稀有なる友人・原田義彦

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 私が大学時代に非常に個性的な魅力的な一人の人間と出会いました。彼は十数年来リーセントリーという手作り本を手掛け知人たちに送り続けました。その出づくり本たるや内容を含め素晴らしいものでした。残念なことにその彼が病魔に見舞われて今年(2017年)の九月に他界。寂しさは拭い切れません。今回、彼の手掛けた手作り本『リーセントリー』を紹介しながら彼との出会いの意味を連載という形で紹介してゆきたいと思います。
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⁺彼は10年ほど前から「リーセントリー」という手作り本形式の個人通信を不定期的に出すようになります。それまでの彼は若葉学園で広報活動に熱心だったようですが、殊の外視聴覚障害の子供達を通園施設では園長として年に何回か発行された『ふくろう通信』では彼の思いのたけを載せていたようで彼から送られてきた「第10号 ふくろう通信」は90頁程にも及ぶまとめられた通信で全頁にわたって彼の篤い思いが吐露されていて素晴らしい。
 その一ページには彼の思いが短詩として次のように掲載されています。

  わたしの心の中には
  ウォークマンを持ち歩いているわけではありませんが
  つねに 音楽があります
  道を歩いていても
  風の中に 木々はおどり
  雨の中に 雨だれが歌います音楽を
  わたしは それらと周波を一人に合わせます
  すると
  つねに 心に音楽を
  それが なんでもない人生を
             ゆたかにする秘訣です

 彼はとても感性豊かで讃美歌が好きでしたが、アイルランドの民謡等を含めてどうやら何時も口ずさんだり心の中で歌っていると思われます。また、無類の自然好きで富士山やアルプスの雄大な山々に心奪われ、道ばたに咲き乱れている草花を愛しく思い草花を見つけるとよくカメラのシャッターを切っていました。若き日の仲間の達との聖研の集いはそれをして自然の溢れた富士見(富士見駅は中央線の小淵沢の次です。)を「心の里」と呼ばしめたのでしょう。
 さて、ここでどうしても「リーセントリー」(近状報告という意味)という手作り本に触れておく必要があります。彼は76歳で亡くなるまでに90冊という膨大な量「リーセントリー」という手作り本を発行し続けました。
 一冊につき20人程の知人・仲間に送りました。まずは用紙を大きさにそろえて切る作業・原稿の打ち込み・写真の挿入・レイアウト・装丁・発送まで大変な作業が続きます。私も彼に誘発されて大きさがB5判の手作り本を何冊か手がけたことがありますが、結構な作業です。しかし、物づくりですからいったん始めたらそれに集中し充実感が疲労を補って余りあるものです。私の手元に送られてきにはた「リーセントリー」には内村鑑三・キリスト教に関係したもの・彼が生涯大好きだった映画・東北大震災・富士見の集い報告・旅行記・老いについて・入院体験記・大好きなビールについて・死について・時局につて・原発について等々多岐にわたります。

 彼は5年程前、癌に侵されます。病巣は肝臓でした。かなり大きな腫瘍になっているので、「すぐ入院して手術を!」と医者から強くすすめられたのですが、手術しても再発するケースも多く完治しない恐れもある、ということでその医者の勧めを彼は頑として断りました。絶対に手術はしない。という彼の決意でした。

