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民進党の蓮舫代表が2004年7月の初当選以来、昨年2016年10月まで12年以上にわたって「二重国籍」の状態であった旨公表されたようです。この一部、戸籍情報を含む蓮舫氏自身の――しかし、他方、政党助成法(1994~)に基づく政党交付金をその前身に遡れば1998年以降途切れることなく受け取ってきた公党の代表でもある蓮舫代表の――個人情報の公表に対しては、「個人のプライバシーの精髄である戸籍を公表することは、差別を助長し排外主義を勢いづかせるものではないか」「それは、かっては公開が原則であった戸籍をほぼ非公開の現状にまでもってきた、人権保護の努力の蓄積を反古にしかねない行動ではなかったか」等のリベラル派からの批判も囂しい様子。
蓋し、支那や南北の朝鮮、あるいは、文化帝国主義の跋扈するフランスやドイツとは異なり、我が国は米英両国と同様に「言論の自由」が(というか、彼等の場合には「信教の自由」が)保障された国ですから、朝日新聞やTBS、民進党や日教組・自治労などのリベラル派が何を言われようがそれは自由でしょう。而して、問題は彼等のこの問題を捉える枠組み、ならびに、この「二重国籍の国会議員の存在―二重国籍の閣僚の存在」、加之、公党の場合であれば「二重国籍の党首の存在」が孕むこの問題の問題性に関する彼等の認識にある。そうわたしは考えています。
・瓦解する天賦人権論−立憲主義の<脱構築>、
あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)〜(9) http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79 ・イスラム女性からベールと尊厳を奪う傲岸不遜なフランスの詭弁(上)(下)
すなわち、この問題の問題性は、①二重国籍を認めることの是非、および、戸籍制度の存続の是非という一般的な問題――もちろん、それら一般的な問題と無関係ではないにせよ、そのような一般的に論じられる問題――とは異なる枠組みで捉えられるべき、②国会議員、就中、閣僚が二重国籍であったことにあるという認識の欠落もしくは軽視にあるのではありますまいか。
この問題に関するわたしの問題の理解。この点に関しては下記拙稿で些か私見を詳らかにしましたので、よろしければご一読いただければ嬉しいです。要は、二重国籍や戸籍制度一般の論題と二重国籍の国会議員が存在したという――「国民主権の原則」に明確に反する政治的のみならず憲法論的にも議論が必要な――問題とを混同することは、所謂「アイドルの恋愛禁止ルール」の是非を巡る一般論と、そのアイドル業界の最高最大の「祭典=AKB総選挙」において<アイドルという存在>の社会思想的な存立枠組み自体を毀損した――本稿作成の時点でもNMB48にいまだに居座っている――「須藤凜々花」が本質的に負うべき責任の内容に関する議論を混同するに等しい誤謬をおかしている、と。
・オーストラリア:二重国籍発覚の議員が辞職。二重国籍は憲法で禁じられている
――須藤凜々花はいつ卒業するんだ❗ http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3477b3fe6282ea9f624a98241fd91e1d ・春田哲吉「パスポートとビザの知識」
・【蓮舫会見】産経記者が会見最後の方で3重国籍について質問したら蓮舫逆切れ
一般論と個別具体的な最大野党党首の二重国籍問題の混同。蓮舫氏の台湾国籍離脱の遺漏と同様、本当のところ、故意だったのか過失にすぎなかったのか知りませんけれど、このイシューの重大さに関するリベラル派の認識が、もし、上で述べたいうなものであるとするならば、逆に、「二重国籍の国会議員」なる憲法論的には許されざる現象をシャットアウトする立法措置が要求されている。
更には、原則、多重国籍を我が国は認めていないがゆえに、二重国籍を含む多重国籍者に対して――日本国籍を保持したい場合には――「日本国籍を選択し、よって、すべての外国籍を放棄する「選択宣言」を行う」(国籍法14条2項)こと、かつ、「選択宣言」の段階で当該の外国籍が残っている場合には、「外国籍の離脱に努めとめなければならない」(同法16条1項)と定めてはいるものの、その違反に対する罰則はなく、つまり、国籍法のそれらの規定は謂わば「努力義務」を謳っているにすぎないなどの、この問題に関するリベラル系マスメディアの解説報道を目にするとき、わたしは、その「二重国籍の国会議員」をシャットアウトする立法措置は焦眉の急の高いプライオリティのイシューではないかと思うのです。
・保守主義−保守主義の憲法観
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html 而して、この問題は、蓮舫氏の民進党の代表辞任や彼女の議員辞職程度の「落ち」ですまされるものではないことは確実ではないでしょうか。ならば、これから保守派が考えるべきは――少なくとも、考えておかなければならないことの1つは――、外国人の政治的の権利の内容とその範囲についての憲法論なの、鴨。
そして、我が国が所謂「議員内閣制」の政治の仕組みを――極論すれば、神武天皇以来とは言わないまでも、遅くとも、大正政変以降――基本的に採用してきた伝統を鑑みるならば、その「外国人の政治的の権利の内容とその範囲」なるものは、政治政党とのかかわり合いの中で考察するのでなければ画餅にすぎないのではありますまいか。そう考え、「政党の代表選挙における外国人の投票権」を巡って、些か、世間を騒がせた、かっての民主党代表選挙を俎上にに載せた旧稿に手を入れつつ再度アップロードすることにいたしました。
今からもう7年も前のこと。当時の――「民進党」に党名ロンダリングする前の――民主党代表選挙に外国人の党員が関与した事態を受けて2010年の秋、ブログやSNSでは「外国人が次の首相の決定に関与するのは憲法違反」という主張が盛り上がったことがあります。以下、本稿は、その旧稿の前に書いたある記事の認識と主張(↓)を憲法訴訟論と政党論の接点から敷衍したものです。と、ここで、7年前の――まだ、<不動のセンター前田敦子>がアイドル界に君臨していた、そんな時代の日本に――タイムスリップ〜!
