平和をつくる人々とは・・

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平和とは、どんなことなのか。平和をつくるとはどんなことなのか。自分自身が再学習するつもりでキリスト教の世界を覗き見ながら書くことにしました。
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この表紙で、英語で、言っている!
「なぜ、私はクリスチャンでないのか」と。
だから、結論は、当然、必要ないである。
          

『宗教は必要か』 (1959年)                                


「理性的な人なら誰にも疑えない、それほど確実な知識などあるのだろうか」。この書き出しで始まる本書は、近代哲学が繰りかえし取り組んできた諸問題を、これ以上なく明確に論じたものである。ここでは、分析的な態度を徹底しつつ、人間が直接認識しうる知識からそれを敷衍する手段を検討し、さらには哲学の限界やその価値までが語られていく。それはまさしく、20世紀哲学の主流をなす分析哲学の出発点でもあり、かつ、その将来を予見するものであったともいえよう。今日も読みつがれる哲学入門書の最高傑作。待望の新訳。

ラッセル,バートランド
1872‐1970。イギリス生まれ。ケンブリッジ大学で数学・哲学を学ぶ。ホワイトヘッドとの画期的な共著『プリンキピア・マテマティカ』によって数学基礎論に貢献。記号論理学を大成するとともに存在論・認識論に適用し、分析哲学の始祖として二〇世紀哲学の流れを決定づけた。
平和運動・社会運動にも挺身し、社会評論や倫理問題に関する著作も数多い。
1950年、ノーベル文学賞受賞(平和賞)

      投稿者 韮沢 投稿日 2013/7/15
 『哲学入門』という邦題を最初に付けたのは誰だか知らないが、本書 "The Problems of Philosophy" (哲学の諸問題)はそう訳されてきた歴史がある。この本の題名を「哲学入門」とは、上手く訳したものだ。
本書は考える力さえあれば、誰にでも読むことのできる哲学書。
種々の哲学説に関する専門的知識は必要とされない。
本書の原書が出版された頃は、哲学の「問題本」ブームだったようで、G. E. ムーアやウィリアム・ジェイムズも、似たようなタイトルの本を出している。ただし本書のタイトルには ”The” が付いていて、それはおそらく、「これが決定版なのだ」というラッセルの自負の現われだろう。
とにかく、ラッセルの『哲学入門』では、先人が何を言ったかではなく、何が哲学の問題になるのか、それらの問題をどう考えるのかが、おもに論じられるのである。
本書を読むには専門的知識は必要ないというのは、そういう意味である(プラトンやカントの名前が出てきても、そういった固有名は実際のところあまり重要ではない)。

 とはいえ、著者ラッセルについて、すこし知っておいても良いだろう。ラッセルは、「ラッセル・アインシュタイン宣言」などの政治的活動でも有名だが、もともとは数学者として、アリストテレス以来引き継がれてきた論理学に革命をもたらした、現代の「古典論理学」の基礎を築いた人物の一人である。哲学者としてのラッセルは、自らが作り上げたその新しい論理学をベースにして、同時代のケンブリッジ・ヘーゲル学派(本書ではブラッドリーが言及されている)の観念論を批判し、新たな実在論的哲学体系を構築しようとした。本書がそのような歴史的文脈の上にあることを知っておけば、いくらか読みやすくなる。まあ、もちろん「観念論」などという言葉を初めて聞いた人でも、本書を注意深く読みさえすれば、ラッセルの言わんとすることを理解することはできる。

 さて本書は、そう言った歴史的文脈にある、1912年の原書の翻訳である。したがって古すぎる(と思ったほうが良い)。ラッセルの主張をそのままで正しいと見なしている現役の哲学者は皆無である。つまり、本書を通して、ラッセルの主張をただ理解するだけでは意味がない。知識がほしいなら、最新の哲学の解説書を読むほうがよっぽど良いはずだ。

 では本書の価値はどこにあるのか。本書が既存の哲学説の解説ではないところである。本書でラッセルは、初学者にも分かりやすい仕方で(つまり模擬的にだが)彼自身が考えを進める仕方を見せてくれる。だから初学者は、ラッセルの論述/思考に付いていきながら、彼の哲学の仕方を実地に学ぶことができる。そのとき読者は、ラッセルの議論の筋がちゃんと通っているのか、見落とされている論点はないのか、そういうことをしっかりと考えながら、ゆっくり綿密に読むべきなのだ。そうすると、ラッセルの議論に甘いところが幾つも見つかって、自分なりの反論を思いつき、それがそのまま初学者にとって、最初の「自分の哲学」となる。現在でも本書が価値のある「哲学入門」であり続けるのは、初学者が、精読と反論という「哲学の基礎訓練」を行い、さしあたっての「自分の哲学」を作るのにうってつけの本であるからだろう。

