松尾光太郎 de 海馬之玄関ブログ

大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた「戦後民主主義→リベラル派」を果敢に批判します

憲法問題

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安倍さん、これでも玉串で誤魔化すようならマジにチキンだぜwww

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首相の靖国参拝「違憲」訴訟、市民側の敗訴確定

12/22(金) 20:17配信

  
読売新聞

 安倍首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に反するなどとして、市民277人が安倍首相と靖国神社、国に1人1万円の損害賠償などを求めた訴訟の上告審で、最高裁第2小法廷(山本庸幸裁判長)は20日付の決定で、原告側の上告を棄却した。

 請求を棄却した1審・大阪地裁と2審・大阪高裁の判決が確定した。

 1、2審判決によると、安倍首相は2013年12月26日、靖国神社を参拝。公用車で訪れ、「内閣総理大臣 安倍晋三」と記帳し、私費で献花料を納めた。

 最高裁は06年、小泉元首相の参拝に対する訴訟で、憲法判断を示さずに原告側の訴えを退けており、今回の1、2審判決もこの判断を踏襲。合憲か違憲かの判断は示さず、「首相の参拝が原告らの信仰を妨げたり干渉したりするものではなく、損害賠償の対象とはならない」などと指摘した。

憲法20条に抵触しないと言ったも同然の判決だ。

原告プロ市民らは1人1万円という少額な賠償請求をしている。もしも「1人1万円なら支払ってもいいんじゃね?」という判決が出れば、原告全面勝訴となる。
それは額面以上に日本国にとって手かせ足かせとなって将来を縛るだろう、
原告プロ市民らの狙いはまさにココにあったと思われる。

憲法20条とは信教・結社の自由をいう。
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
原告プロ市民らはこのうちの第3項を盾にとって「俺らの気持ちが踏み躙られた」として損害賠償を請求したのであろう。 
しかし、第3項の意味は「国は特定の宗教を応援しない」という意味であって、別に首相が靖国神社にお参りしたからと言って、国民に強制したり推薦したわけではない。
首相は伊勢神宮や明治神宮にも参拝されているのだが、それを以て憲法20条違反として訴えられた例は寡聞にして聞かない。
その一事をもってしても、原告プロ市民らは靖国神社を貶める為に訴訟を提起したと思われ、今回の最高裁判決は日本の良識を示してくれたと思う。

ズバッと憲法判断までしろよ!問題無いってな!

オイラに言わせりゃ首相が靖国神社を参拝するのは義務だ。
首相は自衛隊の最高指揮官でもあり、イザという時には「死んでくれ!」と言わねばならない立場になるかも知れない。
それが死んでくれた後は知りませんでは彼らの忠誠心の使い捨て
許される事では無いよな。
首相は国会議員から選ばれるのだから、国会議員になった時点で首相になる可能性はゼロではなくなった。
だから本当なら(唯物論の狂惨党を除く=狂惨党が来たら石を投げて追い返そう)政治家全員が参拝すべきお社なのだ。予算を付けて「戦え!」と決議するのは議会だからだ。

出来るだけ多くの国民にも参拝して頂きたい。
靖国神社は国を守って戦地に倒れた人を祀っているのだが、追悼施設ではなく顕彰施設なのだ。
お参りすることは英霊を顕彰する事であり、「イザとなったら英霊に続きます」という意思表示でもある。
それを見た外国は「うっかり日本に手を出せないぞ」と考えるだろう。
即ち、国防の原資なのだ。
だから支那や走狗の朝日新聞などは靖国神社をディスるのだ。

できれば天皇陛下にも御親拝賜りたい・・・・・・

オイラもここ2年くらい行ってないから、来年は行きたいなと思う。
いや、九段下の一茶庵が閉店してしまったから足が向かなくなったというのとは違うんだが・・・・・・・・
(ホントにそうか?)