・外国人の「党員・サポーター」が関与する民主党代表選挙は憲法違反ではないのか? http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/402555d03b60d91547bf3fe60d64c850 そして、オマケ〜記事♪
・AKBは終わりました、以上。
前稿で私は概略こう述べました。
今般の「民主党代表選外国人関与問題」は憲法訴訟の地平では違憲とは必ずしも言えないが、それは(訴訟によってではなく、憲法慣習の形態において機能する)「憲法の趣旨」の一斑たる国民主権原理に明らかに反する。よって、民主党に対しては、「民主党代表選挙=憲法の趣旨違反」という批判を政治的に投げつけるべきだ、と。 而して、この主張の前提は次の如き認識でした。 (1)政党は本来的に<私的>な存在である (2)現行の日本国憲法は議院内閣制を採用しており、よって、現行の<憲法>は政党の不可欠性を想定している。尚、<憲法>とは、憲法典・憲法の事物の本性・憲法の概念、そして、憲法慣習という、いずれも、間主観的に認識可能な諸規範が編み上げている「国の最高法規の体系」の意味である (3)政党政治の醍醐味は、国民の一部分の利害と価値観を代表する<私的>な政党が、国政選挙と国会での首班指名等の所定の手続を踏む中で、期間を限定的して、あたかも、国民全体を代表する<公的>な国家権力の担い手になる経緯である (4)政党は<私的>と<公的>の両面を抱える両義的存在である。而して、例えば、国民主権原理、あるいは、結社の自由・政治的な表現の自由といった<憲法>に内在する価値をどの程度まで<憲法>が政党に強制できるのか、その裏面として、政党に対する助成金等の恩恵はどの範囲までなら<憲法>の許容するものと言えるのかという点を巡っては、現実政治的のみならず社会思想的にも二律背反的の緊張関係が見出せる、と 尚、これらの認識に関しては下記拙稿をご参照ください。 政党を巡って<公>と<私>の織成す二律背反模様。しかし、これは日本だけの現象ではない。より間主観的な相でこの矛盾を把握すべく、次に、アメリカ憲法の運用の実際を一瞥します。
http://blogimg.goo.ne.jp/cnv/v1/user_image/04/ba/783bae0e1038570db57c9b63cbb77ca5.jpg?dw=600,cw=600,q=70,da=s,ds=n
◆政治政党と憲法訴訟 アメリカでは、(大統領選挙の予備選挙だけでなく、数多の<公>の役職に対する)共和・民主の各党の候補者確定のための予備選挙が、おおよそ、各州政府の費用と規制の下で実施されています。けれども、アメリカ憲法典には「政党」という文字列は存在しない。 而して、「カズンズ対ウィゴダ事件」(1975年)を嚆矢とする諸判例を通して、政党はアメリカ憲法修正1条から演繹される結社の自由を享受する存在、すなわち、あくまでも<私的>な存在と位置づけられている。よって、ある一線を越えた州政府の規制や助成は<私的領域>への<公的権力>の不適切な容喙として憲法違反とされるのです。 重要なことは、州政府の容喙が、ある一線を越えたかどうかは憲法訴訟を通じて判断され、かつ、その憲法訴訟においては(州政府側にとって最も不利な)厳格な審査基準と合憲性判断基準が適用されることです(ちなみに、アメリカには特別の「党員資格」なるものは、原則、存在しません。各地の選挙管理委員会が管理する、一種、住民票的なプロフィール登録の際に支持政党をチェック(☑)すれば、予備選挙に関してはそれが「党員登録」なのです)。 蓋し、前稿で述べた、憲法論的な「政党の事物の本性」を踏まえるならば、アメリカ憲法の運用の実際は、現行の日本国憲法の理解としてもまずは妥当なものではないかと思います。 ここで英米流の(H.L.Aハート、ドウォーキン、フラ−、ラズ等々、現在の分析法学に分類される)法思考を借用すれば、<憲法>の内部には、(イ)具体的に国家権力の行動規範を定めている「準則」と、(ロ)目標や理念を定めただけの「原理」の両極がある。而して、憲法保障に関しては、(イ)の極の近傍にその座を占めている規範を巡っては憲法訴訟による憲法保障が適切であり、他方、(ロ)の極の近隣に位置する規範の憲法保障は憲法慣習の再構築の営みを通して政治的に解決するのが妥当であろうと思います。なぜならば、「原理」の具体的な内容の確定は困難であり、それは、共約不可能なイデオロギー的対立を呼び寄せかねないからです。 敷衍すれば、(イ)党員資格要件に対する<公>の容喙が現行憲法21条の定める「結社の自由権」の侵害かどうかの確定には「憲法訴訟」の回路を、他方、(ロ)外国人が関与した代表選挙が現行憲法の前文に謳われる「国民主権原理」の侵害であるか否かの確定のためには「政治闘争」の回路を選択した方が、一般的には、より合理的であろうということです。 而して、では、例えば、国民主権原理が現実を拘束する枠組みとして機能するかどうかは、<政治の競技場>における国民主権原理を錦の御旗に掲げた勢力の勝敗次第ということなのか。 ・憲法訴訟を巡る日米の貧困と豊饒☆「忠誠の誓い」合憲判決
−リベラル派の妄想に常識の鉄槌(1)〜(6)
http://blogimg.goo.ne.jp/cnv/v1/user_image/19/f2/c3aca5d562a4f07ba55f6c1c4c117fb4.jpg?dw=600,cw=600,q=70,da=s,ds=n
◆外国人の政治活動の自由と国民主権原理の位相と相貌 所謂「党議拘束」を前提にすれば、与党の代表選挙とその後の国会での首班指名選挙は一体のものではないだろうか。もしそう言えるのなら、実質的に次の首相を選ぶ与党の代表選挙に外国人が関与する事態は明らかに国民主権原理と抵触する。このように重大な憲法違反のケースでも、そこで問題とされる規範が「原理」に属する限り、憲法訴訟の回路による憲法保障は不可能もしくは不適切なのか。 前項の主張に対しては、あるいは、このような疑問が呈される、鴨。而して、この問いに対する回答は「肯」です。蓋し、イデオロギー的な紛争の解決はあくまでも<政治の競技場>で図られるべきであり、他方、<憲法>の規範を巡る現実具体的な紛争は憲法訴訟を通してなされるべきということ。 しかし、そうであるがゆえに、逆に、「原理」を巡る紛争でも、それが憲法訴訟に馴染むタイプの紛争は、憲法訴訟の回路を通して解決されるべきである。あくまでも、<憲法>を「原理」と「準則」に区別する作業は、最適な憲法保障の回路発見のための手段にすぎないのですから。最後に、この経緯を「民主党代表選挙外国人問題」を材料に使い敷衍しておきます。 (甲)憲法は政党の党員資格について白紙である 政党が本来的に<私的>な存在である以上、その党員資格の唯一あるべき内容を<憲法>から演繹することはできません(つまり、「外国人党員の是認」も「外国人党員の否定」も等価であり許されるということです)。 この認識に対して、例えば、「政党交付金が支給されている以上現状の政党が私的団体とは言い切れない」という議論は成立しません。上で紹介した、アメリカの予備選挙に対する州政府のコミットメントを想起していただければ自明なように、喩えれば、ある企業が公の補助金を受けるのと引き換えに、その補助金の使途や成果を行政に報告する義務を負う事態とこれはパラレル。つまり、政党助成金の存在と、<憲法>のある規範の尊重をどこまで政党に要求できるかは別次元の問題ということです。 (乙)国民主権原理と外国人の政治活動の自由 国民主権原理、すなわち、現行の日本国憲法が「国民」に限定している「国政参加」の権能とは、ディノテーションとしては、オフィシャルな選挙権・被選挙権の付与の意であり、コノテーションとしては「日本国籍を保有している者のみが、運命共同体としてのこの国の進むべき進路を決定すべきだ」という「原理」の表明と理解すべきであろうと思います。 なぜならば、①政治活動の自由自体は日本国民に限定されるものではなく、また、②例えば、帰化前の呉善花・金美齢両女史の影響力を想起するまでもなく、外国人や外国のエージェントの実質的な影響力を政治から一切排除することは適切でもなく、また、土台、不可能だからです(イエーリングが喝破した如く、「法は不可能を誰にも要求しない」のでしょうから)。 人権や自由の憲法的な規制と保障には、(a)保障の段階(禁止は不可の段階)→(b)容認の段階(ニュートラルな段階)→(c)禁止の段階、があります。而して、外国人の人権保障に関するリーディングケースである、所謂「マクリーン判決」が、「外国人の政治活動の権利は憲法が保障するものではない」(=禁止するものでもない、要は、許容の段階にある)と述べていることが重要。畢竟、極論すれば、党員のほとんどが外国人の政党があり、その政党が極々少ない日本人党員を選挙に出馬させ、かつ、相当程度の日本人有権者の支持を受けて、結果的に、政党助成金を受けるとしてもそれは現行憲法違反ではないということ。実際、社民党などはそこまでもう半歩ではないでしょうか(笑)。 而して、政党の範囲を定めている政党助成法2条及び政治資金規正法3条1項と、国政参加の権能を国民に限定している現行憲法典とも矛盾しない。他方、この同じ法理から、謂わば「外国人党員排除法」なる法規もまた違憲にはならないことになる。畢竟、外国人を党員とする政党が政党助成金を公布されること、あるいは、政権与党になることと、ディノテーションとしての国民主権原理の間に矛盾は存在しないのです。 (丙)憲法訴訟による国民主権原理の保障の要件 コノテーションとしての国民主権原理の具現は<政治の競技場>で行なうのが手筋ではある。しかし、次のような場合には憲法訴訟の回路を通っての憲法保障も可能と考えます。すなわち、 ①与党の代表選挙から国会での次の首相の指名までの間に国政選挙が介在しない場合、かつ、②不特定多数の外国人の意向が、あるいは、ある特定の国の組織的な関与が与党の代表を実質的に決める場合。 このような事態が惹起した場面では、「政党の事物の本性の一斑たる党議拘束」の存在を鑑みれば、すなわち、政権与党の代表選挙とその後の国会での首班指名が実質的に「一体のもの」であることを鑑みれば(代表選から国会の首班指名までの間に当該の与党が分裂する可能性も皆無ではなく、また、論理的には、与党の議員には「党議拘束に従わない自由≒離党の自由」もあり、よって、「一体」という表現が誇大であれば、少なくとも「一連のもの」であることを鑑みれば)、それは、「日本国民のみが、この国の進むべき進路を決定すべきだ」という国民主権原理の、(ⅰ)明白かつ現在の侵害の危険性そのものであり、かつ、(ⅱ)より制限的でない他の取りうる手段(LRA)も存在しないと考えられる。ならば、この様な場面は、それが「原理=コノテーションとしての国民主権原理」侵害のケースでもあるにかかわらず、解決されるべき紛争が具体的であるがゆえに憲法訴訟の回路を通してその代表選挙の違憲と無効を争う必然性がある。と、そう私は考えています。 |
復葉
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常軌を逸したマスメディアによる、安倍内閣への「批判」というか――「誹謗中傷」と言うべきか――のネガティブな印象操作が撒き散らされているのを見て、現在、真面目に自民党入党をまた考えています。日本に――というか、娑婆に?――ここしばらくあまりいなかったのでもう党籍ないと思うから(苦笑)。
而して、AKBの「正直将棋」でもないのですが、正直に履歴をあかすと・・・。安倍・竹下・宮澤が総理総裁の椅子を争っていた大昔、知り合いのある病院の院長さんから「会費は負担するから名前を貸して欲しい」と頼まれて自民党員になったことがあります。それから、神奈川の地元で自民党員してたこともある。自民党が野党に下る際に、比例区で当選していた地元選挙区の自民党議員が別の政党に移るという許せん振る舞いをしたから。義憤に駆られ−−そう、因果は巡る糸車ですよね、元みんなの党の皆さん(笑)−−、元々、強力な民主党の現職候補がいる選挙区のこととて、落選確実だった新人の自民党候補を応援すべく党員になった。
それから幾星霜。安倍政権が日本再生に向けて大車輪の働きをしているのを目にして再度2012年に入党。そして、上述の如く今また別の意味で義憤にかられ自民党の再々入党を真面目に考えているということです。ということで、勝手連的の自民党の広報支援というだけでなく自分の考えを整理するべく旧稿に手を加えつつ再アップロードすることにさせていただきます。そう、――まゆまゆ(=まゆゆ:渡辺麻友さん)がご卒業されるまでは(NMBを除く)AKBグループの活動はサポートすると思うけれど、土台――「終わったAKB」なんかもうどうでもいいわけで、つまり、たかだか個人のブログ運営においてもAKBのことばかり考えているわけではないのであります。 ・「加計」の偏向報道、酷すぎ:マスメディアは印象操作が仕事なの?