 ところで、20世紀を代表する大哲学者、ラッセルの弟子かつ友人でもあるウィトゲンシュタインは、この本が大嫌いだったらしい。ラッセルが本書で示すような哲学のやり方がほんとうに良いかどうか、あるいはそもそも哲学と言えるのか ―― この問題も、心に留め置きつつ本書を検討すべきかもしれない。

ラッセル一押しの名著。初読者には、つまずきのポイントもあるかも。
ベスト1000レビュアー2008年9月27日

1)「哲学原理」の直後に書かれた平明な小著。比較的初期の最もラッセルらしい時期の名著。

2)数学者で、明快・明晰のイメージが強いが、読んでみると、読後感は少し違う。明快な論理で果断な叙述と、案外好い加減と言うか、俗に言う英国経験的な経験・日常性重視の視点の混合が、読むものの調子を狂わすかもしれない。本書では比較的大人しいが、乱暴極まりない発言もあって、怒り心頭に発する読者もいると思う。しかし、我が身に振返って、自分の日常的思考を鑑みると、むしろラッセル的な考えが受け入れやすいことに気付く。帰納の不確かさのあまり反証主義へ傾斜するような極端さは無いのが良い。ああいう考えが田舎臭く、冴えない感じがしてくる。「真」、つまり真理論でも、信念に基づくが、事実との関係が鍵であること、虚偽の可能性を受け入れておくことが、真理論の基本姿勢というのは、健全に思える。

3)過去の思想や哲学の吟味には欠かすことが出来ない、思考のフレームワークと思えるし、この姿勢を拒否したところにalternativeがあるのか疑問だ。でも、かといって、ラッセルの哲学では、やっぱり何だか物足らないことも事実で、これじゃあ、色々言っても、常識の説明会みたいで、難しい本を読んでおかしくなった頭を良識に連れ戻す作用しか思い浮かばないようだ。「整合性の体系」こそ真理の条件だというブラッドレーやドイツ哲学は、胡散臭くもあるが、却って、日常性とは異なる世界観の可能性を示し、それが、時代の診断へとも繋がっていくような気もする。所詮失敗した残骸であっても、そっちのほうが懐かしい気もしてくる。

4)そうは言って、独特の文体とキャラクターで兎に角退屈させずに語りきる本書は名著中の名著と思う。





転載元転載元: ナザレのイエスと佛陀と道元の思想の深化。日本人の知性で考える!

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  前回は、パウロの『ロマ書』の言葉を載せました。パウロがローマにいる当時の信者達が置か

 れていた厳しい状況を汲んで書いたと思われるのがロマ書13章(1〜10節)です。しかし、

 それがいったん聖書として組み込まれますと、その時の状況から切り離され今語りかける神を投

 影した言葉として受け取られるのです。

  パウロの手紙に「コリント人への第一の手紙」がありますが、その11章には女性蔑視と思わ

 れるようなパウロの言葉が続きます。(例:女の頭は男。何故なら女は男から出たのだ)

