松尾光太郎 de 海馬之玄関ブログ

大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた「戦後民主主義→リベラル派」を果敢に批判します

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新党ブームの愚を繰り返すな 

 小池百合子が総選挙直前に「希望の党」をつくった。
いまマスメディアは視聴率を稼ぐために小池ブームの再来と騒いでいる。
しかし、安倍首相は「1990年代の新党ブームの再来だ」と切り捨てた。
2009年の民主党ブームと同様に政治の混乱と低迷を生んだだけだというのだ。

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安倍首相
「1990年代に "新党ブーム" が起こった。そして2009年 民主党ブームが起こった。それがもたらしたものは何か。それは混乱と政治の低迷でありました」


同様な指摘を脳科学者で「サイコパス」の著者・中野信子氏が指摘していた。
(中野氏は最近化粧が少し濃くなってきたせいか、以前に比べて清純な雰囲気が失われたのは残念だが、隣のコメンテーターがコメントしている間、じっとその発言者の顔を見ている所が特徴的だ)

テレ朝「ワイド!スクランブル」(2017/9/27)

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中野信子
「(小池百合子の)『日本をリセットする』という言葉の中に日本新党を思わせるので、
ある種の成功体験に裏打ちされた出発なんだろうなと予測してしまう。本当にリセットになるのかとやや疑念が生ずる」


更に驚いたことに、続けて小池百合子はサイコパスだと指摘した。

中野
「角谷(浩一)さんと控え室で話してたんですけども、『(小池百合子は)女性に珍しいサイコパスですね
』ということで。
そんな人だろうと思うんですけど。
細川(隆三)デスクは公明党の支持層も激怒していると仰ったんですけど、都議会議員選挙の時から一番弱いところの都民ファーストが2人も候補者を出したということで特に(公明党の)婦人部層が怒りを感じているという所があったんですね。
それが、
『ああやっぱりこの人は最初から私達を騙す積りだったんだ』とうことがメセージとして伝わってきましたね。そこをどうして行くんだろうなと思います」
(中野信子 脳科学者)

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サイコパスとは何か。
中野氏の著書から引用する。


はじめに 脳科学が明らかにする「あなたの隣のサイコパス」

 ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。
ウソが完全に暴かれ、衆目に晒されても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。
それどころか、「自分は不当に非難されている被害者」「悲劇の渦中にあるヒロイン」であるかのように振る舞いさえする。
 残虐な殺人や悪辣な詐欺事件をおかしたにもかかわらず、まったく反省の色を見せない。
そればかりか、自己の正当性を主張する手記などを世間に公表する。
 外見は魅力的で社交的。トークやプレゼンテーションも立て板に水で、抜群に面白い。
だが、関わった人はみな騙され、不幸のどん底に突き落とされる。性的に奔放であるため、色恋沙汰のトラブルも絶えない。
 経歴を詐称する。過去に語った内容とまるで違うことを平気で主張する。矛盾を指摘されても「断じてそんなことは言っていません」と、涼しい顔で言い張る。

ー 昨今、こうした人物が世間を騒がせています。
 見過ごせないのは、この種の人間を擁護する人が少なくないことです。
 「彼/彼女は騙されてああなってしまったのだ」
 「けっして悪い人じゃない。むしろとても魅力的だ」
 といった好意的な反応が、テレビのコメンテーターから一般の方まで、少なからず出てくるのです。時には「信者」であるかのような崇敬を示す人までいます。
 そうした人たちは、きっと知らないのでしょう。
彼/彼女らが、高い確率で「サイコパス」だということを。


(引用終わり)

元民進党の蓮舫やゲスリーヌ山尾の顔が目に浮かぶ。

ところでTBS「Nスタ」がまた放送事故を起こした。
前原民主党代表が希望の党との合流を発表している場面で、強制性交傷害の疑いでモンゴル国籍の男が捕まったという字幕が流れた。
それがまるで前原氏がその容疑者であるかのように映ってしまった。

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上貴博(MC)がしばらくして訂正謝罪したが、後の祭り。

TBSは「News23」で安倍首相が滔々と持論を述べているところを、ディレクターから「2人でモリカケ!」と2人のサブキャスターに指令を出したのを、たまたま星 浩(キャスター)がイアホンを耳から外していたために、漏れ聞こえてしまったという放送事故があったばかりだ。
この時、2人のサブキャスターがディレクターからの指示に従って慌てて安倍首相の発言を片手で抑える映像は過去記事でご紹介したとおりだ。


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既存メディアの偏向報道やフェイクニュース、報道しない自由は新しいネットディアの監視人に次々と摘発されている。
舐めたらあかんぜよ!

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小池百合子に総理大臣の資格なし
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転載元転載元: 反日勢力を斬る(2)

ノイホイやよしりんのお仲間か

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古谷経衡は「ネット右翼」で飯を食う若手評論家である。
その古谷が「現代ビジネス」に
⇒「『ネット右翼』は日本に何万人いるのかを測る、ひとつの試み 彼らの職業、年齢構成は?」 と書いている。

ネット右翼をどう定義しているのか論者の主張を読んだことが無いので知らないが、無駄な調査とである。
古谷は・・・


「『ネットで差別的な言動を取るネット右翼の正体は、無知文盲の低学歴・低収入の貧困層である』という風説は明白な嘘であり、大都市部に住むアラフォーの中産階級だ」

とあちこちで書いているが、これはある意味正しいだろう。

「朝鮮人を日本から追い出そう」「シナの工作員がテレビ局に入り込んで反日工作に勤しんでいます」などの、差別発言やトンデモ・陰謀論を開陳するネット右翼の中には、医者、税理士、中小企業経営者、個人事業者、不動産業、会計士、学校教員、地方公務員など、社会的に相応の立場にある人々がなんと多かったことだろうか。