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3bede48f13114cf068144d4c4ea2d631 ・言論の自由を市民の手に取り戻せ
:日本の(リベラル)ジャーナリズムは不要、否、有害だ! http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c7d0b8a081d2c153a9331218334039f6 そして、オマケ
・AKBはもうあの日に終わったけれど・・・、サッシーの言う通りだよ。(追記あり)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/8b64a655f6e7a8bed9dc8716cedc6572 ハンナ・アーレントが『人間の条件:The Human Condition』(1958)で喝破したように、公的領域における活動は−−自分とは異質な他者に対して言葉で働きかける政治活動は−−人間の幸福の源泉の一つと言える、鴨。もちろん、アーレントも私的領域で繰り広げられる労働と仕事を−−人間が生存・生産・再生産するための物的諸条件の維持確保、そして、商品生産と商品交換を軸とした経済活動を−−看過したわけでない。土台、「恒産なければ恒心なし」(孟子)という経緯は誰も無視できないでしょうからね。
しかし、政治活動もまた重要。それは趣味などではないか、もしくは、人間存在にとって欠くべからざる趣味なの、鴨。例えば、たかだかブログ運営にせよ「自分とは異質な他者に対して言葉で働きかける活動」を続けている身にはそれを痛感する。これ居酒屋の政治談議とかも同じ、鴨。公園でのママ友とのおしゃべりもまた。 でも、なぜ、いまどき、政治政党に入党。 というか、いまさら、なぜ自民党に入党。 だって、政党に入れば党則に拘束されるし、自分が属する支部や分会の議事決定などにも拘束されるかもしれない。つまり、そうそう好き勝手はできなくなる。というか、<自分とは異質な他者>を説得する手間とエネルギーは半端じゃない、鴨。すべからく、間違いなく面倒くさいですよ、それはね。 (><) 実例を一つ。群馬県や島根県、山口県や佐賀県といった保守王国とはちがい、あるいは、神奈川県のような安倍内閣のコアな支持派が自民党県連を牛耳るところともちがって、例えば、私達の郷里、福岡県大牟田市は−−現在はその元秘書の方が地盤を引き継いではいるにせよ−−、あの反日リベラルの古賀誠の選挙区。つまり、例えば、私が郷里で自民党に入党するとなると、支部や分会の同志党員には、古賀誠が誘致する公共工事の恩恵を受けている方々、あるいは、古賀誠の反日リベラル姿勢に共感しているか、少なくとも、反対ではない方々が少なくないということ。 いかに、アーレントの定義からはそれこそが公的領域の活動だとしても、正直、そんな「自分とは異質な他者に対して言葉で働きかける活動」は間違いなく面倒くさいです。 (><) 反日リベラルの古賀誠にせよ、しかし、自民党員である限りは、党則と党の機関決定には従わなければならない。そうくりゃー、福岡県には麻生太郎総理がおられるし、昔は、山崎拓・古賀誠と麻生総理が鼎立していた福岡県の自民党も現在では、実質、麻生総理の独壇場。まして、神奈川県は麻生派の牙城。なにより、現在、自民党総裁は安倍晋三総理その人。ならまぁー、少しの手間と労力を辛抱すれば自民党入党は悪くない、鴨。と、こんな事情は全国どこでも大なり小なり似たようなものではないでしょうかね。 【入党のご案内】 自民党に入党して、党員として自民党を支えてください。 入党資格 1.わが党の綱領、主義、政策等に賛同される方 2.満18歳以上で日本国籍を有する方 3.他の政党の党籍を持たない方 ◎「入党申込書」に氏名、住所、電話番号などを記入し、党費を添えて、最寄りの支部にお持ちください。 ◎党費:一般党員 年額4,000円、家族党員 年額2,000円、特別党員 年額20,000円以上 ◎お申込みには、紹介党員が必要です。お知り合いに党員がいない場合、ご地元の支部にご相談ください。 ◎家族党員として入党するには、同一世帯に一般党員1名が必要です。 入党に関するご質問は、最寄りの都道府県支部連合会ならびに各支部、HPまで。 要は、比較衡量の問題。そして、 自民党と言わず政党に入ることのデメリットはある意味明確。 1)面倒くさい! 2)時間が取られる! 3)4000円の年会費は痛い! それなのに б(≧◇≦)ノ ・・・4)勝手には行動できなくなる、鴨! 而して、自民党と言わず政党に入ることのメリットは・・・。古賀誠から公共工事の受注のお零れをもらうとか、麻生総理から就職の世話をしていただくとか、安倍総裁から結婚相手を紹介していただくとか、なんらかの実利が特に見込めない場合、政党に入党するメリットはなんなのか。それは比較衡量においてデメリットを凌駕する程のものなのかしら。 簡単な話です。政党に入るということは、些か、行動の自由を犠牲にしても、自分の信奉する政治イデオロギーや自分が好ましいと思う政策の実現に、たとえそれが蟷螂の斧にせよ、参加すること自体に喜びを感じられる、鴨ということに尽きる。自己満足。そう、突き詰めなくとも、アーレントの公的領域の活動の意義と価値は「自己満足」にすぎないでしょう。 但し、多くの保守派が「他の多くの保守派も自民党員になることに各々自己満足を覚えるに違いない」と了解する事態や状況を具現できれば、その活動は「主観的な自己満足」であると同時に「間主観的な政治の現実」にならないこともない。と、私はそう考えます。 つまり、ゴルフも麻雀も賭けなきゃ、 ただの暇潰しなのとパラレルに、 要は、旗幟を鮮明にしない者、 リスクを取らない者には、 б(≧◇≦)ノ ・・・勝利の歓喜も敗北の甘美も味わえない! でもって、安倍総理−麻生総理を支える一助、かっこよく言えば、貧者の一灯、ありていに言えば、その他大勢の一人になるのも悪くないんじゃないかい。なにより、私的領域におけるなんらかの実利と無関係に入党する保守派の自民党員が増えれば、それはその入党者の自己満足だけにとどまらず、−−例えば、福岡県大牟田市を含む選挙区で古賀誠の影響力を逓減させることも可能だろうし−−保守政党としての自民党自体の旗幟もより鮮明にできる、鴨。アメリカにおけるテーパーティー運動の成功を見るに、そう私は考えているのです。 ウマウマ(^◇^) では、なぜ自民党なのか? 元来、政党とは何なのか? 要は、「政党:party」は「部分:part」である。だからこそ、国会では、あくまでも私的な「政党」ではなく「会派」中心に人事も議事も予算も運営される建前になっている。すなわち、衆参両院とも全議席の三分の2を遥かに超える勢力を擁する政権与党といえどもそれは「国民の一部分」の支持を受けているにすぎません。ならば、その政権与党が「全国民」を代表して国家権力を行使するのは、土台、矛盾なのです。而して、その矛盾を回避するには、−−あくまでも、それは擬制にすぎないのですが、憲法的には−−真に全国民を代表する国会で、法案を巡って理性的かつ十分なる討議がなされた上で、繰り返しますが、「全国民の了承」を受けたという大義名分を入手した上で法案が可決されることが必要になる。逆に言えば、だからこそ政党には自由がある。 ・政党政治が機能するための共通の前提
・選挙制度と投票率
・民進党って「ド官僚」?