転載元転載元: 皇国の興廃懸りて原子力にあり


 
 
本稿は下記拙稿の続編というか余滴(「解題」的な後書き)です。而して、実は、朝日新聞の「(憲法を考える)「改憲」ってなんのために? 本来はどうあるべきか…ケンポウさんに聞く」(2017年10月31日)という記事を目にしたとき、「改憲」についての朝日新聞というか日本のリベラル派の本音――衣の下の鎧の狙い――がストレートにまとめられていると感じていました。ということで、例によって、些か、下記の本編記事は「背景的の説明が割愛されていて難解」というコメントを頂いたこともあり(涙)、補足説明する材料にその朝日新聞の美味しい記事を使わせてもらいます。
・海馬之斬鉄剣:朝日新聞の素人憲法論を一刀両断
 ――改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」は立憲主義と矛盾するか
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e372d22758b73b9f66f9e94aa94f6e48

畢竟、朝日新聞の「衣の下の鎧が狙うもの」。
そのようにわたしが考えるものは、
(1)日本に特有な所謂「近代立憲主義」からの改憲動向の批判
(2)「近代立憲主義」に基づく憲法観保持の要求
蓋し、わたしは朝日新聞等の日本のリベラル派がこれら2点を主張されるのは彼等の勝手であり、改憲の是非は最終的に「憲法改正の国民投票のアリーナ」または「国会および内閣による占領憲法の破棄宣言と国民のそれに対する賛同」で決着がつく類いの遂行論的な政治マターであるとそう謙虚に理解しています。古来、国難の際を除けばおおよそ日本国には信教の自由があるのですから、「日本国=天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの国の<憲法=実定法秩序の核心>さえ踏み外されない限り、リベラル派の方々が狸と踊ろうが狐を拝もうが鰯の頭を珍重されようがそれは自由というもの。
例えば、「立憲主義の古典的な考え方からすれば、主権者=国民の意思を持ち出しても踏み越えられぬ【権力行使の】限界を定めるのが憲法である」(樋口陽一『いま「憲法改正」をどう考えるか 「戦後日本」を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年, p.127)とリベラル派の方が思われるのは全く自由。だけれど、そのような――「憲法」や「国家」を巡る――表象や認識はハンス・ケルゼンの使う言葉の正確な意味で単なる「イデオロギー」にすぎないとわたしは見ています。そして、このことは、現在の世界の唯一の現役の社会科学方法論たる分析哲学系現象学流新カント派の憲法基礎論(≒ゼロベースから「憲法」の概念やその法としての効力根拠、ならびに、実定憲法の具体的な規範意味を間主観的に発見・設定する方法論を究明する法哲学的な思索体系、鴨。)からも検算されるだろうということもまた。
・法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
 https://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11147077543.html
わたしが、よって、朝日新聞を始め日本のリベラル派の改憲動向への批判に傲慢さと狡猾さを感じることはただ1つ。それは、現在では日本に特殊で特有のものとしか思われない、かつ、リベラル派の仲間内でしか神通力を持たない「近代立憲主義」「近代立憲主義からの憲法観」という単なるイデオロギーを、①普遍性を備えた世界のスタンダードであると詐称し、②日本の有権者国民よって国会と内閣と司法の三権を拘束する規範性があると喧伝し、③敗戦利得者の巣窟であるマスメディアを動員して、――日本の有権者国民の2割りにも満たないリベラル派以外の――保守派の有権者国民に押しつけていることです。
 