政治学者・
丸山眞男を引き合いに出しているだけで古谷の思想的根拠はアウトだが、最近のテレビメディアの安倍首相打倒レイドバトルを見ると、「シナの工作員がテレビ局に入り込んでいる」というのもあながち妄想とも言えないのである。

(注)レイドバトルとはポケモンGOのゲームで、モンスターが現れたジムにゲーマーが一斉に集まり協力して奇襲(レイド)してモンスターを倒すことをいう。
安倍政権は戦後利得権者にとっては戦後最大のモンスターであり、それを倒すために朝日、毎日、東京、テレ朝、TBS、NHKなどがメディアスクラムを組んで対抗するのに似ている。


「元共同通信記者の青山繁晴氏は、ネット右翼から圧倒的な支持を集める保守系言論人・文化人の筆頭格に位置づけられる」

「ネット右翼からの批判を恐れて口をつぐむ者がいるとすれば、彼らの実数を不当に過大評価しているからである。実際には、日本のネット人口をざっと1億人とすれば、残り9800万人はネット右翼ではないのだから、何ら恐れる必要はないのである

古谷経衡は左翼でも右翼でもない、ど真ん中を忘れてはいないか。
右だの左だのと言うからにはど真ん中の中心軸が存在するから言えるのである。

ネット右翼は低収入、低学歴というのは間違いだというが、「朝鮮人は殺せ!」とか「日本から出て行け!」と叫ぶのは間違いなくその定義に属する稚拙なネット右翼である。

しかし、古谷はネットブログの政治カテゴリーで上位を占める諸兄をネット右翼のカテゴリーに入れるという間違いを犯している。
かく言う自分も小者のはしくれながら真性保守であると自負している。

戦後の平和民主主義を信奉し、暴発間近い北朝鮮の脅威から目を逸らす現在の日本のマスメディアは完全に左傾化している。
その執拗な安倍潰しは日本の国益を間違いなく失うものである。

安倍政権のうちに憲法を改正し自衛隊を軍隊に格上げして認定しなければならない、

安倍首相は経済を立て直したアベノミクスとは別にそのための布石を打ってきた。

防衛庁を防衛省に格上げし、憲法96条の改正で憲法改正への道筋をつけた。
一方では日本版NSC(国家安全保障会議)を新設し国内外の有事に備えた。
また野党の反対を押し切って特定秘密保護法や安保関連法案、テロ準備罪などを成立させた。

安倍政権のうちに為すべきことを為さなければならない。
次の政権が岸田政権になろうと石破政権(あり得ないが)になろうとも絶対に不可能である。

では右でも左でもないど真ん中の真正保守とは何か。
日本の歴と伝統を守り後世に引き継ぐというのが真正保守の目的である。

まず最初に為すべきことは現行憲法が謳っている間違った戦後民主主義の否定である。
戦勝国のアメリカに作ってもらった現行憲法の否定である。
そういう意味では「保守」というより「革新」と言う方が正しいかもしれない。

安倍首相はそれを「戦後レジームからの脱却」と表現した。
あの時は目の前がパッと明るくなった気がした。
しかし戦後利得者達の抵抗は凄まじく、いまでもそれは続いている。

最近極端になった既成メディアの安倍潰しスクラムがその一例である。
真正保守派はそれに対し怒りを持って反対している。

戦後左翼の元祖・丸山眞男を信奉しているらしい古谷経衡にとっては自分を中心軸に置けば、あとはネット右翼しか見えないのである。
ネット右翼の数は知れたもの、怖れるに足りないと言うが、フェイクニュースを流し、無知蒙昧な国民を誘導する既成メディアと闘う真性保守の力を見るがよい。

古谷経衡は金になれば何でも書くノイホイこと菅野 完や変節したヨシリンこと小林よしのりとお仲間だと考えれば分かりやすい。
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転載元転載元: 反日勢力を斬る(2)

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>国際社会

例えば、朝日新聞はその社説(2017年1月21日)
でこう述べています(下線はKABUによるもの)。

◆トランプ氏と世界 自由社会の秩序を守れ
「自由な選挙、言論や信教の自由、政治的抑圧からの自由」
戦争の惨禍の記憶も鮮明な1947年3月、トルーマン米大統領は議会演説で、米国が守るべき価値観を挙げ、宣言した。

「自由な人々の抵抗を支援する。それこそ米国の政策だ」
「共産主義封じ込め」をうたったトルーマン・ドクトリンである。・・・

いらい米国は自由や民主主義の「守護者」としての求心力を強めていく。同盟関係が結ばれ、米国を軸とした国際秩序が築かれた。それから70年。新大統領のドナルド・トランプ氏は「アメリカ・ファースト(米国第一主義)」を掲げている。「偉大な米国の復活」は、国際秩序と一線を画す孤立主義への回帰なのか。大国としての責任を担い続ける覚悟はあるのか。しっかりと見極めたい。・・・

■あやうい取引の政治
実業家としての経験からトランプ氏は取引(ディール)の巧者を自負する。かけひきを駆使し、手の内を明かさず、相手を出し抜く。だが外交交渉は、商取引とは別物だ。自国の最大利益が目標だとしても、相手国への配慮や、国際社会の一員として守るべき原則を尊重する姿勢が欠かせない。懸念すべきは、トランプ氏が普遍的な理念や原則まで、交渉を有利に進める「取引材料」と扱いかねないことだ。・・・

だが、共通の利益で長年結ばれてきたパートナー【離脱を決めた英国以外のEU諸国】を軽んじる姿勢は、米国が築き上げてきた国際秩序への自傷行為にほかならない。長い目で見れば、米国の利益を損なうことをトランプ氏は悟らねばならない。・・・