  恐らく当時、コリントの教会に不謹慎で節度をわきまえない女性信者がいたのでしょう。その

 ことにパウロは教会の乱れを感じ警告したのでしょう。しかし、聖書です。それだけにこの個所

 が一人歩きしてしまいパウロは女性蔑視の思想を持っていたとか、加えて旧約聖書の創世記等を

 加味して、キリスト教は女性蔑視の宗教と言われたりもします。

  このようにいったん聖書に組み込まれるとその一つ1つが重みをもっていくものです。

  新約聖書の末尾にあるヨハネ黙示録は、著者ヨハネがパトモス島で七つの教会宛に書いたもの

 ですが、黙示ということで真理を伝えるために伝えたい内容の真意が隠された形で書かれていま

 す。ローマやローマ皇帝等々も隠されて形を変えて書かれています。それだけに如何様にも解釈

 出来、現在の終末預言だとして拡大解釈され「ハルマゲドン」がまことしやかに語られたりして

 現代でも言々されています。特に米国のキリスト教原理主義者達が「これがイスラムとの戦いだ」

 としてパレスチナでの紛争の一因にもならしめたのは通説になっています。因みにイスラム世界

 を鼓舞してこれを撃破し黙示録20章にある『千年至福期』に結びつけた『ブッシュ黙示録』な

 るものがまことしやかに語られているのです。


  聖書は二元論的な物の見方が底辺に流れていますから、敵を打ち破るとか、敵を打つだとか、

 殺すとか、勝利する等のような『戦い』を吐露する言葉が旧約にも新約にも幾度ともなく出てき

 ます。そんな二元論的な物の見方は、剣を持たせ戦いへとかり出し、中世の十字軍遠征等になり

 キリスト教の歴史に汚点を残していきます。

  この二元論的な見方はそれは現代でもベトナムにもイラクにもアフガンにもイスラエルにも米

 国を中心として戦いを起こしていることでもあります。「神と正義」の名を借りて・・。

  話が少し戻りますが、新大陸は開拓を目指した国々が持ち込んだキリスト教を開拓の精神心的

 指針とし(開拓者達は旧約の申命記にある神がモーゼに示した『約束の地』を新大陸に置き換え

 開拓に猛進)キリスト教はそのための道具とされました。加えて白人という優越意識からくる有

 色人種への歪んだ理解がキリスト教解釈にも加味され先住民であったインディアンの居住地から

 追い出し、その過程で虐待・虐殺と言う汚点を残すことになります。(インディアンも黒人も聖

 書で示された人間ではないという非常な歪曲さえ起こりえて・・)

  インディアンを武器を持って追いつめている同時期に新大陸の開拓に関して当初多くのアフリ

 カの黒人達がアフリカで貧しい生活をするより豊かな生活をという誘いにのって新大陸に連れて

 来られ、その後奴隷商人により黒人奴隷の売り買いが行われ、農園(綿花等)等の労働力にかり

 出されます。西洋諸国からかり出されたアフリカの黒人は数十万人〜数百万とも言われています。

 (現在米国の20%弱は黒人です)

  彼らは人間の権利は無視され奴隷として不当な扱いを受けるのですが、その時にも巧みにキリ

 スト教が道具にもなったようです。ロマ書の13章や5章のような言葉(患難・忍耐・錬達・希

 望)で従わせ、12章(愛・善・尊敬等)で一人一人に神の恵み・愛を感じさせることで精神的

 な同化をさせたのです。キリスト教は一人一人の心にも降りてきて慰めを与えてくれる優れた側

 面を持っていたからです。

 
  米国での発展にはこのようにして歪んだ形での『キリスト教』があったと思います。ここだけ

 を見ますと本来のキリスト教とはほど遠いことです。に利用されたのです。何故「愛」を語り

 「平等」を語るキリスト教がかくも信者にこれらのことを平然と行わさせたのか、暗すぎる歴史

  です。


  下記に載せるのは1776年に出された米国の立派な独立宣言です。


   
    われわれは、自明の真理として、すべての人は平等につくられ、神によって、

    一定の誰にも譲ることのできない権利を与えられており、これらの権利の中

    には生命・自由および幸福の追求が含まれていることを信じる。また、これ

    らの権利を確保するために政府が設置されること、そして、その正当な権力

    は被治者の同意に由来するものであることを信じる。そして、いかなる形態

    の政府であれ、もしこれらの目的を破壊するものとなった場合には、国民は

    いつまでも政府を改廃し、かれらの安全と幸福をもたらすだろうと認められ

    る原理を基礎とし、それに役立つ権限と機構を持つ、新たな政府を組織する

    権利を有することを信じる。  (トーマス・ジェファーソン・第三代合衆国大統領)


    この見事な宣言文にはキリスト教精神ならではの『人間』への視点が脈々と流れてい

   ると思います。しかし、悲しいかなこの宣言の成立には多くの血が流れ、この宣言と矛

   盾した形で多数の黒人奴隷が存在したのです。

     この宣言にみられる『自由・平等・幸福』は黒人やインディアンには無関係なもの

   で、この宣言の草案を書いたジェファーソンその人が多数の奴隷を所有していたと言う

   矛盾は現代の米国のキリスト教国の矛盾を露呈しているとも言えます。(彼の言葉に

   『白人は、肉体的にも能力的にも黒人に勝っている』があります)
 