◆朝日新聞の「衣の下の鎧」を観賞しましょうコーナー
▽「改憲」ってなんのために? 
 本来はどうあるべきか…ケンポウさんに聞く
 (監修=高見勝利さん⬅本編記事でも大活躍だった方)
 尚、【xx】の部分はKABUの補足説明です。
■憲法を考える 視点・論点・注目点
衆院選では自民党が大勝し、公明党とあわせて憲法改正発議に必要な定数の3分の2を超える議席を確保しました。安倍晋三首相は2020年の新憲法施行をめざしていますが、憲法改正って「数」さえそろえばやっていいんでしょうか。日本国憲法を擬人化した当欄のキャラクター「ケンポウさん」と考えました。
■国の設計図…変えるのは最後の手段に
――衆院選の結果を受けて、憲法改正議論が加速しそうだと言われているね。ケンポウさん、憲法は変えた方がいいの? 変えない方がいいの?
その質問、いつもちょっとイラッとします。私は前文のほか、補則を含め全103条もあるのに、何のためにどこをどう変えるのかという前提抜きに、まるっと改憲に「賛成」か「反対」かって。中身を示さず「民法を変えることに賛成か反対か」と聞きます? 私のこと、いったいなんだと思っているんですか。
――うーん……。一番大事な法律? よく「国の最高法規」って言うよね。
・・・私は、国のしくみと政治のあり方についての基本を定める法です。国を「建物」とするなら、私はその「設計図」。さらに私は思想や信仰、表現の自由など、一人ひとりの権利を守っています。何を信じるか、どのような価値を大切に思うかは、多数決で決めるものではなく、一人ひとりが自分で判断すべきことです。「最高法規」の本質もここにあります。・・・
――でも、時代は変わっている。君も変わった方がいいんじゃない?
私は基本的なことだけを図面にして、時代の推移と現実の変化への対応は法律に委ねているんです。新しい法律をつくったり法律を手直ししたりして変化に対処すればいい。法律で対処できる問題を、私を変えることで解決しようとするのは憲法改正の本質に反する改正権の乱用です。
――じゃあ、どういうときなら変えていいの。
法律をつくって対応しようとしても、私が明らかなハードルとして立ちはだかるとき。乗り越えるには憲法改正しか手のない場合です。ただ、その場合でも、私をうまく使って法律をつくれないか、確かめるのが先です。・・・
■「変えたい」「大事に」…おもちゃにしないで!
・・・自分で言うのもなんですが、私を変えるには膨大な政治的エネルギーとコストがかかります。最後は国民投票にかけなきゃいけませんし。首相自身が「国難」だなんて言っている今、私を変えることにエネルギーを注ぎ込んでいる場合ですか? 教育無償化を進めたいなら、法律をつくってやればいい。参院選の合区解消も、選挙制度を変えれば済む話です。私は何も止めていませんよ。できることからコツコツやるのが政治なのに、みんな私に執着しすぎです。私を変えたって、世の中良くなりませんよ!・・・
「憲法改正に賛成ですか、反対ですか」という意味不明の問いから早く脱して、私のことをもっと理解してほしいです。
(以上、引用終了)

 

◆朝日新聞の「衣の下の鎧」を検討しましょうコーナー
蓋し、「憲法改正」を巡るこの記事の主張の要点
――衣と鎧のパーツ――は次の如きものでしょうか。
立憲主義からの改憲に関する帰結
(衣1)改正是非の一般論ではなく何条を改正するかが問題なのです
(衣2)憲法の改正は――法律の制定や憲法解釈の変更等によっては――現実の問題がどうしても解決できない場合にのみ許されるのです
立憲主義の基盤となる思想的根拠
(鎧1)憲法は人権を守るために国家権力を縛るものです
(鎧2)個人の尊厳が――よって、そこから演繹される諸々の人権が――最上位の価値を帯びるということの普遍性の前提のもと、現在の憲法(立憲主義的な憲法)はその条項の内容と構成が定められており、また、その条項は解釈・運用されなければならないのです
実は、(衣1)(衣2)に関しては本編記事で些か詳しく反駁しています。よって、ここでは本編の繰り返しになりますけれど2点申し添えておきます。
穂積八束御大の「民法出て忠孝滅ぶ」の決め台詞が炸裂した、所謂「ボアソナード民法」の民法典論争(改正・施行延期論争)、あるいは、サヴィニーとティボーによる信玄・謙信の川中島での一騎討ちが如き白熱の論争が伝説化しているドイツにおける法典論争を持ち出すまでもなく、「「民法を変えることに賛成か反対か」と聞きます?」の問いは「Yes」でもあるのです(笑)。
そんな些細なことには目を瞑るとして、問題は、本編でも述べたように「立憲主義」という言葉は――大正期の我が国ではそれは「藩閥打破➡衆議院に責任を負う議員内閣制」の要求とほとんど同義語であったのに対して、現在の日本のマスメディアでは、良くて「リベラルデモクラシー」、而して、実際のところは「反安倍政権」の語義であるように、――実に、ソ連崩壊後や<9・11>以後、または、英国のEU脱出達成以降の<現在>でも極めて多義的。また、「憲法」という言葉は多義的のみならず重層的(⬅要は、玉ねぎの皮が作る玉ねぎ的)。
・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3
・保守主義−保守主義の憲法観
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html