■民主主義を立て直す
一方、国際合意や歴史的経緯への認識を欠く言葉は、すでに世界に混乱を広げている。「一つの中国」を疑問視するトランプ氏の発言に対する中国の反発の矛先は、米国より先に台湾に向かう恐れがある。疑心暗鬼は予期せぬ過剰反応を誘発する。・・・

いま一度、思い起こしたい。金融業界との癒着やロビイストの影響力にまみれたエリート政治の打破こそ、有権者がトランプ氏にかけた期待ではなかったか。政界アウトサイダーとしての改革をめざすのならば、政治扇動の発信よりも、分け隔てない国民各層との対話で分断の克服に努めるべきだろう。・・・

偏見や対立をあおる虚言を排し、多様で寛容な言論空間を再生するのはメディアや市民社会の役目だ。トランプ氏の米国が孤立主義の殻に閉じこもらないよう、同盟国や友好国は今こそ関与を強める必要がある。民主主義と自由の価値観の担い手として、日本が果たせる役割も大きい。自由社会の秩序をどう守り育てていくか。米国に任せきりにせず、国際社会が能動的にかかわる覚悟が問われている。(引用終了)


本稿は学術的な考察を行おうとするものではありませんので、議論を先にすすめるべく、
一応、間違いではないよなと感じたWikiの記事をコピペしておきます(下線はKABUによるもの)。

▼International community
The international community is a phrase used in geopolitics and international relations to refer to a broad group of people and governments of the world. The term is typically used to imply the existence of a common point of view towards such matters as specific issues of human rights. Activists, politicians, and commentators often use the term in calling for action to be taken; e.g., action against what is in their opinion political repression in a target country.

The term is commonly used to imply legitimacy and consensus for a point of view on a disputed issue; e.g., to enhance the credibility of a majority vote in the United Nations General Assembly.

Criticism
Noam Chomsky alleges that the use of the term is used to refer to the United States and its allies and client states, as well as allies in the media of those states. The scholar and academic Martin Jacques says: "We all know what is meant by the term 'international community', don't we? It's the west, of course, nothing more, nothing less. Using the term 'international community' is a way of dignifying the west, of globalising it, of making it sound more respectable, more neutral and high-faluting."Chomsky alleges that the phrase international community really means the U.S. government, which is even more of a limited scope than the Western Hemisphere and the United States of America.

念のために日本語の方も。
ただ、日本語のWikiの記述は「英文の訳」なのだろうけれど正直わたしには意味不明です。
蓋し、チョムスキーとMartin Jacquesのこの用語に対する斜に構えた批判的解釈は、かって、
サルトルが「ノーベル賞は西側の価値観を権威づけ、それを東側にも押し付けようとするプロジェクトだ」とかなんとか呟いてノーベル文学賞を辞退した際の心性と感覚と通底しているもの、鴨です。

▼国際社会
国際社会(International community)は、世界の政府および人々のおおまかなグループのことであり、 国際関係について使われるフレーズである。 概して、特定の人権問題などについての共通の視点の存在を、暗に意味するために、使われる。 活動家、政治家、コメンテーターはしばしば、この言葉を使って、必要なアクションを求める。 例えば、対象国での政治的抑圧であるとされている事に対して使われる。

この言葉は一般に、論争点についての一致した「視点=コンセンサス」を暗示するために使われる。例えば、国際連合総会での多数票の信用性を高めるために使われる。

批判の例
ノーム・チョムスキー はこの言葉の用途について、アメリカ合衆国とその従属国と同盟国を意味すると、記した 。 学者であるMartin Jacquesは、「我々は皆『国際社会』という言葉が意味するものを知っているはずだ。それは当然、西洋のことで、それ以上でも、それ以下でもない。『国際社会』という言葉を使うのは、西洋に威厳を付け、世界的なものとし、より立派に聞こえるようにし、より中立で、他より優越しているとする、方法だ。」と言っている。


さて、ここからが本論。要は、

>「国際社会」というものはなんらかの実体なのか、それとも、
>それは単なる現象を論者が認識する枠組みとしての「道具概念」なのか

また、「国際社会」なるものは、

>そこでなにがしかの規範が妥当するタイプの<国家等の主体が形成する社会>なのか
>それとも、単に現象としての−−戦争や貿易や難民の移動を含む−−人間の諸活動が展開されている時空間にすぎないのか/人類史のある時間と地域を区切った「時空的の舞台」にすぎないのか

簡単な話です。そのメンバーがどんなにお転婆とやんちゃ坊主な子供達ばかりであろうと−−また、担任の先生のオーバールール的指導がありうるとしても−−小学校2年生のクラスで「生き物係り」とか「給食当番」を決める場面を想定すれば、そのクラスは「社会」といえるでしょう。そこでの決定が−−それに自分が反対であるにせよ賛成であるにせよ−−自分をも法的に拘束するのですから

ここで、その決定に従わず、給食当番をしない蓮舫さんや、生き物係りなのにウサギちゃんに食事も水も世話しない鳩山君がいるかもしれないこととこの「法的拘束力」の存否は一応別問題であり、よって、このクラスが社会であるという認識を否定する根拠にはなりません。畢竟、これこそが新カント派が打ち立てた「存在と当為」「事実と規範」の方法二元論の正しい帰結でしょうから、為念。