:民進党・小西「安倍総理はまともでない」「存在自体が違憲無効の総理」
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7fff34fc55cf329ddcbeefaea704930c けれども、どの政党も似たようなものではないのか。畢竟、1989年−1991年、社会主義が崩壊する随分前から、社会主義と資本主義の両体制が漸次接近する「収斂化」が見られるという考え方(Convergence Theory)がありました。この「収斂理論:Convergence Theory」は、1973年オイルショック以降の財政と金融のマクロ経済政策、すなわち、ケインズ政策を採用した資本主義諸国と社会主義諸国の比較においてはかなり成功したモデルではないかと思います。 この体制の収斂化とパラレルに、グローバル化の昂進著しい、大衆民主主義下の福祉国家を与件とするとき、すなわち、カール・シュミットの言う「全体国家」を前提とするとき、ある政党が政権を目指す限り、その政党が保守政党であろうとリベラル政党であろうと、実は、その政党がキルヒマンの言う意味での「包括政党」、すなわち、国民全体の利害を代表する−−少なくとも、国民有権者の過半から嫌われないような−−国民政党でなければならず、よって、どの政党の政策も「収斂化」せざるを得なくなる。 けれども、この収斂化を前提にした上でも−−例えば、予算配分から見てその90%が同じでも残りの10%の−−差違は必ずしも小さくはないのではないでしょうか。まして、日米同盟の強化、特定アジア諸国に対する対応といった外交、内政においても、選挙制度改革や官邸主導の強化等の政策推進のルールの変更、首相の靖国神社参拝、あるいは、教育現場における日の丸・君が代の尊重、まして、憲法改正および皇室典範の改正といったイデオロギー的イシューを含めれば−−日本を破壊した民主党政権と日本を再生しつつある安倍自民党政権の両者を想起するまでもなく−−政権政党の違いは大きいの、鴨。逆に言えば、だからこそ、安倍内閣に対して、ノアの洪水の時のような「ネガティブな印象操作」の恒常的集中豪雨攻撃をリベラルメディアは現在行っているの、鴨です。 つまり、収斂されない政策イシューに意味と価値を見いだすのならば、けっして、支持政党の選択は些事とはいえず、その選択は、アーレントが述べた公的領域の活動として国民有権者がコミットするに値することではないか。と、そう私は考えます。ならば、どの政党にコミットすればよいのだろうかとも。 この点で、古典的というか定番の「ノーランチャート」の社会思想理解、あるいは、中島岳志氏の政党の社会思想理解は、各自が「お気に入りの政党を選択」する上で参考になると思います。要は、ある政党が何を目指すのか、何を忌避するのかを知る上でそれらは便利ということ。 これに対して、山口二郎氏が度々掲げる次の図表は−−要は、2012年の「改訂版」である『政権交代とは何だったのか』(岩波新書・2012年1月,p.36ff)によれば、『戦後政治の崩壊』(岩波新書・2004年6月, p.92ff)では小泉構造改革の性格を見誤っていたらしいけれど−−、ある政党がどのように政策を進めていくかについても目配りしたと言える。ちなみに、私の政治思想理解に関するパラダイムをまとめた最後の図表は、保守主義がいかなる政治思想であるかを明らかにしようとしたものです。 要は、「現代の保守主義」とは、(1)自己の行動指針としては自己責任の原則に価値を置く、そして、(2)社会統合のイデオロギーとしてはあらゆる教条に疑いの眼差しを向ける、よって、(3)社会統合の機能を果たすルールとしては、さしあたり、その社会に自生的に蓄積された伝統と慣習に専ら期待する、換言すれば、その社会の伝統と慣習、文化と歴史に価値を置く態度と心性を好ましいと考える。而して、(4)その社会の伝統と慣習、歴史と文化をリスペクトする<外国人たる市民>に対しては、逆に、彼等の社会の伝統と慣習、歴史と文化を<国民>もリスペクトすべきだと考えるタイプの社会思想である、と。 いずれにせよ、例えば、民主党政権は「政治主導−脱官僚支配」を標榜しながら、その実、官僚と労組が猖獗を極める小泉構造改革以前の旧体制を復活させただけだった。つまり、民主党政権の言う「政治主導」とは、行政実務を任せる宛先を人脈的に自民党の与力だった「官僚A群」から民主党に尻尾を振る「官僚B群」に変更するだけのものにすぎなかった。そして、政官の連携は氷河期に入る。 逆に言えば、旧自民党政権下では、官僚が実質的に定めたそれら行政セクターの行動予定と与党の政治家が妥当と考えるそれとがほぼ同じだっただけではないのか。ならば、このより穏当な意味での「政治主導」は旧自民党政権下でも行なわれてきたし、安倍自民党が現在運用しているのもそのような、良い意味で<政官一体>の国民のための官邸主導の政治であろう。と、そう私は考えます。つまり、保守政党の中で自民党は唯一官僚と協働可能な力量と経験を持っている政党であるとも。 そして、更に言えば、――現在の所謂「加計問題―獣医大学規制の緩和撤廃問題」を想起すれば、それは赤裸々なように――労組ならびに業界団体といった既得権益勢力と長らくタッグを組んできた文部科学省に代表される古いリベラル派の官僚層、すなわち、岩盤規制を死守しようとするタイプの官僚組織と本当に戦えるのも自民党だけだということ。蓋し、このことも、最早、明らかではなかろうかと思います。
http://blogimg.goo.ne.jp/cnv/v1/thumbnail/3a/69/e750b72d333a52c4e02dcf2461467155_s.jpg?dw=600,cw=600,q=70,da=s,ds=n
これらの理由から、政党に入党することは悪い話ではない。
また、保守派にとって入党に値する政党は自民党しかない。
国民の知る権利が――マスメディアがその媒体容量のほとんどを
ワイドショー的にすることで、論理的引き算からは、この国の行く末や
政府の政策の是非を市民たる有権者が判断する情報の提供をサボタージュ
しており――冗談抜きに危うくなっている現在、そう私は確信しています。
而して、粛々と占領憲法の改正の実現。
頑張りましょう。共に闘わん❗
・まずは「加憲」でいいのではないですか
――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう
・<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想
−憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて
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北朝鮮に対する米国の先制核攻撃が――論理的には――「秒読み」段階に入り、また、確立した国際法秩序を無視する――田舎者の支那と南朝鮮をにらんだ――、安倍首相の「積極的平和主義」による支那包囲網の強化と南朝鮮の孤立化。これらのことを巡ってリベラル派が時に口にするコメントがあります。
それは「不幸な報復の連鎖」あるいは「不毛な軍拡競争」。
そんな「不幸な報復の連鎖」あるいは「不毛な軍拡競争」はやめよう、と。 私は、そんな、リベラル派の使う「不幸な報復の連鎖」あるいは「不毛な軍拡競争」という言葉にかなりいかがわしいものを感じています。はたして、人間が「無意味」とか「不毛」とかを断定できるものなのかと。そこには、人間の万能感と国家権力の万能感という傲岸不遜が横たわってはいないか。そう感じるのです。
ようは、リベラル派というのは常識がない天動説の方々なの、鴨
わたし、民進党とか朝日新聞とかのリベラル派を見ていると、
彼等は、口では、 >地球市民
>国際社会 とかしばしばおっしゃるけど、実は、自分を中心に世界と宇宙を廻してはるお子様ではないか。常識なしの天動説の人たちではないかと感じることがあります。少なくとも、保守派は「自国第一」なのだから、逆に、他国と自国の力関係とか過去の貸し借り関係とか真剣に考えているのに。いやー、これは冗談抜きにシュールな風景、鴨。閑話休題。
而して、実際、冷戦を終結させたのはレーガンの軍拡でしょう。 グローバル化の昂進を背景とした「不毛な軍拡競争」に 旧ソ連が耐えられず社会主義陣営は崩壊したのでは なかったのですか。 つまり、