 癌の宣告を受けても彼は意気消沈せず、逆に癌に抵抗するかのように何回も海外に出かけます。その旅行には奥様の洋子さんが何時も同行しました。まず彼はインドに向かいます。行先はインドのコルカタです。マザーテレサの活動の場所。「死を待つ人の家」のあるコルカタ。テレサの「息吹き」を感じるためです。そして次に嘗て訪れた絶滅収容所(アウシュビッツ)のあるポーランドへ。彼にとっていつも心の中の問題点として誰しもが持ちうる≪我が内なるアウシュビッツ≫を再確認するために・・・。海外の最後が彼の愛してやまなかった「イ二シュフリーの島」の詩を生んだ二度目のアイルランドへ。そして「らい療養所」の」ある瀬戸内の長島愛生園へ・・。ここで彼に内村鑑三の存在を知らしめた友人の父親「宮川糧」の素晴らしい働きを知ります。・旅の最後は九州の水俣。NHKのテレビ番組で知った石牟礼道子氏の水俣病を扱った名著「苦海浄土」。彼はその内容に衝撃を受け、水俣の慰霊祭の旅に出かけたのです。
 等々、死が宣告されてからこのように死に立ち向かうかの如く精力的に動き、それぞれを「リーセントリー」したためて知人・友人たちに送り続けた彼がいました。
 そして奇跡が起きます。なんと不思議や、肝臓の癌の数値が下がったのです。この知らせを受けてびっくり・・。しかし、したたかな癌は場所を変え下から喉頭へと場所を移していたのです。以前、浅川巧の足跡を訪ねて韓国に旅行した時、キムチが大変舌の沁むということに見舞われ、そこに徐々に癌が転移していたようで舌に出来た腫瘍は治らず医者から治療を受けた後さらにひどくなり食べ物を食べるのも苦痛となり昨年の九月家族に見守られながら天国へと旅立ったのです。
 こうして彼の人生を振り返ってみますと、若き日に彼の心を捉えて離さなかった内村鑑三の「後世への最大遺物」。(彼はこの本を数十回読んだとのことのとです。)彼は正しく《高尚なる勇ましい生涯》で生涯を閉じたと言えます。

 最後に今回のタイトルの「神の国はあなた方の只中にある」についてですが、このタイトルはルカ福音書の17章の21節に出てくるイエスの言った言葉です。マタイは神の国は天の国と置き換えていますが、神の国の方がピンときます。というのもこの場合の「神の国」とは「神の支配」ということで、マルコ福音書の1章の15節〈時は満ちた。神の国は近くなった。悔い改めて福音を信ぜよ。〉と合わせて読みますと天ではなく神とした方がよりこの言葉の意味するものが見えてくるような気がします。ルカ福音書のこの節の前後をみますと、この箇所は救いと終末に関して「今こそ神の国に目覚めろ」というルカの救済史観が出ているともみてとれます。コンツルマンの著書に「時の中心」というルカ福音書と使徒行伝を扱った本がありますが、その著書で「時の中心点」とはイエスの働きである。それは、律法と預言者との古い秩序と、キリストの再臨によって終わりを告げる教会時代との間に立っている。イエスは古い秩序の終わりであると同時に、新しい秩序の初めである。と論じています。ルカは救済史観はこれを重ねてみますと、「救済の歴史の只中にイエスがいる」。パウロがそれを説いたということになるかと思います。その意味ではここに出てくる「只中」はそういう救済史観を指しているのかもしれませんが教会では牧師は「只中」は多くは信者の集う教会としています。しかし、私のような教会にも集会にも属さない者からみますとこれは個人一人一人の心の中のことだと思ってしまうのです。原田君は本田哲郎神父の言葉を例に挙げ「小さくされた者へのまなざしが信仰である」マザーテレサの「弱きもの・貧しきもの・病んでいる者」も「小さくされた者」であり、それらに対し注ぐ視線こそ信仰とし、宮川君の父君の宮川糧や、シュバイツァーや中村哲やネパール医師の岩村昇等々、主にあって献身的に生きた人々を挙げています。
 彼は内村鑑三から「楕円の真理」と「独立心」と信仰を学んだ彼は内村に始まり内村に終わると思えるほど強い影響を受けたが本田哲郎神父やマザーテレサ等のカトリック関係方々・20年余り通った教会そして、児童文学者で詩人で小学校の教科書にも載っている仏教徒の野呂奘氏とは夫婦共々三十年余りにわたって親交を温めることが出来たのは宗派・宗教に拘らない彼の信仰・・。それは真に生きる人々に「神」を見からだと思うのです。

    イエスは言う「あなた方こそ神の国の只中にいる」と・・。

   
  

  

  