    そしていま、世界に軍事基地を張り巡らし、イラクへ、そしてアフガンに戦いを「正

   義と神の名」で進めているのです。(続く)

   *写真は、トーマス・ジェファーソンです。

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  前回は、使徒パウロのロマ書からの言葉を載せてみました。パウロといえばキリスト教の

 教祖と言わしめるほどキリスト教が世界宗教としての足がかりを作った人物でキリスト教は

 彼の存在なくしてはなかったと言われる程の重要な人物です。

  パウロは、イエスの直弟子ではなくて西暦33年頃、ダマスコに行く途中処刑されて死ん

 だイエスの顕現に会うことで、それまでのイエス一派を懸命に追いかけ吊し上げるパリサイ

 派の立場から一転してイエス・キリストを信奉する熱心な人間に生まれ変わのですが、その

 幾度も身の危険を冒してまで福音としてのイエス・キリストを述べ伝える伝道の旅に出かけ

 ます。

  そんな中、西暦57年頃、恐らくギリシャのペロポネソス半島のコリントに滞在中にロー

 マにある教会宛てに書いたパウロの手紙が『ローマ人への手紙』と言われるロマ書です。

  パウロは当時の世界の中心であったローマへの伝道を夢見、さらに地の果てのスペインへ

 の伝道を視野に入れていたようですが、このコリントで世界の都「ローマ」に行くために今

 まで彼の信仰や思想の集大成として手紙を書くことを試みたと思われます。それだけに彼の

 ロマ書にかける思いは強く彼の信仰や思想を体系的に書かれていて、その後のキリスト教の

 発展の歴史の流れにおいて多くの人に影響を与えました。多くの人々の心を引きつけて止ま

 ない書であったようです。

  私が大學時代に関心を持った明治時代の思想家・宗教家であった内村鑑三もこのロマ書の

 講義においては全身全霊で講義。聴衆は彼の熱弁とロマ書にかける思いの強さに物音一つさ

 せず聴き入ったと聞きます。

  さて、そのようにキリスト教にとって大切なロマ書。そこで述べられる一つ一つの言葉は、

 大きな意味を持つものになっていきます。

  前号で載せましたロマ書の13章1節〜10節は、それだけに新大陸に於けるインディア

 ンへの宣教や、アフリカから連れてきた黒人奴隷達への宣教に各植民地維持のために有効な

 聖句となったのではないかと思うのです。

  とにかく新天地である新大陸の開拓には先住民を体制に従わせること、農地開拓に連れて

 きた多くの黒人奴隷を従わせるには宗教が大きな力を持つからです。

  以前にも何回か触れましたが、コロンブスを契機に新大陸に向かった人々はイギリス国教

 会の人々やそれに反発したピューリタン派の人々・それ以前に新大陸に渡ったスペインやフ

 ランスからローマ・カトリックの人々やオランダからのプロテスタント一派等々、実に多彩

 なキリスト教が新大陸に根を降ろしました。そのため新大陸に生まれた数多くの植民地にそ

 の数だけ様々なキリスト教が生まれることになりますが、形の異なっても異国の優れた文化

 を伴ったキリスト教は先住民にとっては追放・虐殺・疫病等で壊滅状態になりながらも一面

 では同化させられ、一面では体制に取り込むことに関して格好の宗教となったのです。

  宗教は内面に深く入り込むだけに信じる者には平安を与え、喜びを与え、苦しみも悲しみ

 も乗り越える力を与えてくれるものです。