少なくとも、「1989-1991」に至る国際政治の局面では、
軍拡競争は「不毛」ではなく「妥当」だったということ。 蓋し、人間の有限さを自覚する保守派は「完全な平和」なるものや「恒久の平和」なるものが実現できるとは端から考えない。そんなお伽話の世界の<平和>ではなくて、各国が各々その時代時代で相対的により安全な状況を実現するしかない、と。そのために外交と防衛の両面で努力する。そして、例えば、「国連安保理」というシステムは安全保障においてそうそう効果的なものではないのだから、各国が多国間の軍事同盟関係を強化するのは寧ろ当然のこと。
保守派とはそのように考えるタイプの人達だと思うのです。
ならば、近隣に「無意味」や「不毛」どころか「不気味」な軍拡を続けている支那があれば、また、その海洋進出の傾向が顕著であれば、資源を海外に頼る日本がシーレーンをより効果的に防衛するために行う自衛隊の増強と日米軍事同盟の再強化は「有意味」であり「妥当」なのではないでしょうか。繰り返しますけれども、一体、リベラル派はどういう根拠で「無意味」とか「不毛」などと断定しているのか。私にはそれが疑問なのです。
それは、ひょっとしたら、
ひょっとしたら、それは、 平和的な話し合いを通して国の安全をはかる道がある。
と、そう彼等は考えているのかしら。そして、相互の信頼関係の深化。 まさか、テロリストとの話し合い、例えば、「イスラム国」との話し合い。
例えば、2年前のヨルダン空軍パイロットの処刑がウェブ上で公開された現在、 また、パリでもロンドンでも繰り返されてきた自爆テロの連鎖・・・・
いかなイノセントなリベラル派も「イスラム国」とも話し合いを通じて、 かの地の紛争を解決できるなどとは言わないでしょう。 けれども、支那や北朝鮮に関してはリベラル派は話し合いで
東アジア地域の安全保障問題を解決できる。と、そう考えている節がある。 もし、この私の想定が満更間違いではないとすれば、
なぜ彼等はそう考えるのか。蓋し、そのヒントは、これまた彼等が時に 口にする「囚人のジレンマ」の喩、鴨。 なにその「囚人のジレンマ」って、それ美味しいの?
美味しいかどうかはわかりませんがそれは大凡次のようなもの。 ある犯罪で共犯関係にある囚人Aと囚人Bが、
別々に取り調べられているイメージ。 そして、例えば、
①自分が黙秘しているのに相手が自分を裏切り自白すれば
自分は最悪の懲役で相手は自由の身になる ②自分も相手も双方ともに相手を裏切り自白すれば双方ともに2番目に重い懲役 ③自分も相手も相互に信用して完黙すれば双方とも最も軽い懲役 になるという状況 そんな状況下に二人の囚人が置かれているとします。詳細は割愛しますが−−興味のある方は「ゲーム理論」とか「囚人のジレンマ」で検索していただければと思いますけれど−−、囚人Aと囚人Bは自分なりには<合理的>なつもりで行動選択をした結果、②双方ともに相手を裏切って愚かにも「2番目に重い懲役」を受けることになる。両者が協調すれば③の「最も軽い懲役」を双方ともに勝ち取れたのにね、というストーリー。
この「囚人のジレンマ」の喩をしばしばリベラル派は
軍拡競争や報復の連鎖にからめて使っているようです。 つまり、報復や軍拡が愚かな「囚人のジレンマ」状況に陥ることに
警鐘を鳴らすリベラル派は、例えば、支那や「イスラム国」と他の 諸国が情報を開示しあい相互に相手を信用することができれば、 このジレンマ状況をより有利に切り抜けることができるのではないか。 と、そう想像しているの、鴨。 けれども、もともと、「囚人のジレンマ」は経済活動において合理的なはずのプレーヤーである企業や家計や国家が、なぜ、時に非合理な行動を取るのか、とり続けているのかを説明するゲーム理論のパラダイムの一つ。すなわち、それは、各プレーヤーが持っている情報の非対称性と有限性が介在するところでは、その非合理的な結果こそ各プレーヤーにとっては<合理的>な「最適解」だという指摘なのです。
つまり、
囚人のジレンマ状況の中ではプレーヤーたる囚人Aと囚人Bが行う②の行動選択は
あくまでも<合理的>であり「最適解」なのです。 要は、(1)囚人Aと囚人Bの間の情報が遮断されており、また、(2)双方ともに相手を信用していない状況ではそういえる。そこで「お二人には−−③の「自分も相手も相互に信用して完黙して双方ともに最も軽い懲役」を勝ち取るという−−もっと有利な選択肢もあったんですよ」と言うのは、このゲームをプレーヤーの目線ではなく、外からの目線、あるいは、すべてをお見通しの人ならぬ身の神様の目線からの発言。
畢竟、それは傲岸不遜というもの。
もちろん、国際政治はオールオアナッシングなものではないのでしょう。 ですから、テロリストとは話し合いもすべきではないにしても、 支那との話し合いは不可欠なのでしょう、多分。 支那と日米を始め他の諸国が話し合い、支那とそれ以外の国々が 可能な限り相互の行動の予測可能性を高める外交努力を積み重ねる ことは貴重でしょう、多分。 そうすれば、支那の軍拡のスピードもある程度鈍化して、
日米を始めとした諸国の安全保障面でのコストも軽減できる、鴨。 けれども、
けれども、究極の所、国が違えば国益は対立する。
しかも、国が違えばその時点時点での国益も非対称的。 つまり、諸国家間では、(1)原理的に情報が遮断されており、また、
(2)現実的には、どの国も他の国を信用できない関係状況にあるということ。 例えば、そして間違いなく、
資源を求めて領土を拡張しようとしている支那、あるいは、
国内体制の維持のためには「人民解放軍」という名の中国共産党軍を 自転車操業的に拡大増強するしかない支那と、 シーレーンを安全に保ち自由な貿易が維持できる現状を確保しよう としている日本の国益は対立するしそれは非対象的。 そして、国益の対立と非対象性という経緯は、日本とアメリカについても
言えること。それが厳然たる国際政治の現実なのだと思います。 つまり、
究極の所、日本は自国を自分で守るしかないということ。
よって、日米軍事同盟をメンテナンスして再強化するためにも、 日本はもう唯一の超大国ではなくなったアメリカのできない部分を 一層積極的かつ効果的に担うしかないということ。 ことほど左様に、畢竟、「囚人のジレンマ」は寧ろ報復や軍拡が必ずしも愚ではないことを示唆する喩なのです。而して、「不幸な報復の連鎖」あるいは「不毛な軍拡競争」と述べる際に、リベラル派がもし「囚人のジレンマ」を念頭に置き援用しているのであれば、その議論はその前提からしてすでに破綻している。それは傲慢なだけでなく瓦解している。と、そう私は考えます。 最後に蛇足を。
極論すればですけれども、
白黒はっきり言えば、 蓋し、無意味な報復の連鎖こそ−−神ならぬ身の人間にとっては−−、
後から見れば、唯一意味のある<歴史>を作ってきたのではないでしょうか。 悲惨な宗教戦争と戦慄すべきフランス擾乱や魔女裁判の嵐を潜って近代の立憲主義が形成されたこと、ある意味、英本国政府による課税を巡る謂わば報復の連鎖によってアメリカ合衆国が誕生したこと、そして、なくてもよかったかもしれない戊辰戦争を経て明治の日本国家が作られたこと。
これらを想起するに私はそう考えないではないです。
これこそ保守派の穏当な認識ではないのかしらとも。 <関連記事>
・美味しんぼの因果関係−脱原発の背理 http://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7b/6a/19e82334f3d3705941b0f1962a9e67d0_s.jpg |
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すべての法学は「法とは何か」の問いへの回答である。
これが、私の恩師の一人、英国法哲学研究領域での世界的権威・八木鉄男先生から教えていただいたことのαでありωかもしれない。今、私はそう考えています。而して、本稿は「法とは何か」という問い自体を一瞥するもの。すなわち、「法とは何か」の問いを遂行するためのベースキャンプの設営の試みです。
而して、そもそも「法とは何か」という問いはどんな解答/回答を要求する問いなのでしょうか。
次の二つの疑問文でそのことを考えておきましょう。
(01)What is the color?