また、シルクロードの東西の−−奴隷や戦士、花嫁や僧侶、娼婦や職人を含む−−物産と技術の流通を想起するとき。いや、それどころか、縄文期に遡る長野県の和田峠産の黒曜石が広くシベリアや樺太からも発掘されることなどを考える場合、物品と情報の相互流通のシステムが事実上成立していたことをもってそこに「社会」もまた成立していたとは単純に言えないでしょう。ならば、あくまでも「国際社会」なるものが「社会」であるかどうかは規範の顕微鏡と−−なんらかの言語ゲームを抽出する−−望遠鏡で観察した結果によって判断するしかないのではないかと考えます。ことほどさように、

では、上で朝日新聞の述べる「国際社会」なるものはこの法的拘束力の存否の観点から見て
「社会」と言えるでしょうか。結論から先に書けば、それは「Yes/No」だと思います。

国際法理論でもこの基本的な問題領域−−国際法の概念論−−で現在も最有力の論者である、ハンス・ケルゼンは、概略こう述べています(ご興味のある方は、ケルゼンが素人のしかし知的能力の高い読者を想定して、しかも、英語で書き直した『法と国家』(東京大学出版会・1969年7月)のご一読をおすすめします)。

1)法とはそれが定める規範の逸脱に対して公的な制裁を伴う規範体系である
2)ところで、国家間において侵略行為−−あるいは締結した条約の違反−−に対しては、国連の発足以降も、「制裁=個別的と集団的の自衛戦争」が認められ/「制裁の戦争」が実際しばしば行われている

3)もちろん、主権国家はいつでも条約を破棄することも認められる。けれども、
4)この「破棄行為」は破棄以前に行われた侵略行為や条約違反に対する制裁の効力を原則消滅させない

5)また、侵略行為に対しては必ずしも−−例えば、現在、アメリカにリヒテンシュタインやモナコが制裁戦争の宣戦布告をするなどは誰も期待も予想もしないでしょうから−−制裁が現実に採られるわけでないことは、国際法なるものの法的性格を毀損するものではなく、寧ろ、皮肉ではなくそれが自然科学的な法則ではなく法規範であることの証左でさえある
6)日々この日本で凄惨な殺人事件が発生していようとも、「人を殺してはなりませぬ」→「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」(刑法199条)という規範が存在しないと考える人は少ないだろうこととこの経緯はパラレルだから(→上の「生き物係り」「給食当番」と蓮舫および鳩山のケースもこれとパラレル)

7)ならば、国際法と呼ばれる規範は−−多くの先進国の国内法ほどの体系性を保有してはおらず、また、その実効性にも妥当性にも脆弱な側面があることは自明だけれども−−まちがいなく、
法学的な意味での「法」と言える、と。

【参考−Article 51 of the UN Charter】
Article 51:
Nothing in the present Charter shall impair the inherent right of collective or individual self-defense if an armed attack occurs against a member of the United Nations, until the Security Council has taken the measures necessary to maintain international peace and security. Measures taken by members in exercise of this right of self-defense shall be immediately reported to the Security Council and shall not in any way affect the authority and responsibility of the Security Council under the present Charter to take at any time such action as it deems necessary in order to maintain or restore international peace and security.

国際連合憲章51条:
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

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而して、本稿の問題の中心は、国際法もまた「法」であるといえることから、果たして、
リベラル派が呪文のようにとなえる「国際社会」とか「国際社会の総意」とかのタームもまた
なんらか意義のあるものと言えるのかどうかになろうと思います。繰り返しますが、すなわち、

>「国際社会」なるものは法的拘束力の存否の観点から見て「社会」と言えるのか

ということが問題の核心ではないか。と、そう私は考えます。なぜならば、ケルゼンもそれを他著で、逆に、大いに力説しているのですけれども、すべからく基盤となる<法の共同体>を欠くような人間の集団には、法は成立しえない。ならば、結論先取りでここで書いておけば、

(Ⅰ)ある国内法体系を「主権国家の法体系」と認定するルールというかシステム
(Ⅱ)侵略行為に対する自衛戦争を正当な制裁と認定するルールというかシステム

としては国際法は「法」であり、その基盤となる<法の共同体>を「国際社会」と呼ぶのならば、
その「国際社会」なるものは法的拘束力の存否の観点から見て「社会」と言えるのだと思います(Yes.)

しかし、文化帝国主義の香しいEUや国連人権理事会などに屯する、また、そやつらと気脈を通じている万国のリベラル派が、それも国際法の規範内容だとか強弁する、例えば、

「死刑廃止」「夫婦別姓の廃止」「国民代表=国会議員に占める男女比の同一化」「性的少数者の権利拡充」「皇室の男系主義の廃止」「サウジアラビア等々での性的少数者に対する鞭打ちや石打ちの刑罰の廃止」

「捕鯨の禁止」「若年女性が−−家内奴隷のごとく−−取引される慣習の廃止」「結婚までの女性器の縫合の禁止」「美人コンテストの廃止」「ベジタリアンの推奨に毛皮取引の禁止」「女子教育の推奨」「嫁の持参金制度の廃止」

「難民の受け入れの拡大」「外国人への参政権、少なくとも地方自治レベルの参政権の拡大」「タバコの廃止」「複数の言語を公用語とすること、少なくとも、初等中等教育での子供たちの母語の尊重」「フェァトレードの標準化」「資金の海外流出と節税対策の無効化」「少年犯罪の非犯罪化」「ヘイトスピーチの罰則による抑制」・・・・・・・

などが、国際法と呼ばれるに値する法規範であるのかどうか、あるいは、同じことの裏面ですけれども、そのような規範に妥当性と実効性を与える<法共同体>が現在の人類史においてこの惑星上に成立しているのかどうか。

この点に関しては、わたしは、これらのリベラル派の願望のその基盤となる<ある共同体>を「国際社会」と呼ぶのならば、そのような「国際社会」なるものは法的拘束力の存否の観点から見て「社会」とは到底言えないだろうと思います(No.)