よって、実定法秩序の基盤体系たる<憲法>はそう大きくは変わらずに、そのワンノブパーツ(a part of the constitution of a nation-state)に過ぎない憲法典を「まるっと全面改憲」することも、――実際、フランスの憲法史を想起すれば明らかなように――しばしば起きることであり、起きてきた以上、それなりにその国のその時代ではそれは意味があったことなのだろう。と、そう、わたしは思います。
第二。憲法を改正を避けるための法政策的や法技術的な手段があろうとも、――例えば、(a)「アメリカさんも「そろそろ、まともな憲法典に変えはったらどうですか」言うてくれてるみたいやし、土台、「押しつけの占領憲法」では気分が悪いちゅーねん」とか、あるいは、(b)「法政策的とか法技術的に可能やちゅーたかてやな、リベラル派の憲法研究者が70年も文化帝国主義の色彩濃厚な解釈の塵ぎょうさんこの社会に積み重ねてきたんやで。ほなら、それ1つひとつ修正するよか、一遍に憲法典差し替えてもうた方が合理的ちゅーもんやがな」とかとか――国民が憲法の改正や新憲法の制定を選択することは十分にありうる。
そして、ありうる以上、憲法論的にも、就中、「有権者国民の抱く法的確信」を媒介にして、法の効力根拠の点でそこにはなんらかの意味と意義があるのだろう。と、わたしはそう思います。なにより、現在では――実は、日本では古来なの、鴨ですけれども――<憲法>も「憲法」もそれを作るのは憲法研究者ではなく有権者国民であり有権者国民の代表たる政治指導者コミュニティなのですから。【次の段落(**)はちょびっとマニアック、鴨。憲法基礎論または法哲学に馴染みの少ない方は飛ばしちゃってください。以下、同様】
**畢竟、憲法典に対する「改正権の乱用」などという概念は――実定法秩序の分析においては、例えば、(x)ケルゼンの謂うところの「動態的な法の概念≒現実の正当な手続きを経て成立する規範」という意味でも「静態的な法の概念≒「制裁」とのリンクをメルクマールとした、謂わば「法」の本質的な特徴と機能の観察から確認される規範」でも、あるいは、(y)H.L.A.ハートの謂うところの「第2次ルール」によって法として確認される規範というでも、「内的視点と外的視点によって重層的に謂わば言語ゲーム的な「家族的類似性」が確認される規範」という意味でも、実定法秩序の圏内においては――成立しないだろうということです。**
・瓦解する天賦人権論−立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義
要は、有権者国民の法的確信がその国の実定法秩序の最終的の効力根拠である以上、その有権者国民の情念と美意識を制限できる「憲法の原理」などその当該の実定法秩序圏内には存在しないということです。実際、誰が「改正権の乱用」か否かを判定する権限を持っているというのでしょうか? まさか、ルソーに魔界転生してもらって「立法者」のスカウトの仕方を教えてもらうとか? あるいは、「一般意志」を日常語で語れる腕っこきの霊媒をインドの山奥から連れてくるとか? まさかね❗
而して、リベラル派が総掛かりで「改憲権の乱用」と認定し反対したある改憲が行われた場合、賛成した有権者国民が処罰されるわけでもないし、その改憲条項は「憲法」の一部として機能し始めるだけのこと。そう言うと、大体ここでリベラル派からこんな抗弁が来る(笑)。
そう、こんな(➡)「ヒトラーも日本の民主党も民主的手続きによって政権を奪取した。つまり、有権者国民の自由意思による民主的な選択が常に正しいわけではないでしょう。ならば、有権者国民の改憲権力にもなんらかの制限が必要ではないでしょうか」、とかとか。この類いのリベラル派の抗弁は選択の後付けの評価と選択権限の範囲確定根拠を故意か過失か、あるいは、その両方かによって混同している素朴かつ粗忽、姑息かつ狡猾な抗弁でしかない。そう思われませんか?
畢竟、「改正権の乱用」なる言辞で安倍政権による改憲動向を批判するなどは、謂わば、『仮名手本忠臣蔵』の「大星由良之助」の行動によって、元禄の赤穂浅野家家老「大石良雄(内蔵助)」の1703年1月30日の行動を評価するようなお茶目な無意味でしかないのではありますまいか、ありますまいか。閑話休題。