(02)What is color? 前者は、例えば、「新しい車を買ったんだよ。トヨタのプリウス」と言う相手に対して「その車の色は何色なの」と言うように、具体的なあるものの色を尋ねる質問。後者は、プリズムで太陽光を<虹>に変換して壁に投影しているような場面で、「色っていったい何なんだろうね」と呟く、哲学的と言えば哲学的、物理学的と言えば物理学的な、いずれにせよ、「色そのもの/色の本質」を問う、前者に比べればより抽象度の高い問いです。
而して、「法とは何か」の問いも実は、(01)(02)の両者とパラレルな
重層的な問いであると言えるの、鴨。蓋し、「法とは何か」は、
(01L)ある紛争を解決する上でそれに適用される法規や法慣習の内容を具体的に希求する問いであると同時に、(02L)その前提となる、「法とはそもそもいかなるものか/道徳規範や倫理規範等の他の社会規範と法はどう異なるのか/我々は法になぜ従っているのか」を尋ねる重層的な問いである、と。
そう私は考えています。「法とは何か」の問いは、しかし、それが憲法無効論の如き空理空論に終わらないためには、法が適用され効力を保持している(ある規範が遵守されるべきだと一般に考えられており、同時に、全体的には、また、その法規範を包摂する法体系総体としては現実に遵守されている)当該の社会のあり方を理解しなければならない。
かって、パブロフは、「鳥の翼が力学的に完全だとしても、真空の中ではその羽ばたきは空しい物体の移動にすぎないだろう」と述べましたが、「法とは何か」の問いが、よって、法哲学や憲法学が現実の紛争解決と社会統合に関して具体的現実的な貢献をしたいと思うのならば、法哲学や憲法学は法体系がそこに存在している人間社会に対する「構造的−実存的」な理解を深めなければならないのだと思います。
尚、構造と実存の両者の交叉する営みとしての「定義」という言語行為に
関しては下記拙稿をご参照ください。
・定義の定義−戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論−
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65200958.html ・保守主義−保守主義の憲法観
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html ・憲法と常識(上)(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-12161352990.html 制度と実存の二律背反と両面価値 あるいは読者の皆様から顰蹙を買うのを承知で本稿では「性」を一つの切り口に、人間社会の実存的あり方を構造的に、あるいは、人間社会の構造を人間の実存の観点から考えます。蓋し、文化人類学の知見が教えてくれているように、「性」は「言語」「交換」「権力」とならび、あらゆる文化と文明を構成する主要な制度でしょうから。而して、「法=権力」を「言語」のアナロジーにおいて一瞥しようとする本稿において、人間実存の社会的あり方を検討する予備作業の切り口としては「性」は格好のもの。そう考えるからです。 ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』(1954年)、ジョゼフ・ケッセル『昼顔』(1929年)やジャン・ド・ベルグ『イマージュ』(1956年)。そして、これらほどの<権威>はフランス文学界では持っていないのですが(というか、映画の成功に比べれば原作は三文性愛小説と看做されているのが正直な所でしょうが、)エマニエル・アルサン『エマニエル夫人』(1959年:映画化は1974年)も(その異文化趣味を超えて)、我々が「制度」というものを理解する上での素材を提供しているのではないかと思います。
松田聖子さんや安室奈美恵さんが、堀北真希さんや吹石一恵さんが、母であり歌手/女優でもあるように、人間存在は、不可避的に、かつ、同時に複数の役割や規定性を帯びている。而して、人生も時間も本質的に有限でかり、かつ、不可逆的。更には、本質的にはある瞬間には(他者の視点からは、複数の規定性を帯びているように見えるとしても、自己の「行動選択」としては、)ある一つの役割や規定性しか演じられない。少なくとも、複数の役割と規定性をある一つの瞬間に演じることは難しい。
このような人間存在の実存を踏まえる時、自分が帯びる複数の規定性や複数の役割をどう調整していくのか。この点の解決が人類の「智恵」であり、その「智恵」のタイプが文明や文化に他ならない。と、そう私は考えます。
人間存在の実存をこう踏まえた上で、この「同時に複数の役割や規定性を帯びざるを得ない人間が、それらを遂行するプライオリティをどう調整するか」の解答の一つが「制度」ではないか。例えば、妻の顔と娼婦の顔を持つ『昼顔』のヒロインがその解決を、昼間だけ娼館に通う<スケジュール>で解決したように、また、『O嬢の物語』や『イマージュ』のヒロイン達が、自由と平等を愛する(と自称する)フランス人としての自己のアイデンティテと<奴隷的被虐>に快楽を覚える自己の実存の亀裂を<契約>によって解決したように。
ならば、制度は(偏微分方程式を解く要領とパラレルに)、ある局面では、ある人間存在の実存の過半を捨象して抽象化し、単一の役割や規定性を人間に与えるのだけれども、その裏面としては、その制度によって、その同じ人間は他の時間と空間においてはより効率的に自己の実存を発揮できるのではないでしょうか。エマニエル夫人が若妻という社会的規定性に拘束されながら、同時に自己の心の声に従い快楽を追求する重層的な生活に入ったように。畢竟、制度と実存は二律背反的であると同時に両面価値的でもある。と、そう私は考えるのです。
而して、個人の人間存在の実存と制度を巡るジレンマとアンビバレントな関係は、「権力−権威」の制度についても言えるのかもしれない。生身のある人間を「天皇」として処遇する制度は、彼や彼女達に「国の象徴」という地位を配分することで、社会全体としては効率よく社会統合と社会の秩序維持を保障する(自然からの脅威、他国からの脅威、自国の権力の脅威、社会の他のメンバーからの脅威という4個の脅威から国民を守り、国民に対して最大多数の最大幸福を保障する)<システム>の一斑なのかもしれないということです。
蓋し、例えば、(天災や革命は皇帝の不徳の致す所という)支那を始め様々な文明で観察される「神人交感観」に基づく権力運用のあり方も、物象化した社会秩序を含め人知を超えた自然との共生を不可避とする人間存在が、権力支配の正当化事由に自然の脅威からの国民の保護を織り込んだ結果なの、鴨。
而して、「天皇制」に関する私の基本的な考えについては
下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。
・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b699366d45939d40fa0ff24617efecc4 ・天皇制と国民主権は矛盾するか(上)〜(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11136660418.html 機能英文法から見た法の概念 世の中には「裁判員制度は憲法違反だ」とか「日本国憲法は大日本帝国憲法に違反しており無効だ」と述べている方がおられるようです。他方、安全保障法制は「立憲主義」を踏みにじるもので違憲であるとかも。本稿では具体的に憲法論を展開するものではありませんが、−−それを論じるにはいささか大仰な道具立てが不可欠なものですから、立憲主義を巡る私の考えについては割愛して、ここでは、しかし、−−より具体的な事例を念頭に置いて以下の説明を読んでいただくべく裁判員制度違憲論について簡潔にコメントしておきます。 尚、立憲主義および所謂「憲法無効論」に関しては
下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・保守派のための「立憲主義」の要点整理
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3 ・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f ・安全保障関連法案を巡る論評雑感−−憲法学者の違憲表明の法哲学
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c3f83e0ee381182fb5b90b0e5f0f7f0a ・瓦解する天賦人権論−立憲主義の<脱構築>、
あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)〜(9) http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79 ・憲法無効論の破綻とその政治的な利用価値(上)〜(下)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11396110559.html 裁判員制度違憲論の根拠は、憲法32条「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」、同76条1項「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」、そして、最高裁判所と下級裁判所の構成をそれらの裁判官の要件を定めることによってのみ規定している79条及び80条だそうです。蓋し、
「裁判所の裁判を受ける権利は奪われない」→「裁判所を構成するのは裁判官」
→「裁判官でない裁判員が裁判所を構成することを憲法は想定していない」 →「実際、「裁判員」の規定など憲法のどこにも書いていないじゃないか!」、と。 確かに、「徴兵制を採用する諸外国の憲法を見てもその多くは「徴兵制」や「国民の国防の義務」を規定している。よって、それらの規定を欠く(国民の自由の重大な制限である)「徴兵制」は憲法違反だ」という論法と同様、「裁判員」の規定が憲法に欠けていることを根拠とするこの裁判員制度違憲論はそれなりに傾聴に値するの、鴨。 しかし、具体的な規定がなければ、憲法の原理原則から、それも見当たらない場合は憲法の本性や概念から妥当な解釈を導き出すのが憲法学というもの。ポイントは、原理原則、憲法の本性や概念を恣意的に捏造するのではなく、「論理的−社会学的」にそれらを間主観性のある形で抽出すること。
ならば、現行憲法解釈の原理である民主主義から見て、司法に国民が参加することは(規定が存在しない以上、憲法の要請ではないとしても)現行憲法に違反するとまでは言えない。と、そう私は考えます。
・<再論>応報刑思想の逆襲(←裁判員制度についてはその(5)で些か詳しく説明しています)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/96510cf17d1e91d2471c047147362d70 ことほど左様に、憲法の規範意味は憲法条項の字面だけではなく、
①憲法に内在する原理原則
②憲法を巡る慣習 ③憲法の本性および概念 から導かれる。そして、繰り返しになりますが、①〜③を見出す作業は、「論理的−社会学的」で反証可能性のあるものでなければならない。なぜならば、(法の解釈を「発見」と考えるにせよ「創造」と割り切るにせよ、)そのような「論理的−社会学的」あるいは「論理的−歴史的」なものでない限り、その解釈内容に、誰も(特に、その解釈結果を好ましからざるものと感じる人にとっては)、自分が拘束される義務も義理も道理も感じることはないでしょうから。その場合には、彼や彼女を当該の解釈に従わせ得るものは「実力の裏付け」だけになってしまい、要は、その解釈には法としての妥当性も実効性も観察されず、畢竟、その解釈内容が憑依した法は、法としての効力を保持していないことになるからです。
老婆心ながら付け加えれば、(甲)憲法規範の枠組みは憲法の条規と①〜③によって確定されるとしても、(乙)多くの場合、憲法規範の具体的内容、特に、憲法訴訟や国会と行政の実務を現実に規定する具体的な内容は、④国民の法意識(何が憲法規範の意味であるかに関する国民の法的確信)と⑤憲法慣習によって肉付けされる。と、そう言えると思います。
而して、例えば、『A Practical English Grammar』(Oxford, 1986年)によれば、 (03)Alice said to me, “I’m leaving.”
(04) “I’m leaving,” Alice said to me. 所謂「学校文法」では(03)(04)も「「私は出で行くところです」と私にアリスは告げた」の意味であり文法的には正しいとされるのでしょうが、耳目を引き付けるのが「目的−機能」である引用文が後置されることは矛盾であり、実際に、英語のネーティブスピーカーが(03)を使うことはまずなく、よって、機能英文法の観点からは(03)は間違いとされます。同様に、 (05)There is the money in the box.
(06)There is money in the box. この事例でも、There構文の主語は、聞き手/読み手にとって「新情報」でなければならず(例えば、「昔々、おじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんはやまに柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行きました」の「が」と「は」の使い分けとパラレルに)、(05)の主語に「旧情報」を示す定冠詞が付いているのは機能英文法の観点からは間違いなのです。 これら機能英文法が記述する英文法のルール、否、言語ルールを機能英文法が発見するやり方こそ、憲法解釈において憲法典の条規を超えて憲法規範の内容を間主観的に見出す営みと極めて近い。蓋し、「法とは何か」の問いに答える作業は、それが経験的なものとしても「闇の夜に鳴かぬ烏の声を聞く」 (一休)作業に近いの、鴨。と、そう私は考えています。
而して、蛇足ながら最後にエピソードを一つ。
東京大学の法哲学の初代の専任教授であった尾高朝雄先生は、弟子には、
必ず何か一つの実定法の専門家でもあるように指導された由。
一番有名なのは、例の「自衛隊の違憲合法論=自衛隊は憲法典の条項に違反して違憲ではあるが、全体としての憲法体系の秩序の中では、最早、合法的な存在であるという主張」を掲げて、当時の石橋社会党体制の現実化路線に寄与した小林直樹さんの憲法。
而して、お茶の水女子大の学長を長らく勤められた井上茂先生の商法、世界的にも有名な法哲学者である大阪大学(その後、学校法人成城学園理事長)の矢崎光圀先生の民法などは、(憲法に転向した小林さん以外は、<専門家>の縄張りを荒らすのも下品なので、)専門論文こそ書かれなかったものの各々その実定法解釈領域でも一流、一級品。
そして、「このひと「六法全書」一度でも見たことあるんかいな」と(関西の法哲学研究者の、おそらく)誰しも感じた、あの東京大学の法哲学の(正/主任)教授だった碧海純一さんも、実は、民法とかすこしは勉強してたらしい(←同じ尾高門下のMYとSIの両先生にKABUが直接聞きました!)。
加之、また、英米でもドイツでも(フランスは知りませんが)、学部レベルではですけれども、ある教授が刑法と民法、憲法と民法、刑事訴訟法と法哲学等々、複数の科目を、しかも、同学期に講義するのもそう珍しくはなかった。これこそ、複数の規定性の同時実現の好例、鴨。・・・尾高先生の孫弟子の長尾龍一さんや井上達夫さんなんかはどうなのかな(笑)。
而して、私がこの、尾高門下と英米独のエピソードを通してお伝えしたかったことは、蓋し、(ⅰ)法哲学と実定法の交錯というか相互乗り入れの戦略的価値ということと、(ⅱ)憲法学プロパーの思索においても、個々の事例の観察から機能英文法的の法則を抽出・収集する労を惜しんでは、「論理的−社会学的」で間主観性のある解釈に到達するのは難しいの、鴨。と、そういう感慨です。
・法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11147077543.html ・法律の<KABU>基本書披露(←リストの後に関連するコメント書いた、鴨)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b28418c4048490fe56a8795d70075e97 |
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January 22, 2012 10:07:32
その旧稿で私は概略こう述べました。
現下の「民主党代表選外国人関与問題」は憲法訴訟の地平では違憲とは必ずしも言えないが、それは(訴訟によってではなく、憲法慣習の形態において機能する)「憲法の趣旨」の一斑たる国民主権原理に明らかに反する。よって、民主党に対しては、「民主党代表選挙=憲法の趣旨違反」という批判を政治的に投げつけるべきだ、と。
この主張の前提は次の如き認識でした。
(1)政党は本来的に<私的>な存在である
(2)現行の日本国憲法は議院内閣制を採用しており、よって、現行の<憲法>は政党の不可欠性を想定している。尚、<憲法>とは、憲法典・憲法の事物の本性・憲法の概念、そして、憲法慣習という、いずれも、間主観的に認識可能な諸規範が編み上げている「国の最高法規の体系」の意味である
(3)政党政治の醍醐味は、国民の一部分の利害と価値観を代表する<私的>な政党が、国政選挙と国会での首班指名等の所定の手続を踏む中で、期間を限定的して、あたかも、国民全体を代表する<公的>な国家権力の担い手になる経緯である
(4)政党は<私的>と<公的>の両面を抱える両義的存在である。而して、例えば、国民主権原理、あるいは、結社の自由・政治的な表現の自由といった<憲法>に内在する価値をどの程度まで<憲法>が政党に強制できるのか、その裏面として、政党に対する助成金等の恩恵はどの範囲までなら<憲法>の許容するものと言えるのかという点を巡っては、現実政治的のみならず社会思想的にも二律背反的の緊張関係が見出せる、と