結論としては「国際社会」とはある面で確かに成立しているけれども、リベラル派が言い募る「国際社会の常識」なり「国際社会の総意」なるものの内容は、彼等が彼等の私的な美意識と価値体系から「国際社会」に密輸したまがい物にすぎないのだろう。而して、そのような「常識−総意」と対応する−−その基盤となる共同体という意味でならば−−そのようなリベラルな「国際社会」などは金輪際成立などしていない。と、そう私は考えます。

・国連は「主体」ではなく「舞台」です
:国連人権委員会の正体 国連は日本を非難しないと出世しない組織 (追補あり)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/281ecc781b65365010ebbc819dc71016

・言論の自由を市民の手に取り戻せ:日本の(リベラル)ジャーナリズムは不要、否、有害だ!
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c7d0b8a081d2c153a9331218334039f6
 
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畢竟、「国際社会」なるものに関してもリベラル派がしばしば(念仏のように?)口にする所謂「多様性」なるものの価値や素晴らしさというもの。蓋し、それらの価値や素晴らしさを保守派も必ずしも否定はしないでしょう。わが国も、古来、数多の「帰化人」の方々を<新しい仲間>として受け入れてきたし、日本の文化伝統なるものの多くは彼等とのコラボレーションの果実であることを否定するような向きは「保守」などではなく、単なる「無知」なのだと思います。 

しかし、「多様性」なるものを具現する道のりやスタイルは、リベラル派がしばしばそう口にするように、別に、すべての国が「その市民社会を<地球市民的>なる無国籍の色合いに染める」ものばかりではないのではなかろうか。個々の国家が、各々、独自の文化と伝統を競いあうことによって、世界の総体としては百花繚乱・千紫万紅の<コラージュ>状況を現出する道のりもありはしないか。而して、保守主義に親和性のある「国際社会」の――現在の国際法の基盤となっている法の共同体という意味での「国際社会」に親しい――「多様性」は間違いなく後者のスタイルであろうと思います。

最後に、蛇足ながら、というか少し長い補足註になりますが
最後に自家記事をここで転記させてください。

それは「法と国家」および「国内法と国際法」に関する確認。

・英語教材として読む安倍談話−余滴−「法と国家」の語源譚的随想(中)(下)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/49dcf02c7daea288a9d74edd97f6af41
 
◆註:「法と国家」および「国内法と国際法」の関係について
基盤となる<共同体>を欠く、国際法が−−国際法の存在形式、国際法の一般法は慣習的法であることとは裏腹に−−慣習法的な事柄、例えば、「法の支配」の理念であるとか、−−文化帝国主義のフランス流のそれではない、中庸を得た−−英米流の「立憲主義」であるとかとは無縁であることも明らかだと思います。要は、国際法は慣習的法ではあるが厳密な意味での慣習法ではないということ。

>英米の国内法の本性・・==>慣習法
>国際法一般法の本性・・==>慣習的法

而して、日本では−−憲法と国際法が同一の事態に適用される場合、かつ、両者の内容に矛盾があるときにどちらの規範が勝か(行政機関の行為規範と裁判規範として採用されるか)の問題、所謂「国際法優位説」「国内法優位説」「国際法と国内法の二元論」を巡る議論がかなり誤解されていると感じるので、ここでも書いておきます。

◎国内法の効力に関する諸説
(α1)一元論−国際法優位説
(α2)一元論−国内法優位説
(β0)二元論−国際法と国内法の無関係的二本立て説

これはですね、あくまでも、法の効力−−妥当性と実効性−−を巡る議論であって、どちらに属する法規範が、ある事態や事例に関して勝か負けるかとは無関係な議論なのです。わかりますか? 要は、例えば、子供の教育権なるものの内容についてある国際法(日本の締結・批准している条約)と日本の法律が(憲法は当然のことです)抵触するように見える場合、どちらの規範が勝か負けるかは、そのある国の国内法、究極的には憲法で定めればよいだけの話なのです。

また、その国内法が「このままでは負けそう!」なとき、その国の権限ある立法機関なり、時には内閣が、遡って/将来に向かってその「強そうな国際法規」を破棄することも自由。なんで自由かと言えば、それが、現在に至る国際法のルールだからです。

えっ、じゃ、「法の効力を巡る議論」てなに? と、思っている方もおられる、鴨(笑)。はい、お答えします。それは、日本の国内法体系が「法として人々を従わせる力」を持っていることの理由・説明についての議論なのです。法の効力は、一般に、①妥当性、②実効性のふたつに分けて法哲学研究者は考えますが、ここでは専ら、前者の①の内容の一部分。

蓋し、①のなかに、「現在の人類史の状況を眺めるとき、国際法体系が成立しており、ある国家の国内法体系がその領土内でその国民に対して効力を持つのは、その国際法体系から認められているからですよ。任侠・神農系の世界の言葉で言えば「杯」をもらっているからですよ」という説明が、満更、筋悪ではないよね、ということ。簡単な話、誤解を恐れずに換言すれば、
↓ ↓ ↓
イェリネックの国家の−−国民・領土・主権の3要素による−−定義の中の「主権−統治権」(他国に対しては対等独立、国内にあっては最高唯一の国家主権)の存否とは、他の大方の諸国がその国の主権を認めたかどうか−−「主権国家」と認めたかどうか−−で決まるということ。

