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ここでかつて私のブログの書庫にある『イエスとともに』から再度、大学時代の私と母のことをここに再録したいと思います。と言うのも私にとって大学時代の母との思い出がとても大きく、忘れられないことだったからです。というのも大阪を離れて東京で学生生活を過ごす中で、いつもホームシックにかられ、長期休みに入ると母に会いたくて急ぎ帰省したからです。それが結婚をし、子供を持ち結婚生活にウエートが移る中で次第にそのホームシックも失せていき、帰省の機会もめっきり少なくなっていきました。
上が瓦粘土で作った母の胸像です。茶の間の卓袱台の上に台を据えて作りまた。
K
上が私の中学時代からの友人k君の胸像です。母の胸像と同じ年の夏休みに瓦粘土を使って作りました。
私が東京に出てきたのは高校を卒業して直ぐの18歳の春のことでした。私は兄弟五人の一番末っ子。親から見て末っ子ほど可愛いと言われますが、私も例外ではなかったようです。頭も悪く幼い頃から注意力散漫と先生から指摘され、だらしなく根気にも欠け、成績も思わしくなかった私。そして大学に入っても下宿代・授業料・生活費と親のスネをかじりにかじって・・。 そんないわば放蕩息子とでもいえる私を末っ子ゆえに両親は目を瞑ってくれたのです。特に母は私が可愛かったのだろうと思います。 高校受験の時は「美術高校」、大学受験の時は「東京の美大」と能力もない私の願いを聞き入れたのでした。幼い頃から愛情深い母が大好きでした。どんな時でも母が気がかりでした。 ですから少しでも母の手伝いをと幼い頃から率先してした私。日曜学校に通うことになったのもそなん母への愛情の繋がりからでした。 私が特に母の健康を気遣ったのは私が大学一年の時でした。祖母が「脳軟化症」になったのです。確か祖母が78歳の時だったかと思います。 母親の手紙に脳軟化症になってから、その看護の日々に追われ疲れ切った母の姿が浮かび。いてもたったもおれず、夏休みに入って飛ぶように故郷に帰ったのです。 帰ってみれば、祖母は私のことが誰なのか分かない状態の症状を呈していましてた。祖母は離れの六畳一間にいましたが、症状が進み糞尿は垂れ流しでした。毎朝、母と一緒にバケツに井戸水を汲むと、祖母の体についた糞尿を拭き、部屋の襖や畳に付いた糞尿を消毒液で洗い落としました。これが夏休暇の毎日の日課になりました。そして、つくづく母の看護の大変さを痛感したのです。私は何としてでも力にならなくてはいけないと思ったのでした。 その祖母が私の誕生日八月七日に亡くなりました。その日、朝の介護に疲れ、夏の暑い日、私と母がうとうと寝入っている時、祖母は私たちをおいて旅立ったのでした。 母との思い出で特に印象的だったのは祖母の介護と死ということもあってこの大学一年での夏休みでした。 さて、大学の四年間、春・夏・冬と、長期休暇での帰省の一番の楽しみは「母」と会えることでした。それだけに休暇を終えて東京に戻る日は逆に心が塞がりました。母がフラットホームまで送りに来てホームから之が今生のお別れとばかり涙ぐみ手を振り続ける母をみて、何か「恋人」としばしの別れの時を持つかのように胸が締め付けられような思いになったものでした。 東京行きの列車の中ではずっと胸が塞がったままだったのを覚えています。そのこともあってか下宿に戻った私は長い長い手紙を母にしたためたものでした。此の頃、私が愛読していた本に哲学者森有正の本がありました。「はるかなるノートルダム」「バビロンのながれのほとりにて」等々でした。それで森有正の日記風の手紙を書いたのです。それも出来るだけホームシックの気持ちを出すのは抑えてことさら芸術的・哲学的に書いたのです。文章はおのずとダラダラしたとりとめもないものになったのですが、母はガマンして読んでくれたのでした。 大学三年の時、帰郷した私は茶の間で大学生活や私が読んだ本の感想を話しながら母の胸像を作ったのです。故郷の友人K君と自転車に乗り町の外れにあった瓦屋まで瓦用の粘土を買い込んで作ったのです。母の「顔」の他、その友人「K」の胸像も作ったのです。 母はモデルになりながら私の話を嬉しそうに「うんうん」とうなづいて聞いてくれたのです。 そんな母の嬉しそうな姿を見ながら胸像を仕上げたのです。この写真が母の胸像と友人K君の胸像です。母との会話では「聞けわたづみの声」の感想や無教会の政池先生の集会の話し等々でしたが、その都度、母は涙ぐみながら、うなづきながら聞いてくれたのでした。この時の母の姿が今でも鮮明に思い出されてきます。大切な大切な私の母への思い出です。 |

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