  しかし、他面内面に入り込むだけに体制に従わせる大きな力にもなるのです。

  ロマ書の13書はまさに体制に従わせるためには聖書であるだけに力を発揮するものだと

 思います。

  この聖句に悩んだ武藤陽一氏は、このロマ章13章の聖句を次のように置き換えています。

 前号のロマ書抜粋と読み比べてみてください。



   政府に従いなさい。それを立てたのは神だからです。神が権力を与えなかった政府

   はどこにもありません。ですから、国の法律に従うことを拒否する人は、神に従う

   ことを拒否することになり、必ず罰せられます。なぜなら、官憲は正しいことをし

   ている人々を脅かすことはなく、官憲をこわがるのは悪いことをしている人たちだ

   からです。ですから、びくびくしたくないと思ったら、法律を守りなさい。

   そうすれば万事うまくいくでしょう。官憲はあなたを助けるために、神に遣わされ

   ているのです。しかし、もしあなたが何か間違ったことをしていたら、もちろんあ

   なたは恐れるべきだし、神は官憲にあなたを罰せしめられるでしょう。官憲はその

   ためにこそ、神から遣わされているのです。ですから、次の二つの理由で法律には

   従いなさい。まず刑罰を受けることがないため、そして第二に、そうすべきことは

   あなたがよく知っているからです。

    全く同じ理由で税金も払いなさい。官憲は神の仕事すなわちあなたがたに仕える

   ために、税金が必要なのです。誰に対しても払うべきものはすべて払いなさい。

    喜んで税金を払い、上の者に従い、尊敬すべき人には敬意を表しなさい。(以下

   略)  (ローマ書 13・1ー7)

       武藤陽一著 『平和への道すじ』(キリスト教図書出版)から



    武藤氏は無教会系のクリスチャンですが、良心的兵役拒否の立場から軍事費納入

  拒否を貫こうとする彼の姿勢に『否』というパウロのこの言葉に悩んだのです。

  
    無論、パウロがこのローマ人への手紙を書いた時、ローマは皇帝ネロの時代ですから

  ローマでは新興宗教であったキリスト教には風当たりも強く、やがてローマの大火を理由

  にキリスト教信者達が迫害・処刑されたりする結果になる気配もあり、そんな厳しい時勢

  を汲んでパウロは「ローマに逆らうな!」とここで警報を鳴らしたかったかとは思います

  が、しかし、こうして聖書と取り入れられると「神」の言葉として一人歩きすることも否

  めません。

   特に聖書は、一個所の聖句を取り出して説教として語る時、それは全体の森としてのと

  らえ方よりも森の中から一本の木を取り出して云々するような一人歩きをしてしまうもの

  です。

   戦時中の日本の多くのキリスト教会が国の体制に賛意を示す一つの理由づけにもこの聖

  句が使われたのではないかと思っています。

   ということで新大陸の渡ったキリスト教は様々な形のキリスト教となりながらも先住民

  に対しても黒人奴隷に対しても開拓の大きな道具としてあり続けたと思います。(続く)



  写真は画家デューラが書いた四人の使徒(左右とも右側は使徒パウロ)


   


    
   

 
 

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  さて、米国のキリスト教は多宗派に分かれているようですが、それらは互いに一体どんな性格