この経緯を、法学的に<翻訳>すると、「国際法が国内法(憲法)の効力根拠」だということになるのです。この議論は、徹頭徹尾、「国内法の効力に関する議論−ある国が国かどうかを判定する基準に関する議論」ということ。だって、シリアのあの「イスラム国」なんか、ラーメン屋さんの屋号の「ラーメン大学」みたいなもので、どの国も、「国家」とは認めないでしょう。他方、われらが台湾は国連に加盟していなくとも支那がそれを激しく否定しようとも、国際政治と国際経済の現実の舞台ではどの国も−−実は、支那でさえ!−−「主権国家」と認めているでしょう。そのような経緯のことなのです。畢竟、このことが国際法(の実定法秩序体系)が国内法(の実定法秩序体系)の効力根拠ということそのものなのです。


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【参考−イェリネック国家論の秀逸】
国家とは何か、国民たる<私>とはどのような存在なのか。イェリネック(1851−1911)の「国家の3要素」なるものとして人口に膾炙する定義によれば、国家とは領土・人民・権力を備えた社会集団のことらしい。今でも日本では、大体、どんな書物にもそう書いてある有名で陳腐な定義。けれども、イェリネック自身は、名詞の形容詞用法である「国家の:Staats」をそれぞれの項に添えた上で「国家:Staat」を説明して、

・国家的領土:Staatsgebiet
・国家的人民:Staatsvolk
・国家的権力:Staatsgewalt

を備えた自生性と人為性の相矛盾する二つの貌を持つ社会集団と考えていました(die mit ursprünglicher Herrschaftsmacht ausgegründet Körperschaft eines sesshaften Volkes:自生的あるいは正当な統治権力によってまとめあげられた一個の定住する人々を他から切り離す社会集団)。これ、でも同語反復ですよね。つまり、「国家」を定義するのに「国家の」という同一の概念を用いているから。ならば、それは無意味か。はい。微妙なところですが論理的にはそう言える、鴨。

けれど、逆に、ここにこそイェリネックのセンスのよさが一閃している。而して、それこそ、マルクス主義からのそれを含む19世紀−20世紀初頭の雨後の筍のごとく叢生した数多の国家論の中で、ケルゼンの法国家同一説−−法体系と国家を同一と見る国家論−−を除けばイェリネックの国家の定義だけが現在も生き残った理由ではないか。そう私は考えています。

すなわち、「国家」の概念規定などは不可能ということ。ならば、「国家の定義」は、このように統治権や国家的という観点からスタートする、ニワトリ玉子的に無限に続く螺旋的な思索−−すなわち、間主観性を希求した行為としての思索−−の過程で各論者が自分なりにイメージするしかないものだ、と。<国家>の定義は、論理的にはトートロジーであり無意味であるにしても、自己をある国家の一員と意識する<私>の間主観的な自己意識を媒介にすることなしには無意味どころか不可能である、と。

<了>

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文違い

蛇足さんが円喬の文違いについて書いていらっしゃいますので、その蛇足を:

これは「自惚れ」という人間の業を扱った作品である。「落語は業の肯定だ」などと間抜けなことを云った噺家もいたが、この噺はまさに人間の業を嗤っているのである。肯定も否定もしていない。ただ嗤っている。

自惚れを嗤った作品は多い。

ShakespeareのThe Merry Wives of Windsorなどは典型である。私はHenry IVを読んではいないので、そこでFalstaffがどういうことをしているか知らない。

一説によるとHenry IVの芝居をいたくお気に召したElisabeth IがShakespeareに対してこの続編を作り、そこではFalstaffに恋をさせよとご下命になったとのことだが、どこまで本当なのかはわからない。

Verdi最後の作品はまさにこれとHenry IVに題材をとったオペラ"Falstaff"であった。

それまで血なまぐさい(Forza del Destino)、または悲劇的な(Otello)、あるいは筋が何だか分からなくなってしまうような(I Vespri Siciliano)オペラばかり書いてきたVerdiは盟友Arrigo Boito(脚本)と一念発起、最後の作品としてこの喜劇を書き上げた。

私は古今東西あらゆるオペラの中でFalstaffの右に出る作品はないと断言できる。

それで「文違い」。

この作品というか噺をお杉をめぐるユーモアとペイソスと理解したらとんでもない間違いである。

こういう誤解はオペラにもあって、詳しいことは書かないが、例えばAidaはAidaとRhadamèsの悲劇と考えてしまってはならない。

AidaはまさにAmnerisの悲劇なのだ。第二幕二場の凱旋の場面がクライマックスではない。第四幕一場のAmnerisとRhadamèsの二重唱こそがこのオペラの眼目なのだ。

文違いにおいてはお杉は「芳次郎とは相思相愛」とうぬぼれているし、半ちゃんと角蔵はお杉はおれの女だとうぬぼれている。

芳次郎の顛末はこの噺からは推測できないが、彼だってことによったら小筆に手玉に取られているかもしれないのだ。

ここに登場する人物はみんな自惚れで生きている。

そしてサゲの角蔵のセリフこそが、その自惚れの最たるものを表わしている。

というようなことはともかくとして、この自惚れのばかばかしさを円生にしても志ん生にしても(残念ながら可楽のは聴いたことがない)かぜとまんだら(扇子と手ぬぐい)だけで表現して大向こうをうならせている。

だがThe Merry Wives of WindsorにしてもVerdiのFalstaffにしても100人を超えるスタッフがいなかったら実現ができない。

そこに落語の凄さがある。業もへったくれもないのだ。

そういうことがわからないと「落語は業の肯定である」などととんまなことを云う噺家をありがたがったりする。

そういうのも滑稽な一つの業だ、と言ってしまえばそれまでだが。

転載元転載元: 頑固爺TP400の断末魔期高齢者憲坊法師の徒然草


2014年09月25日 15時31分06秒 | 言葉はおもしろいかも

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/6d/f935022d8238882d60ca97dd74a38819.jpg