◆鎧系を検討しましょうコーナー
前述の如くこの余滴記事で特にコメントしたいと思ったのは「鎧」系の事柄についてです。蓋し、(鎧1)(鎧2)の内容をより明確にする上で便利な朝日新聞の社説がありました。これです。
朝日新聞社説「憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ
 (2017年5月3日)
・・・「すべて国民は、個人として尊重される」。日本国憲法第13条は、そう定めている。
【Article 13. 
All of the people shall be respected as individuals. ・・・】
根底に流れるのは、憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るものである、という近代立憲主義の考えだ。・・・
個人の尊厳をふまえ、幸福を追い求める権利をうたいあげた13条の文言には、洋の東西を超えた先人たちの思いと労苦が息づいている。・・・
【自民党の】改憲草案に流れる憲法観【は】――憲法は歴史や伝統などの国柄を織り込むべきもので、国家権力を縛るものという考えはもう古い――である。
だから、人は生まれながらにして権利を持つという天賦人権説を西欧由来のものとして排除し、憲法を、国家と国民がともに守るべき共通ルールという位置づけに変えようとする。
これは憲法観の転覆にほかならない。経験知を尊重する保守の立場とは相いれない、急進・破壊の考えと言っていい。
明治憲法を起草した伊藤博文は、憲法を創設する精神について、第一に「君権(天皇の権限)を制限」し、第二に「臣民の権利を保護する」ことにあると力説した。むろん、その権利は一定の範囲内でしか認められないなどの限界はあった。
だが、時代の制約の中に身を置きながら、立憲の何たるかを考えた伊藤の目に、今の政権担当者の憲法観はどう映るか。・・・
70年前の日本国憲法の施行で改めて命が吹き込まれた【「個人」「権利」「自由」等々の】これらの概念と、立憲主義の思想をより豊かなものにして、次の世代に受け渡す。いまを生きる私たちが背負う重大な使命である。
(以上、引用終了)