 さて大学時代、私と原田君は内村鑑三を話題の中心に学生生活を過ごしましたが、彼は大学の四年生の時、絵の道を断念します。それには次のようなことが発端となりました。大学での絵画の教授の絵の評価がその発端でした。絵画科の学生たちは毎日、大学のアトリエに通い与えられたテーマを制作するのですが、そのアトリエに毎日のように遅れて登校してくる学生群がいるのですが彼らは彼から見てまるでいい加減に作品を仕上げ、その作品に対して高い評価がされる。一方、朝早くから大学のアトリエに登校し丁寧に真剣に、そして一生懸命仕上げた彼の作品に低い評価がされる。そんな評価に彼は我慢できず、ついにある日、自分の作品を抱えて大学教授の家まで押しかけ抗議することになります。
 武蔵野美大は、その前進を帝国美術学校といい、その後デザインに軸足を置いたのが多摩美術大学へと、絵画に軸足を置いたのが武蔵野美術学校へと変遷、その後武蔵野美術大学へと発展していくことになるのですが、武蔵野美大は、そもそも芸大のアカデミックに対抗する野武士的野心的画風を柱としていたのでどちらかと言えば丁寧でアカデミックな作風に対しては評価が低かったのです。
 彼は、この大学の姿勢に躓き絵画の道を断念します。そして内村鑑三が夫婦生活に躓き、新しい自分を求めるため日本を離れ渡米してペンシルバニアの州立知的障害の病院で一時期献身的懸命に働きますが、内村に強く憧れていた彼は内村のように社会施設で働こうと思ったのでしょうか。彼は社会事業大学の前身である社会事業学校を大学卒業時に合わせて受験することになります。一方私ですが、東京芸大の最終の三次テストで不合格となり受験できるのが武蔵野美大では彫刻科しかなく止む無く彫刻を選んでしまったのですが、私にとって彫刻にはどちらかと言えば自信が持てませんでした。その上、いつも原田君に「金魚の糞」ごとくついてまわっていました私です。二人の関係は彼がとするならば私が軟という関係でしたでしょうか。彼が話役とすれば私は聞き役・・。強く彼に惹かれて「金魚の糞」であった私は彼に倣い社会事業学校を受けることになります。そのための理由付けとして私は、本格的に芸術の道を歩むのではなく社会事業学校に入ってケースワーカの資格をとって将来的には社会施設で子供たちに絵を教えようと考えたのです。しかし、皮肉なことに社会事業学校に「金魚の糞」のようについて行った私が合格し、原田君は不合格になったのです。ということで肝心の原田君がいないことで私の自信が揺らぎ両親に相談した結果、経済的に安定していているし、対象が生徒ということである私立学校の中高の美術教師の道を歩むことを決断することになります。大学卒業後、一度だけ彼から北海道から葉書が届きます。教育実習の報告でした。彼はキリスト教系の北海道家庭学校に入り教育実習をしていたのです。
「今、教育実習で北海道にいる。満天の星空。素晴らしい!」
といった内容でした。その後、一度上野で複数の仲間と一緒に彼と会いますか、そこで彼は家庭学校での様子や子供たちと接する大変さをはなしてくれました。彼はどちらかと言えば口下手・決して八方美人にならず人に諂うことはしませんでした。そんな彼は職場では人間関係に躓くことが多く自然とビールを嗜む機会が多くなったかと推察します。彼は人との接点を大切にするかのように手紙をまめに出し、自分の気持ちを文章で書き表す人でした。そんな彼の性格はゴッホの生き方・性格に強く惹かれる要因となったのでしょう。さて、大学卒業後一回上野で会ったきり、それ以降彼との長い音信不通となりました。私は私立高校のクラス経営と美術授業にいそしむことになり、原田君は家庭学校でを経て教護学校でで子供たちの自立に向かって指導に専念することになります。これを期して互いに私が転居したせいもあってか、音信不通となります。音信不通は40数年間にわたります。
 この40数年の音信不通での彼の活躍は奥様にお願いしてお手紙で送って頂きました。それを参考に書き出しますと彼の経歴は次のようです。

 昭和42年 北海道家庭学校へ
        国立武蔵野学園 九州教護養成所 入学
        一年後 
        神戸市立若葉学園 教護として採用
        パルモア学院で英語を学ぶ(この間、奥様洋子さんと知り合  い結婚。
 昭和49年 洋子さんは若葉学園教母として採用 小中生の寮を担当
        彼は自由主義教育者のニールに心頭。イギリス留学を目指しパルモア学院に入学。やがて当院で奥様と知り合い結婚。
 昭和56年 奥様は不自由な若葉学園の教育姿勢に馴染めず他の部署 に転勤。 原田君は院内の職業指導と広報活動に専念。 
 平成に入って 彼は聴覚障害児童施設の園長へ 3年間園長に従事
           その後神戸生田川同和地区の文化会館の館長へ
         教会に通う中、記念誌の発行を仕事を引き受けてくれと牧尊敬していた牧師より懇願され意を決して定年より三年早く館長を辞して退職。「日本伝導隊100年史」の編集に専念した。
         その後牧師が死去。牧師の任につかれた牧師の奥様にたいしての扱い等からくる教会姿勢に不信。教会を辞任。これを機に夫人洋子さんも教会を辞した。