 を持っている宗教なのでしょうか。今米国で政治を左右するものにブッシュ元大統領の時期に特

 に広く知れ渡った『キリスト教原理主義』というものがあります。原理主義、この言葉を聞きま

 すと、途端に頭に浮かぶのは『イスラム原理主義』があります。この二つに共通する『原理主義』

 とは一体どんなものなのでしょうか。

  アメリカの原理主義は「根本主義」とも言われ、基本的には聖書の無謬性を唱える宗派がこれ

 に該当します。

  聖書の無謬性とは、聖書が神からの霊を受けて書かれた書物であってそこに書かれていること

 は全て間違いがないとする考え方で、極端にはすでに世界の常識になっている進化論すら認めよ

 うとはしない人々が原理主義者ということになります。これらの人達が米国の保守的立場を支え

 ているのです。米国と言えば宇宙技術では最先端をいき、京都大学の山中教授が見出した「iPS

 細胞」の最先端医療開発では日本に比べもののならないほど研究費を国が提供。今まさにチーム

 を幾つも組んで精力的に研究を進めているのが米国です。その米国が一方では原理主義に支えら

 れて進化論そのものを否定するのです。当然、これらの人々は妊娠中絶・同性愛禁止には反対で

 そのことが米国大統領選での大きな争点にもなったと言われています。

  そもそも前号にも少し触れましたが、米国のキリスト教は、イギリス国教会に反発しイギリス

 本土を後にしたピューリタン(清教徒)の人々の集団の他、フランスからの移民者はカトリック

 のイエズス会の修道士が、また、スペインからはカトリックの修道士が移民の人々とともに新大

 陸に渡り先住民への布教をします。イギリスからはピューリタンだけでなく遅れてイギリス国教

 会の人々も新大陸に渡っています。

  米国には当初これらの人々によって次々と植民地が作られ13にも及びましたが、何れも海を

 隔てての植民地の上、イギリス場合は国の事情もあってその締め付けも弱なり自治権が認められ

 る傾向が出てきます。そんなこともあって新大陸に渡ったキリスト教は植民地毎に少しずつ変化

 していったと思われます。加えてインディアンへの宣教にプラスして南部アメリカに送り込まれ

 たアフリカの黒人等々もあってキリスト教が幾つもにも変化、現在の多宗派に結びついていった

 ものと思われます。

  そもそも宗教はその土地の風土や土地あった固有の文化や宗教を取り込んで変化していくもの

 です。

  しかし、多宗派の中にあって宗派を越えて共通した思いがあったようです。それが前回でも書

 いたように新大陸という新天地からくる『神に選ばれた約束の地』としての新大陸への彼らの思

 いでした。

  米国は、1776年の建国後、人口が増え、物量が増え科学の進歩とともに世界で最も豊かな

 国になっていくわけですが、その発展の中で流れていたものは、2000年以上前にユダヤ民族

 が抱いた『選民意識』に似た選民意識だと思っています。米国こそ、選ばれた民であり、神から

 与えられた国。『民主主義』を布教する立場の国だったのです。ですから彼らのキリスト教はど

 ちらかと言えば旧約に流れいる「民族的」性格を帯びていると思われます。一方、新約の世界で

 は新約聖書の末尾にある『ヨハネ黙示録』が大きく「原理主義」に関わっているように思われブ

 ッシュの言う「北朝鮮」や「イラク」に対して『悪の枢軸』と呼ばしめた対立軸もここに原点が

 あるように思われます。

  先住民であるインディアンに対しての宣教に対してはパウロの教えが大きな役割を果たして

 いたのではないか、と思っています。パウロの何か、そうさせたのでしょうか。そのことでまず

 浮かぶのはパウロの次の言葉です。

  ロマ書13章1節〜8節

   すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、

  おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。

   従って権威に逆らう者は、さばきを招くことになる。

   いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖ではなく、悪事をする者にこそ恐怖

  である。あなたは権威を恐れないことを願うのか、それでは、善事をするがよい。そう

  すれば、彼からほめられるであろう。彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのであ

  る。

   しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼らはいたずらに剣を

  帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって

  報いるからである。だから、ただ怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも従うべ

  きである。あなたは貢ぎを納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神に仕える者

  として、もっぱらこの務に携わっているのである。

   あなたがたは、彼ら全てに対して、義務を果たしなさい。すなわち、貢ぎを納める者

  には納め、税を納むべき者には税を納め、恐るべき者は恐れ、従うべき者は敬いなさい。
 
 
   
   このパウロの言葉の内、「彼ら」を「国」と置き換えて読んだ場合、これは歴然とし

  た国家権力に従えとも読むことが出来ます。先住民が不当な扱いを受ける時、この言葉はそ

  の「不当」を神の行いとして処理されたのではないか。そう考えることも出来るのです。

   このように聖句は解釈によってはいかようにでも変えられ権力の道具とされていく恐れが

  あるのです。とくにパウロの場合、魂の救済、精神の浄化という「心」の問題を提示してい

  るだけにことは複雑になっていくと思っています。(続く)



  
 

  


  

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  前回までで米国を取り上げて『平和をつくりだす人』ことに結果的に反する米国を軍事面から
 
