。
 
 私からの質問で一党五弱の今の政治。そこで与党の公明党に『特定秘密』においても『集団的自衛権』においてもとことん抵抗することに『望み』をかけたが、結局は予想していたように若干の修正は組み込むことで合意。腰砕けとなりました。公明党は表向きでは、今年の後半で審議になると思われる2%の扱いで公明党の要求が受け入れらる事を強く要求することで、特定秘密も集団的自衛権も容認。創価学会の女子部の抵抗する動きに和さなかった。国民の政党を謳う政党が腰砕けの政党となってしまいました。そこで今後の消費税2%UPの内容いかんでは公明党が与党を割って出るようなことは起こるのかどうか、質問しました。
 結果、古田氏は、それは絶対にありえない。集団的自衛権行使において公明党委員長の山口氏が「容認はしない」と言っていたのを取り下げて結果的に容認に踏み切った公明党。長い与党暮らしの中で甘い汁をもらい続けた政権側のうまみらは離れられなかったし、今後もこの姿勢は変わらない、との感想を述べてくれました。
 一党五弱の体制には今後も変化はなく、問題は石破氏の来年度行われる自民党総裁で果たして出馬するのか・・。というところにあるとのこと。
 
 この午後の講演会は、中日新聞(東京新聞)の古田氏の我々から質問に一つ一つ丁寧に応えてくれて三時間半の長い講演を含めての勉強会になりました。私の愛視聴番組『デモクラTV』において毎月一回『永田町フ〜ゥン録』と言う番組で政界の裏側話が早野。平野・鈴木等の政界をよく知る人達で語られていますが、それらの話を思い浮かべて「成程・成程、さもあらん」と相づちを打ちました。
 
 夜は、自由時間となり、同室となった天理大学の講師の若い天理教の信徒といろいろ話を交わすことが出来、日本友和会も宗派を超えて、無宗教者も含めて『友和会』の大切な主旨のひとつである『非暴力の平和行動』に邁進できる団体へと成長への可用性を感じると共に成長に期待したいものです。
 
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大会第一日目の小池善之氏の主題講演『”非暴力による平和”を巡って』の後、シンポジュウムとして以下の報告とこのテーマについてのディスカッションが行われました。
①『浜松市における非暴力平和運動』の歩みと報告→浜松聖書集会の水戸潔氏
②『沖縄における非暴力平和運動について』の経過→沖縄県沖縄市の友寄隆静氏
③『辺野古基地阻止の運動』の現状→沖縄県うるま市の石原昌武氏
 
①については
、昭和39年11月5日に浜松市の中心地において道路封鎖の上、自衛隊の戦車100台余の行進。戦闘機45台が飛び交う一大パレードが市長や商工会議会頭ら出席のもとに市を挙げて実施された折、一人の牧師(松本牧師)が『戦争準備絶対反対』というプラカードをかかげてたった一人でのデモ行進をした。太平洋戦争中、日本の教会がこぞって戦争に協力したことを含め抗議運動をしたのです。このことは、当時の中日新聞に取り上げられましたが、このたった一人の牧師の抗議運動を下支え支援したのが浜松聖書集会の主宰者の溝口正氏で、この抗議運動以来二人は終生変わらぬ平和運動の戦友となり、1966年以来毎月一回第二日曜日に雨の日も雪の日も一回も欠かさず浜松市内を非暴力平和行進を続け、現在に続き550回という、極めて貴重な素晴らしい運動の起こりと現在への経過報告がありました。その551回目の平和行進をこの大会の最終日に行うことになります。
 
②については、
沖縄在の友寄氏より、本人がどうして『日本友和会』に入会したか、の動機の話から『天皇制と沖縄』についての問題提起がされました。
 1952年4月28日の日本主権回復の日と称したその日の影での沖縄県民が味わった屈辱の日について何故屈辱の日なのかを資料をもとに語ってくれました。つまり昭和天皇は沖縄を米国に売り渡す発言をした。(ソ連という共産圏から日本を守るため米軍の基地を沖縄に置く)このことを知らない人が多いし、結果昭和天皇は全国各地を慰問に訪れたが、一度も沖縄へはこなかった。日米安保条約を通して沖縄は、その捨石となった。
 との話され、共和制にも話が及び問題提起がされた。
 
 私個人としては共和制が望ましいと思っていますが、内村の不敬事件があったものの、彼は天皇への畏敬の念が強く、この内村から端を発した無教会には、南原繁にしろ、矢内原忠雄にしても皇室を尊ぶ傾向があり天皇制を廃止して共和制施行には消極的のように感じています。但し、現天皇は、美智子さんともども何よりも現平和憲法を愛し、その思いを無言のうちに活かしている人物だとして評価しています。
③については、
沖縄から駆けつけてくれた石原氏が現在の辺野古基地移設反対の運動をスライドで紹介。テントを毎日張って連日抗議を続ける漁民・県民の人達。しかし、これを押しとどめる動きも激しく、その反対運動を阻止する警備隊も日増しに人数が増えている。しかし、この辺野古基地移設にはマスコミ・県民の80%以上の反対と外国の著名人からの支援もあり、闘いは続く。キャンプシュワープゲートには8月23日にはバス35台3,600人もの人が参加し、沖縄は燃えている。等の報告がありました。
 
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 このことについては、私の方から、本土ではほとんど取り上げられることがなく、よそ事として捉えている。辺野古移設反対が50%越えているが、実際は国民の多くは(感触として70%以上)は反対ではなく、沖縄にお任せと思っているのではないか。余りにも本土における沖縄の情報が少な過ぎる。ここに問題があると思う。私は『デモクラTV』というネットテレビのファンでいつも見ているが、その番組の中で『新 沖縄通信』という番組があり、毎月の沖縄の動きをこと細かに伝えてくれている。是非、この『新 沖縄通信』をネットテレビで見て欲しい、と述べ、出来ればネットテレビを視聴てほしいと述べ、デモクラTVのパンフレットを参加者全員に配っておきました。
 

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