 その後、彼より一通の手紙が届きます。それは「富士見の集い」をもちたい、という案内でした。これを機に途絶えていた交流が再開したのです。お互いに猛烈な勢いで手紙の交換が始まります。今から8年前のことです。
 それまで長年音信が途絶えていた私と原田君。美術の授業の折り、よく生徒たちに「友達は人生にとって宝だ。」という話をし、その時はきまって大学時代に出会った友人原田君について語ったものでした。それ程彼が私に残した印象は強かったのでした。音信の途絶えた期間があまりにも長かったので、彼は故郷の淡路島に戻ったか、ひょっとして亡くなったかなっと思ったりしたこともありました。
 それが8年前、「富士見の集い」という突然の案内が彼から飛び込んできたのです。腰を抜かさんばかりの驚きと喜び・・。ほどなく清里の清泉寮のコテージで大学時代の聖研仲間と再会し彼とも再会することになるのですが、この間一通の手紙から彼との間に40数年の空白を埋めようとばかり夥しい手紙のやり取りが始まりました。ここに持ってきましたが、ハガキと封書合わせて8年間で二百通余り。おおよそ一年間で25通余りの手紙交換でしょうか。これらの手紙が私にとっては半世紀前の友とのふれあいという青春のひと時が蘇った手紙交換となりました。

  清里に集った武蔵美の聖研仲間。清水多嘉志記念館前にて 
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   仲間とのコテージでの団らんのひととき(右端が原田君)
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          清泉寮での食事風景(右端が原田君)
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トウモロコシ畑での仲間。みんな輝いている。
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私たちの大学に有志によってサークルが出来ました。「聖書研究会」という小さなサークルです。サークルには顧問が必要ということで当時大学の学長をし文化史を受け持っていた名取教授に名前だけをお借りし発足。そこに20名近い学生が集いました。集った仲間はとてもまじめな仲間ばかり。指導者がいないので週一の会合では当番制とし聖書の箇所を分担し発表する形をとりました。小さなサークルでしたが、大学祭時にはサークル仲間の働きでクリスチャンで文芸評論家として有名だった佐古純一郎を招待し弁論大会を兼ねて活発な討論会を開いたりしました。さて、文章好きな私はもう一つサークルに入っていました。「文芸部」でした。このサークルは聖研とはまるで違ってその頃流行していた実存主義に色濃く染まる仲間たちで、よく喫茶店で口角泡を飛ばしてタバコをふかして語り合ったものでした。小椋佳の詩に≪♪肩張って人を責めて、限りない人のたたずまい〜♪≫がありますが、とにかく相手の考えを論破することに快感を感じることの多いサークルでした。