▼鎧1
>権力から人権を守護することが最高法規性の根拠なのです
>憲法は1人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るもの
畢竟、「憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るもの」というセンテンスが、「国難緊急時を除けば、憲法は国民一人ひとりの憲法的権利を守るために国家権力を縛るものでもある」という意味ならば、我々、保守派も賛同するにやぶさかではないと思います。
[鼈]憲法は一人ひとりの人権を守るために国家権力を縛るもの
[月]国難緊急時を除けば、憲法は国民一人ひとりの憲法的権利守るために国家権力を縛るものでもある
逆に言えば、憲法典の機能とその最高法規性の根拠を独り「国家権力の権力行使を制約することによって、国家権力から人権守護すること」とは言えない。なぜならば、――**もちろん、18-19世紀型の「憲法」が、取引の安全を、契約自由の原則・過失責任の原則を制度化することで「所有権の不可侵」という「自然法が認める人権」の保障をより確かなものにしたのに加え、20-21世紀型の「憲法」では、社会権的権利の成立にともない、それらの<既得権>を制限すると同時に、福祉政策をその裏面に含めながら国家の経済的競争力の維持向上をもその内容としていることは周知の事柄でしょうけれど、この経緯はここでは捨象するとして、**――<憲法>については論外として、憲法典たる「憲法」についてもその機能には当該の国民国家の他国等々からの防衛を十全なさしめること。加之、その国民国家の<民族国家>としてのイデオロギー的な社会統合が――ある意味、人権なるものの守護などよりも遥かに高いプライオリティで――含まれているだろうからです。
憲法の機能と最高法規性の根拠
(甲)戦争の遂行と国境防衛を含む国家の安全保障への貢献
(乙)国民を「民族国家:nation state」に社会統合する役割
(丙)国民の憲法的権利の守護と社会の安寧秩序の保持増進
**敷衍します。所謂「社会権的な権力」の成立や、財政金融政策の確立などはここでも捨象するにしても、その誕生以来、国民国家の国家権力の機能は――リベラル派の論者が、マルクスなりの「市民革命―市民社会」認識の流れのままに! 例えば、(a)教会勢力や領主勢力、あるいは、ギルド組織等々の「中間団体」の重層的かつ属人的な支配構造を消滅させ、ついには、「ラスボス=絶対王制」を粉砕すること、次に、(b)当該の市民社会から分離された(⬅要は、それが果たす機能のみで定義される常に官僚的で没個性的な「普通名詞」としての)、最新かつ唯一の政治権力として、刑罰の実施を含む公共的なサービスをその国家の領土内で権力行使に従う個々の「個人」に提供することという――「1国内的」「市民社会から分離した」ものに限らることはないのです。
・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 −あるいは、マルクスの可能性の残余(1)〜(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html
・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)〜 (4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html
ならば、立憲主義的な憲法の機能も、(c)近代の「国民国家」の国家権力を市民社会から分離させると同時に、(d)その今や人権侵害の能力と蓋然性を唯一持つその国家の政治権力の権力行使の乱用を予防することに収斂するわけでもないということ。これは、――第二インターナショナルが第一次世界大戦の勃発とほぼ同時に多くの今でいうリベラル派が「母国支持」に雪崩をうって行く中で崩壊した如く――戦争の事態を考えれば自明でしょう。
実際、あのフランス擾乱[1789―1799―1814]。1793年6月2日にカルト集団ジャコバン派が国民公会公安委員会を独占して以降のことにせよ、ついぞ施行されなかった1793年6月24日に採択された憲法さえ1793年10月10日の「フランス政府は和平が達成されるまで革命的である」という宣言によって停止されたのですから。而して、1793年憲法の採択からテルミドールの正気のクーデター(1794年7月27日)までの僅か13カ月間にパリ革命裁判所だけで3000人近くが、控訴・上告はもとより、最後の3カ月余りは証拠調べも証人尋問も廃した<裁判>によって死刑に処せられたこの擾乱における殺戮の嵐を想起するとき、「法は緊急時には沈黙する」「法は不可能を誰にも要求しない」という法学的の箴言は憲法典範においてこそその智恵の輝きを増すのではないかと思います。**