尚、これらの認識に関しては下記拙稿をご参照ください。
・「ねじれ国会」の憲法論と政治論
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/893fcd63af5ca96e82cde306845c66ab ・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)〜(下)
http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/65231299.html 政党を巡って<公>と<私>の織成す二律背反模様。しかし、これは日本だけの現象ではない。より間主観的な相でこの矛盾を把握すべく、次に、アメリカ憲法の運用の実際を一瞥しておきましょう。
◆政治政党と憲法訴訟 アメリカでは、(大統領選挙の予備選挙だけでなく、数多の<公>の役職に対する)共和・民主の各党の候補者確定のための予備選挙が、おおよそ、各州政府の費用と規制の下で実施されています。けれども、アメリカ憲法典には「政党」という文字列は存在しない。 而して、「カズンズ対ウィゴダ事件」(1975年)を嚆矢とする諸判例を通して、政党はアメリカ憲法修正1条から演繹される結社の自由を享受する存在、すなわち、あくまでも<私的>な存在と位置づけられている。よって、ある一線を越えた州政府の規制や助成は<私的領域>への<公的権力>の不適切な容喙として憲法違反とされるのです。
重要なことは、州政府の容喙が、ある一線を越えたかどうかは憲法訴訟を通じて判断され、かつ、その憲法訴訟においては(州政府側にとって最も不利な)厳格な審査基準と合憲性判断基準が適用されることです(ちなみに、アメリカには特別の「党員資格」なるものは、原則、存在しません。各地の選挙管理委員会が管理する、一種、住民票的なプロフィール登録の際に支持政党をチェック(☑)すれば、予備選挙に関してはそれが「党員登録」なのです)。
蓋し、前稿で述べた、憲法論的な「政党の事物の本性」を踏まえるならば、アメリカ憲法の運用の実際は、現行の日本国憲法の理解としてもまずは妥当なものではないかと思います。
ここで(H.L.Aハート、ドウォーキン、フラ−、ラズ等々、現在の分析法学に分類される)英米流の法思考を借用すれば、<憲法>の内部には、(イ)具体的に国家権力の行動規範を定めている「準則」と、(ロ)目標や理念を定めただけの「原理」の両極がある。而して、憲法保障に関しては、(イ)の極の近傍にその座を占めている規範を巡っては憲法訴訟による憲法保障が適切であり、他方、(ロ)の極の近隣に位置する規範の憲法保障は憲法慣習の再構築の営みを通して政治的に解決するのが妥当であろうと思います。なぜならば、「原理」の具体的な内容の確定は困難であり、それは、共約不可能なイデオロギー的対立を呼び寄せかねないからです。
敷衍すれば、(イ)党員資格要件に対する<公>の容喙が現行憲法21条の定める「結社の自由権」の侵害かどうかの確定には「憲法訴訟」の回路を、他方、(ロ)外国人が関与した代表選挙が現行憲法の前文に謳われる「国民主権原理」の侵害であるか否かの確定のためには「政治闘争」の回路を選択した方が、一般的には、より合理的であろうということです。
而して、では、例えば、国民主権原理が現実を拘束する枠組みとして機能するかどうかは、<政治の競技場>における国民主権原理を錦の御旗に掲げた勢力の勝敗次第ということなのか。
◆外国人の政治活動の自由と国民主権原理の位相と相貌
所謂「党議拘束」を前提にすれば、与党の代表選挙とその後の国会での首班指名選挙は一体のものではないだろうか。もしそう言えるのなら、実質的に次の首相を選ぶ与党の代表選挙に外国人が関与する事態は明らかに国民主権原理と抵触する。このように重大な憲法違反のケースでも、そこで問題とされる規範が「原理」に属する限り、憲法訴訟の回路による憲法保障は不可能もしくは不適切なのか。
前項の主張に対しては、あるいは、このような疑問が呈される、鴨。
而して、この問いに対する回答は「肯」です。蓋し、イデオロギー的な紛争の解決はあくまでも<政治の競技場>で図られるべきであり、他方、<憲法>の規範を巡る現実具体的な紛争は憲法訴訟を通してなされるべきということ。
しかし、そうであるがゆえに、逆に、「原理」を巡る紛争でも、それが憲法訴訟に馴染むタイプの紛争は、憲法訴訟の回路を通して解決されるべきである。あくまでも、<憲法>を「原理」と「準則」に区別する作業は、最適な憲法保障の回路発見のための手段にすぎないのですから。最後に、この経緯を「民主党代表選挙外国人問題」を材料に使い敷衍しておきます。
(甲)憲法は政党の党員資格について白紙である
政党が本来的に<私的>な存在である以上、その党員資格の唯一あるべき内容を<憲法>から演繹することはできません(つまり、「外国人党員の是認」も「外国人党員の否定」も等価であり許されるということです)。 この認識に対して、例えば、「政党交付金が支給されている以上現状の政党が私的団体とは言い切れない」という議論は成立しません。上で紹介した、アメリカの予備選挙に対する州政府のコミットメントを想起していただければ自明なように、喩えれば、ある企業が公の補助金を受けるのと引き換えに、その補助金の使途や成果を行政に報告する義務を負う事態とこれはパラレル。つまり、政党助成金の存在と、<憲法>のある規範の尊重をどこまで政党に要求できるかは別次元の問題ということです。
(乙)国民主権原理と外国人の政治活動の自由
国民主権原理、すなわち、現行の日本国憲法が「国民」に限定している「国政参加」の権能とは、ディノテーションとしては、オフィシャルな選挙権・被選挙権の付与の意であり、コノテーションとしては「日本国籍を保有している者のみが、運命共同体としてのこの国の進むべき進路を決定すべきだ」という「原理」の表明と理解すべきであろうと思います。 なぜならば、①政治活動の自由自体は日本国民に限定されるものではなく、また、②例えば、帰化前の呉善花・金美齢両女史の影響力を想起するまでもなく、外国人や外国のエージェントの実質的な影響力を政治から一切排除することは適切でもなく、また、土台、不可能だからです(イエーリングが喝破した如く、「法は不可能を誰にも要求しない」のでしょうから)。
人権や自由の憲法的な規制と保障には、(a)保障の段階(禁止は不可の段階)→(b)容認の段階(ニュートラルな段階)→(c)禁止の段階、があります。而して、外国人の人権保障に関するリーディングケースである、所謂「マクリーン判決」が、「外国人の政治活動の権利は憲法が保障するものではない」(=禁止するものでもない、要は、許容の段階にある)と述べていることが重要。
畢竟、極論すれば、党員のほとんどが外国人の政党があり、その政党が極々少ない日本人党員を選挙に出馬させ、かつ、相当程度の日本人有権者の支持を受けて、結果的に、政党助成金を受けるとしてもそれは現行憲法違反ではないということ。実際、社民党などはそこまでもう半歩ではないでしょうか(笑)。
而して、政党の範囲を定めている政党助成法2条及び政治資金規正法3条1項と、国政参加の権能を国民に限定している現行憲法典とも矛盾しない。他方、この同じ法理から、謂わば「外国人党員排除法」なる法規もまた違憲にはならないことになる。畢竟、外国人を党員とする政党が政党助成金を公布されること、あるいは、政権与党になることと、ディノテーションとしての国民主権原理の間に矛盾は存在しないのです。
(丙)憲法訴訟による国民主権原理の保障の要件
コノテーションとしての国民主権原理の具現は<政治の競技場>で行なうのが手筋ではある。しかし、次のような場合には憲法訴訟の回路を通っての憲法保障も可能と考えます。すなわち、 ①与党の代表選挙から国会での次の首相の指名までの間に国政選挙が介在しない場合、かつ、②不特定多数の外国人の意向が、あるいは、ある特定の国の組織的な関与が与党の代表を実質的に決める場合。
このような事態が惹起した場面では、「政党の事物の本性の一斑たる党議拘束」の存在を鑑みれば、すなわち、政権与党の代表選挙とその後の国会での首班指名が実質的に「一体のもの」であることを鑑みれば(代表選から国会の首班指名までの間に当該の与党が分裂する可能性も皆無ではなく、また、論理的には、与党の議員には「党議拘束に従わない自由≒離党の自由」もあり、よって、「一体」という表現が誇大であれば、少なくとも「一連のもの」であることを鑑みれば)、それは、「日本国民のみが、この国の進むべき進路を決定すべきだ」という国民主権原理の、(ⅰ)明白かつ現在の侵害の危険性そのものであり、かつ、(ⅱ)より制限的でない他の取りうる手段(LRA)も存在しないと考えられる。
ならば、この様な場面は、それが「原理=コノテーションとしての国民主権原理」侵害のケースでもあるにかかわらず、解決されるべき紛争が具体的であるがゆえに憲法訴訟の回路を通してその代表選挙の違憲と無効を争う必然性がある。と、そう私は考えています。
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