     佐古純一郎氏を招いての討論会(氏は中央後方)
イメージ 2 聖研はとにかくまじめで謙虚な仲間達でした。そんな中でサークルのメイン行事は夏季休暇中に実施した合宿でした。第一回は中央線の富士見にあった名取教授の別荘(生家)で二泊三日で行いました。学生だけで指導者のいない合宿はもっぱら聖書を読むか讃美歌を歌ったり富士見の美しい自然を散策することでした。散策ではトウモロコシ畑で写真(トップの写真)をとったり川べり歩いたり、地元の子供達と触れ合ったりしましたが、この合宿が原田君の心を捉え、その後も場所を代えて合宿を行いましたがこの富士見の自然は彼の≪心の里≫となりました。彼はその後、聖研仲間のI君を誘って毎年のように富士見から信州へと旅に出かけることになります。(この間はお互いに音信不通の期間)彼の心を捉えて離さなかった理由に自然の素晴らしさのほかに富士見で出会った村の純な子供達にあったようです。東京に戻った彼は私にこんなことを言いました。内村鑑三の「後世への最大遺物」を手書きで全部写し取り子供たちに送るのだ。」と・・・。「後世への最大遺物」は彼が初めて読んだ内村34歳の時芦ノ湖で行った集会で講演したものを書籍化したもので内村の多くの著作の中で最も広く読まれているもので後年行った講演「デンマルク國の話」とともに文庫化されていることは先にも書きました。この「後世への最大遺物」で内村は後世を少しでも良くするために「お金」もよし「事業」でもよし「思想」でも良いけれどそれは誰にも出来ることではない。しかし、そのいずれも出来ない場合、誰にでも出来ることがある。「それは高尚な勇ましい生涯だ」というのです。原田君は「高尚な勇ましい生涯」という内村の逆転の発想に惹かれ、このことを村の子供たちに伝えたかったのでしょうし、彼の人生も正しくこの言葉にピッタリの生涯だったと思います。また、彼は「後世への最大遺物」の他「デンマルク国の話」は資源の無い不毛の土地を抱えた国にダルカスが悪戦苦闘の末、樅ノ木を植樹することで緑の国に変えたこの物語にも深く感動し、朝鮮に渡って植樹に励んだ浅川巧兄弟と当地の白磁を見に数年前韓国に旅行することになります。原田君は、そのほか「キリスト教問答」「流竄録」「余は如何にしてキリスト信徒になりしか」等々次々と内村の著書を読む中で内村の世界に魅了されていきます。そんな折、私は彼と出会い、頻繁に彼の下宿まで押しかけて内村談義に花を咲かせたのです。当時、私に原田君はキリスト教ではなく内村教と思わせた程でした。後で知ったのですが彼と私では器の大きさが異なりますが、彼と私には内村鑑三の他、幾つもの共通するものがありました。一つは、二人とも物づくりが好きで物書きが好きだったこと。そして共に画家ゴッホが大好きでだったことです。彼がゴッホが好きだったことてのエピソートとして大学時代、工事現場で彼と共に土方を体験したことがあります。それは彼はなりよりも小林秀雄編集の高価な「ゴッホの手紙」を手に入れるためでした。もう一つの共通は、音信不通の期間たまたま私も彼もイギリスで自由主義教育のサマーヒ・スクールの創設者のニールに憧れてその考えを彼は施設で私は学校でのクラス経営や相談室の活動等に大いに活かしたことでした。またこれは余談ですが、私も彼も子供は三人。彼は女の子、私は男の子(笑い)
 
  