 極く簡単に私見を述べました。私が問題にしたかったのはキリスト教国である米国が何故、武器

 を持つ好戦的な国なのか、ということでした。私は大リーグが好きで仕事休みで中継がある日は

 楽しみ思いBSで試合を観戦したことも度々ありました。アメリカにおけるスポーツ文化には惹
 
 かれます。また、美術面でも今ではニューヨークがメッカとなっており芸術家達が集まり斬新的

 な造形が展開しています。また、星が好きで宇宙に惹かれる私にとってパイオニア的米国の宇宙

 技術の開発や宇宙への挑戦にも惹かれます。(宇宙技術の開発ならびに発展には間接的には軍事

 技術が大いに貢献していて軍事技術の発展なくして宇宙への挑戦はありえないという皮肉があり

 ますが・・)このように私から見ても米国は良いところが沢山ありますよ。

  しかし、軍事大国としての米国、基地帝国としての米国、銃社会の米国には大いに問題を感じ

 ています。多くの民間人がこのために死に、米国への憎悪が深まり、多額の軍事費は世界の平和

 にはほど遠い結果を生み出しているからです。

  昨日も米国の最大の陸軍の基地で銃の乱射があり幾人もの死者がでました。年間での銃による

 米国の死者は相当な人数にのぼっています。

  前々回でも触れましたが、米国がイギリスやフランスやオランダ等々の移民による開拓がその

 底辺にあり、開拓には銃で身を守ると言うことから『自分のことは自分で守る』『銃は自由を得

 るためにある』という思いが国民一人一人の体に染みついてきているとは思うのですが、しかし、

 おおよそキリスト教国家には相応しくない極端に言えば民主国家である反面、暴力国家であると

 思うからです。


  今回は、この問題をキリスト教に絞って考えてみたいと思います。私は幼い頃からクリスチャ

 ンの家庭で育ち、小中高と教会にも通ったことがあり、大学時代にキリスト教関係の本を読みあ

 さった経験があり今でもキリスト教には深い関心を持っている一人ですが、とは言えキリスト教

 研究の専門家でもなく聖書研究においても素人です。

  ですから、米国のキリスト教に関しての私見は間違っているかも知れませんし、しかし、どう

 してキリスト教国家がこうなのか、疑問がついてまといます。そこで薄っぺらな内容になるかも

 知れませんが私なりに私見を述べてみたいと思います。

  世界のキリスト教信者は多くの宗派を合わせて現在20億人とされています。その内米国のキ

 リスト教信者はカトリック・プロテスタント合わせて人口の7割程と言われます。単純に計算し

 てみますと3億人の7割は2億余りとなりますが、恐らく1億6000万人程度かと思います。

 日本の人口を遙かに越えた人数。凄い人数かと思います。因みに日本のキリスト教信者は人口の

 1%でおよそ100万人強かと言われています。

  さて、キリスト教はそもそもイスラム教やユダヤ教と同じ根を持つ宗教で、一神教で、モーセ

 五書という旧約の世界をベースにしていますが、イエスの出現によってパウロを中心にした新約

 の世界に発展的に繋がっている宗教です。

  多くの人が旧約聖書を編纂し、新約聖書も何人もの人の手によって書かれていますので唯一神

 は貫かれているものの、考えや信仰の異なる様々なものが雑多に聖書には含まれています。

  そのあたりを大まかにとらえてみますと、旧約の世界は民族の救いが中心で新約は個人の救い

 が中心かと思います。しかし、それは極めて大まかなとらえ方で、雑多なものが含まれているだ

 けに解釈も沢山生まれ、それがキリスト教の多宗派に結びついているようです。

  米国を新天地として渡ったキリスト教徒は主にイギリス国教会の堕落に反発しカルビンの宗教

 改革に共鳴した人達(ピューリタン)と呼ばれるキリスト教徒達でした。彼らは言わば厳格な福

 音主義の信仰を持った人々でルターの「福音主義」にプラスして社会的ひろがりを考える集団で

 国教会の圧力から逃れるため新大陸に渡ったのですが、当初、ニューイングランドでの生活は、

 厳しい生活ものだったようです。しかし、そんな厳しい生活を支えたのは恐らく信仰だったでし

 ょう。

   しかし、新大陸に渡ったのは彼らだけではありませんでした。実は彼らよりも一足先にスペ

 インとフランスからも大陸進出があったのです。彼らは新大陸にカトリックを持ち込みました。

 米国には13の植民地が形成されていきますが、プロテスタントとカトリックは先住民開拓の道

 具とされる中、イギリス本国やフランス本国等々からの干渉や圧力が少ない中、特にプロテスタ

 ントに多宗派が生まれていくことになっていきます。

  その多宗派に共通するものがありました。それは「新大陸」を目指した彼らの思いです。その

 思いを支えたのが「神から与えられた新天地」としての新大陸でした。モーゼがユダヤの民を連

 シナイ半島の荒野をを彷徨い、ユダヤ民族の「乳と密のしたたる場所」「約束の地」カナン(地

 中海とヨルダン川と死海に囲まれた現イスラエル)に向かいますが、新大陸に渡った彼らにとっ

 て「新大陸」はまさしくその「約束の地」だったのです。

  それが米国のキリスト教を理解する上で大切な前提になっていると思っています。
   
    (続く)

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