民主主義:
語源はギリシア語のdemokratiaで、demos(人民)とkratia(権力)とを結合したもの。すなわち、人民が権力を所有し、権力を自ら行使する立場をいう。古代ギリシアの都市国家に行われたものを初めとし、近世に至って市民革命を起こした欧米諸国に勃興。基本的人権・自由権・平等権あるいは多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、また、その実現が要請される。(広辞苑)



数少ない弊ブログのほとんどの読者の方は、「曼荼羅に織り込まれていた民主主義の暗号」とか「民主主義とは大日如来の隠喩だった」とかいう類のファンタジーが本稿で展開されるとは思われないでしょう。それが、超マイナーブログとはいえ「ブログの信用」というもの。そして、そんな読者の信頼が裏切られることはありません(笑)。

蓋し、ある言葉をどのような意味に使うかは、かなりの程度、論者の自由。けれども、冒頭に引用した広辞苑の定義を読み返すまでもなく、「民主主義」という言葉自体にはそれほど明確な「意味内容−指示対象」はないらしい。いずれにせよ、戦後の、文字通り、戦後民主主義の欺瞞に覆われていた頃の日本では、政治的にせよ社会的にせよリベラル派の観点から見て推奨されるべきことは「民主的」であり、逆に、家長制度や地主制度、あるいは、世襲議員や累進課税の緩和の如きは「非民主的」なものと断定されてきた節もあるから。

もちろん、前稿で展開した如く、「民主主義」という言葉にもそれなりの指示対象があるという前提に立った上で、歴史的かつ論理的な観点から「民主主義」を言語分析すればそれなりの具体的な意味内容は−−「顕教的意味の民主主義」は−−抽出可能であり了解可能ではある。而して、「顕教的意味の民主主義」の語義の裏面には、−−<我々>以外の他者を排除し殲滅し尽くしてやまないテロルの思想という意味での−−デモクラシーのデモーニカルな相貌が織り込まれていた。


・民主主義−−「民主主義」の顕教的意味
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a11036903f28f118f30c24f1b1e9f2bf



本稿は、(α)「民主主義」という言葉にはそれほど明確な指示対象は存在しておらず、(β)「民主主義」とはある政治的支配体制を正当化する/批判するための諸々の概念や理念を恒常的かつ適宜生み出す所の−−それ自体は無内容な−−理念生産装置的の概念である。すなわち、(γ)「民主主義」とは現実政治の世界に<民主主義>を紡ぎ出し織り成す動因としてのあるタイプの世界観や人間観、なにより、社会観にほかならないという理解を基盤にすえたもの。畢竟、(α)〜(γ)が本稿でいう「密教的意味の民主主義」ということです。




http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7c/35/7c4b467a5b34c5f289fd163ccf29a9f8_s.jpg



◆リベラル派の密教的意味の民主主義
畢竟、「民主主義」あるいは「民主的」の語義がなぜかくも無内容なのか。このことの背景には「密教的意味の民主主義」とでも呼ぶほかない、ある特殊な人間観・社会観・世界観が「民主主義」の四文字に潜んでいるの、鴨。而して、それは、ルソー流の「社会契約論」の人間観・社会観・世界観にほかならない。と、そう私は考えるのです。すなわち、リベラル派は、就中、日本のリベラル派はこう考えているのではないか、と。

近代国家とは、個人の尊厳なる価値を保有している点では平等な人間が−−よって、外観上はアトム化した個人が−−、常に正しいとされる「一般意志」の具現を求めて締結した社会契約(Social Contract)が産みだしたものであり、よって、「一般意志」の実体的権利への翻訳である「天賦人権」を確保することが近代国家の唯一の存在理由である。

そして、英国の「議会制度−自由主義」が具現してきた「個別意志」および「全体意志」と、近代国家一般がその具現を目指すべき「一般意志」の差違を踏まえるとき、念の為、『社会契約論』の中の有名なフレーズを引用しておけば

「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大間違いである。彼等が自由なのは、議員を選挙する間だけのことであって、議員が選ばれるや否や、イギリス人民は彼等の奴隷となり、無に帰してしまうのである。その選挙という自由な短期間の間に、彼等が自由をどのように行使しているかをみれば、彼等が自由を失うのも当然といえる」 (『社会契約論』第3編15章)

とするならば、「民主主義」という言葉は多義的で曖昧なのでも空虚でもなく、それは塵芥と汚濁にまみれた現実の政治社会に「一般意志−天賦人権」を具現する−−「個別意志」と「全体意志」から自由と平等を抽出するための−−論理的と思想的の回廊にほかならない、と。蓋し、このようなルソー流の人間観・社会観・世界観がリベラル派の懐く密教的意味の民主主義なの、鴨。


尚、密教的意味の民主主義をこう理解するとき
それは一種のグノーシス主義と言えるかもしれません。


グノーシス主義
1)二元論−−至高者と汚濁にまみれた現実世界の断絶
2)至高者と世界をつなぐ啓示者の存在の確信
3)啓示者が与える知識の救済の手段としての重要性


すなわち、それは、「一般意志」と「全体意志」の断絶を踏まえた上で、常に正しい「一般意志」を社会のメンバーに示してくれる「立法者」の存在を確信するものであり、天賦人権を具現するためには「立法者」のアドバイスとサジェスチョンが死活的に重要と考える点で、ルソー流の「社会契約論」はグノーシス主義的な思弁である。と、そう私は考えています。


・瓦解する天賦人権論−立憲主義の<脱構築>、あるいは、
<言語ゲーム>としての立憲主義(1)〜(9)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

・憲法96条−−改正条項−−の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)〜(6)
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5