   人は生きていく中で様々な人と出会い、様々な影響を受けていくものです。私の半生を振り返ってみてもそうです。私の場合、幾つもの素晴らしい人との出会いがありました。その一つ一つが私の大切なものを育んで今に至っているを感じます。今日お話しする友人・原田義彦氏もその一人です。と言ってもこの友人とは親しく付き合ったのは大学の四年間。私が大学を卒業してから会ったのは一回。その後、後でお話ししますが互いに別々の道を進む中で音信不通となり、その音信不通の期間が40年程にもわたりました。ですから彼の人生を語るには私はふさわしくないかもしれません。今日都合に参加出来なかった私の仲間の一人に三十数年間、毎年彼と彼の家族と信州に旅に出た仲間がいます。原田義彦氏を語るには私よりずっとふさわしいと思います。しかし、触れ合いは回数ではなく密度かと思っていますので大学時代の彼との触れ合った密度と40数年経って再開してからの彼との文通を通しての触れ合いの密度の濃さを通して彼の人生を語る資格が自分にもあると思い、厚かましくも今日ここに立った次第です。加えて彼との空白の歳月について彼の奥様から詳しい彼の足跡を書いて送って下さったのでそれを参考にしたいと思います。さて、彼に関してはおいおい触れていくこととして、まずは人生の友ともいうべき出会いに関して振り返ってみますと、思いは中学時代にさかのぼります。一年生から二年生に学年が上がるときクラス替えがありました。その時出会った友人と新しいクラスで私の座席に座った生徒と隣り合わせたこともあり急速に親しくなりました。昼食時この友人は折りたたみのアルミの弁当箱にちらし寿司を詰めてくることが何回かあり、当初彼は寿司屋の息子だと思ったものでした。帰る方向が同じだったので学校から家まで20分程の道のりを何時も談笑しながら帰りましたが、その彼の家は実は寿司屋とは縁もゆかりもない天理教の教会でした。これには驚ぎましたが、お互い文章を書くのが好きで下手な小説等を書き、もう一人の仲間を加え、小説家のタマゴと自分たちを見立て「3つのタマゴ」と称していました。殊の外、彼の天理教会とは家も近くお互いに行き交うことも多くなりました。特に高校に上がってからは通う高校が違うこともあり春休み・夏休み・冬休み等はまるで恋人に会うかのように互いに連絡を取り合って毎日のように互いの家の中間程にあった幼稚園で落ち合い、幼稚園のブランコに乗って夕方から夜にかけて語り合ったものでした。彼の家は天理教。私の家はキリスト教・・。そんなこともあって自然《人生は如何にして生きるか》という当時の高校生としては肩肘張った話題ばかりでした。
 さて、私はやがて東京の武蔵野美大に進むことになりますが、武蔵野美大は今でこそ立派な校舎が立ち並ぶ大学となっていますが、当時のこの大学は創立間もない大学で、武蔵野の平原に一棟を除いて平屋の校舎が立ち並び冬場が空っ風が校舎からグランドに吹きすさび寒々とした大学の景観でした。元々武蔵美は美校時代から芸大のアカデミックな校風に対し、野武士的な校風を旨とする校風でした。
 この創立間もない大学に聖書研究会というサークルが一部有志により出来て十数名の学生が集いました。サークルの顧問が大学の学長(文化史専攻)に名前だけお借りし、牧師等も置かず仲間だけの集いのサークルでした。このサークルで出会ったのがここで紹介する原田義彦という多少小柄で目の鋭い今でいうイケメン男。この友がその後、私にとっては無二の親友ともいえる程人間関係が深まります。その関係を深めたのは私と原田君との共通の世界とも言えた内村鑑三でした。私は家族からの影響で無教会を知り内村鑑三を知りました。
 彼が内村鑑三に強く惹かれたのは彼の手作り本「リーセントリー」等から推察しますと次のような経緯からだったかと思います。
 彼は淡路島の生まれでここで少年期を過ごしますが、ある夜自分の部屋でウトウトしていると、とても美しい歌声が流れてきました。思わず外を見るとロウソクを手にした人たちが讃美歌を歌っていたのです。その日はクリスマス・イブで歌っていたのはキリスト教の教会の人達でした。彼の母親が教会に通っていたこともあってのことでした。しかしこれが初めて彼がキリスト教の世界に触れた時だったようです。翌日、母親に「これからは教会に通う。」と宣言し彼は熱心に地元の教会に通うようになります。彼は何人も友達を誘い彼自身キリストの誕生劇のシナリオを書いたりして教会は活気に溢れていたようです。しかし、絵心があり絵の世界に行きたいと願っていた彼はやがて故郷を後にします。この時は港に多くの教会の仲間が見送りにきてくれて彼にとっては感動的な出来事でした。
 大学時代の原田氏(左から二人目 *お断り・・映像が不鮮明)
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向かった先は東京でした。その上京の車中、たまたま一緒に上京する仲間がいて宗教談義となりましたが、仲間から「どうしてキリスト教など信じるのか。アダムとイブが人類の祖先など本気に信じているのか。矛盾だらけだろ!」と問い詰められ彼は「聖書に書いてあるから信じている。」と答えたものの仲間からの激しい問いかけに彼は歯ぎしりをしたようです。その時の悔しさは東京に出てからも続いていたのですが、阿佐ヶ谷の美術学園で絵を本格的に学ぶ中、当時、山形のキリスト教独立学園を卒業しこの阿佐ヶ谷美術学園で絵を学ぶ宮川という友人と出会います。その彼から紹介されたのが「内村鑑三」でした。彼は心の中に蟠っていた悔しさから解放されるべく内村鑑三の世界にのめり込んでいきます。まず彼の心を話さなかったものは内村が三十代の時夏期学校で語った『後世の最大遺物』だったようです。この講演はその後冊子としてまとめられますが、私の手元にあるのは皆さんも良くご存じのように今もってキリスト教に関わらず仏教徒にもその他の人々にも広く読まれているもので作家の亀井勝一郎が内村が60代に執筆した『デンマルク國の話』と合わせて編集し新潮社から出版されて再版を重ねている文庫本です。
  下に載せた写真は 通信を兼ねて手作りで作り続けてきた私の大学時代からの友人・原田義彦君の『RECENTLY』と言う手つくり本の最終号 です。表題からして【最近・近頃】という意味のようですが、むしろ「ご機嫌如何ですか。新しくこんな本を作りました。お読みください。」という意味かと思います。この本の大きさは下の写真のように手のひらに乗る程の大きさ。彼はこの手作り本の文章をパソコンで起こし、印刷用の紙をカッターで少しずつ裁断。それをプリンターにかけて印刷する。最後に残るのは製本ですが、彼は時に応じて写真をページに折りたたんで挿入。またそこに読みやすいように≪しおり≫をつける。大変な作業だけど彼はこれを一冊ずつ制作する。部数は毎回20部程で友人や知人に送付する。それを何と90回もやり遂げたのだから凄いの一語に尽きる。私も彼に誘発されて今までA5・B5判の大きさを5〜6冊ほど作ったことがありましたが、物作りに関心ある者には結構楽しい作業ですが、しかし、そうなればそうなる程手を抜かず細かなところまで神経を使い作りたくなるものです。彼の手作り本は正しくそのような本でした。彼は昨年9月癌で他界しましたが、彼には念願であるコツコツと仕事に取り組む人間像を描いた【コツコツ人間シリーズ】というタイトルの手作り本を仕上げたい思いがあり、今回前編で終わった【内村鑑三】も正しくそうだったかと思います。
 ちなみにこの90号の目次は
  巻頭詩
  今号の一句
  私は神を信じる「神のイメージ」
  死生観問答「死ねば終わりか」
  独りコツコツ物語「内村鑑三 前編」
  私の好きな歌「マイ・ウエイ」
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となっています。表紙は彼自身のコツコツ地面を掘る姿・・。

  90号からの彼の言葉から

  【後記】

  一時、舌の急速な悪化に伴い、もうこの号をもって終刊号なるかと覚

悟を決めたこともありましたが、何とかお届けできて幸いです。さて、その

次は?・・・それは自分でも全く予測が立ちません。末期的な処方箋で、痛

引くのを見計らって睡魔に襲われる前にササッと作業を進めました。『マ

ザーテレサ・北インドの旅』は残念ながら、体力不足につき断念せざるを

得なくなりました。ご寛恕ください。内村鑑三については書くことが多すぎ

て、前後編の二部に分ける方法をとりました。かくて毎号が真剣勝負、続

けられるまで継続するのみです。

 毎号ゲラ刷りができると、必ず家内に目を通してもらうのですが、今回

も読後感を聞きました。「少しは心に響くかな」と。すると、家内いわく、

「命をかけているのでしょ」と。少しオーバーとは思いつつも、よく考えて

みれば、まさに家内の言う通りなのです。

 「どうせ死ぬなら癌がいい」というタイトルの本がありました。今の私の

境遇がまさにそれです。この場に及んで、思う存分したいことに打ち込め

ているというのは何たるしあわせでしょう。それもいまでしか書けない思

いのたけを綴っているのですから。

 不思議に耐えないのは、終わりが近づいていることを実感しながらも、

たましいの働きはまだ活発で、誰から命じられたのでもないのに、やりか

けているライフワークを最後までやれと命じる声が聞こえるのです。多

分、これはたましいの声ではないかと思います。刻一刻、これから身体が

生物学的にたどる経緯と、朽ち逝く肉体に留まって活動するたましいが

織りなす共同作業、それを観察できる生涯に一度切りのチャンス…そう

思えば命の神秘への興味も尽きません。「独りコツコツ物語」あと三回分

あれば完結できます。死生観問答も三回あれば足ります。ああ主よ、どう

か我が願いをお聞き届け下さい。しかしすべては御心のままに・・・と、そ

んな心境を祈ることがごとく呟きつつ今回は上記まで。さようなら。第76

回目の誕生日を迎えて。



           かたてに乗ったリーセントリー
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      この表紙は地面をコツコツ掘り植樹する彼自身です。
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