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◆密教的意味の民主主義の神通力の正体と限界
テロルの思想であり全体主義の思想である民主主義が、現在、日本だけでなく世界でもポジティブな政治シンボルとされるに至った背景には、−−直接的には、第二次世界大戦において連合国側がこの戦争を「民主主義と全体主義の戦い」と位置づけたプロパガンダ戦略に起因するにせよ−−二つの事情が与して力あったの、鴨。それは、18世紀−19世紀における資本主義の離床化、および、19世紀−20世紀における大衆社会下の福祉国家の出現であろう。

前者において、契約の自由と所有権の不可侵を両輪としていた黎明期の資本主義にとって、その法的価値において均一なアトム化した個人という民主主義の人間観は整合的だったということ。また、後者については、普通選挙制度が具現した新たな騒々しくもがさつな風景を説明する上で民主主義の社会観は利用可能だったということです。

しかし、民主主義は−−ロジックというかレトリックとしては「一般意志」よって「立法者」を媒介にするにせよ−−人間と国家権力の万能感を志向するものであり、それは、−−人間をアトムと看做すことは論者の勝手であるにせよ−−人間が英語なり日本語なりのある特定の言語で思考する、よって、ある特定の文化と伝統に憑依された存在である点を文字通り捨象している。そして、結局、現実の政治の局面では国家一般なるものは存在せず、存在するものは独り「国民国家−民族国家」としての特定の主権国家でしかない現実を看過しない限り、論理的には等価にせよ、「アトム化した個人」と「ある特定の言語でもって思考する主権国家の国民」という人間観の、現実政治の局面での優劣は明らかに後者にある。グローバル化の昂進著しい現在こそそう言える。と、私はそう考えます。

加之、国家権力がおよそ社会のありとあらゆる行政サービスを担うことになった大衆社会下の福祉国家においては、行政サービスの正当性と妥当性を判断する専門家や専門知の比重もまた加速度的に増大した。すなわち、<我々>の認識や判断も専門家の力を借りなければ毫も判明するものではなくなっているということです。

すなわち、<我々>に専門家は含まれているのかが死活的に重要な問題となってきており、いずれにせよ、ミシェル・フーコーが予言した「素人を沈黙させる<権力>としての専門知」が跋扈している現代社会のリアルな相貌が、21世紀の現在、否応なく浮き彫りになったの、鴨。こう考えれば、ポルポト派が知識層を根絶やしにしたこと、あるいは、毛沢東が知識層を下放したことは満更筋悪の施策ではなかったの、鴨。


(ノ-_-)ノ ~┻━┻・..。


・民主主義の意味と限界−脱原発論と原発論の脱構築
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/f82067e9a5dbc3201cb2aa125132b012
 
・放射能と国家−脱原発論は<権力の万能感>と戯れる、民主主義の敵である
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fd01017dc60f3ef702569bbf8d2134d2





http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7e/13/f78980da21c03b1554329039750a2f00_s.jpg





◆密教的意味の民主主義に残された可能性
民主主義には、しかし、別の密教的な位置づけも可能かもしれません。而して、それは①自由に価値を置く、②プロセス的な正義のルールとして民主主義を捉え返す、③英米法および英米の保守主義と親和的なものではないか。逆に言えば、①平等偏重の、②具体的な価値の内容の判定までも期待する、③フランス法およびルソーやポルポト派や毛沢東の思想とは異質なもの。

いずれにせよ、近代の「主権国家−国民国家」成立以降の政治の文脈でこの言葉が用いられる場合、「民主主義」は、(ⅰ)制度論においては「代表民主制」とほぼ同義であり、(ⅱ)社会思想としては、自由主義および価値相対主義の政治哲学的の言い換えであることは間違いないと思います。 

畢竟、この(ⅱ)を喝破した、ハンス・ケルゼン『デモクラシーの本質と価値』(1920−1929)は、ある意味、それまでのルソー的やボリシェビキ的な全体主義としての民主主義の概念を<脱構築>した、20世紀社会思想の地味だけれど最大の果実の一つと言っても過言ではないと私は考えるのです。要は、密教的意味の民主主義に残された可能性とは保守主義と価値相対主義からの「民主主義」の再構築であり、それは、グノーシス主義としての民主主義の打破である。それは、人間の有限性を踏まえた、かつ、「誰もがそれなりに重要な人物として誰かには処遇されることを希求する人々が織り成す社会」という大衆社会のイメージとも整合的な対案ではなかろうか。と、そう私は考えます。

結局、「立法者」の登場・登壇を期待する神秘主義的かつ他力本願な密教的意味の民主主義ではなく、各自が日々の政治的な営みに責任負い誇りを持つ<言語ゲーム>としての民主主義こそ<民主主義>に残された唯一の可能性ではなかろうか。もしそう言えるなら、21世紀の日本の保守主義者としてもウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)卿の箴言に残念ながらも激しく同意できる、鴨。


It has been said that democracy is the worst form of government
except all the others that have been tried.
(民主主義は最悪の政治形態と言えよう。
ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすれば)




蓋し、社会思想という営みは−−例えば、保守主義からの「民主主義の再構築」という作業は−−、すべからく、(甲)ある思想群がどのような<相互討論>の経緯を経て現在に至ったのか、ならびに、(乙)現在の地平から見ればそれらの思想群はどう空間的かつ整合的に把握されるのかという、謂わば「両界曼荼羅」的な重層的な作業なのでしょう。而して、本稿もこの「両界曼荼羅」を胎蔵している。と、そのことを私は希望しています。


http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/da/948a9b8e7a2e49c8cbcd5579cb015d23.jpg


転載元転載元: 松尾光太郎 de 海馬之玄関ブログ

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