国民国家の国家権力は、①イスラム国からも支那からも、北朝鮮からも南朝鮮からも、ガミラスからも銀河帝国軍からも、巨大ハリケーンからも富士山大噴火からも、史上最大規模の恐慌からも正体不明の疫病感染パンデミックからも、文化帝国主義の巣窟たる国連人権理事会からもEU評議会人権委員会からも、②その国民の生命と身体と財産を、文化伝統と民族の運命共同体たる<国家>の威信を日夜守護しなければならないのです。ならば、その成立から現在に至るまで、国民国家の憲法がその機能の範囲と根拠を独り1国内的な「人権なるものの守護」に限定されるはずはないのは当然ではないでしょうか。
而して、――原理原則的には「普遍性」をその本質的の属性とするらしい「人権」享有の、同じ有資格者という点で、国民と外国人を区別したがらない節もあるリベラル派の善男善女の切歯扼腕と悲憤慷慨を尻目に――ナショナリズムが「主権国家=国民国家」成立以降の国家社会では必然性に近い規範的拘束力を帯びていること。否、21世紀に入って益々その拘束力を強めているにようにさえ感じられること。これらの経緯を理解するについては、古典的定番ですけれど――また、下記URL記事にも同文を引用していますけれども(笑)――、我々、保守派にも次のゲルナーの認識が参考になる、鴨です。
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。・・・
ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。
(アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)、但し、引用は同訳書(岩波書店・2000年, pp.95-96)から)   
・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3
・保守主義の再定義(上)〜(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2
・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)〜(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html
・ナショナリズムの祝祭としてのオリンピック
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/996393535306da1e98ca58ca37c31e17


▼鎧2
>個人の尊厳が最上位の価値を帯びるということは普遍性を持つ
>現在の憲法(立憲主義的な憲法)は、個人の尊厳および人権を
 国家権力の権力行使の乱用から守護するために存在する
 国家権力の存在とその権力行使は憲法の授権を受け憲法の制限の
 範囲内でのみ正統かつ正当である
個人の尊厳なるものの価値の普遍性など誰も論証できないことです。
要は、天賦人権論は瓦解している。そう断言できます。
実際、あの樋口陽一さんが、
「<西欧生まれの人権や自由を押しつけようとするのは文化帝国主義ではないか>という反撥がある。たしかに、文化の相対性ということはある」「人間の尊厳を「個人の尊厳」にまでつきつめ、人権の理念とその確保のしくみを執拗に論理化しようとした近代立憲主義のこれまでの経験は、その生まれてきた本籍地を離れた普遍性を、みずから主張できるし、また主張すべきなのではないだろうか」
「文化の相対性という考えをみとめながらも、人権価値の普遍性を主張することがけっして「文化帝国主義」ではない、という基本的考え方を、どうやって基礎づけるかという思想的ないとなみの責任を、日本の知識人は日本の社会に負っているのであり、日本社会はまた世界に対して負っているのである」なぜならば「文化の多様性を尊重することと、西欧起源の立憲主義の価値の普遍性を確認、再確認することとは、別のことがらである。後者の普遍性を擁護することは、だから、けっして、不当にもひとびとがいう「文化帝国主義」の行為ではない」のだから
と、(少し意地悪に要約すれば、「立憲主義の価値の普遍性を主張することは文化帝国主義ではない。なぜならば「立憲主義の価値の普遍性」は人権価値の普遍性に基礎づけられているからだ。そして、人権価値の普遍性を主張することも文化帝国主義ではない。なぜならば、それは普遍的価値を持っているからだ」というトートロジーを、すなわち、無根拠な単なる自己の真理告白・信仰告白を)『自由と国家』(岩波新書・1989年, p.201ff., 前掲『いま「憲法改正」をどう考えるか 「戦後日本」を「保守」することの意味』(岩波書店・2013年, p.148ff.再録))に記してから30年近くが経過すると言うのに、「人権価値の普遍性」なるものが基礎づけられたという話は寡聞にして聞こえてきませんから(笑)。
ならば、これまたリベラル派がしばしば口にする「改正権の乱用」に関するロジック。すなわち、
1)「立憲主義」は権力を制限する憲法の原則である
2)憲法の改正の場合、有権者国民こそ権力である
3)よって、憲法の改正にも踏み越えられぬ限界がある
4)その限界とは「個人の尊厳」を核とする人権の制約の一線であり
5)「立憲主義」はこの一線を死守する原理であるがゆえに憲法の原則となっている
このロジックも、無根拠な個人の尊厳なるものの「価値の普遍性」を唯一の根拠にして自己の願望を呟いているだけのもの、鴨。いずれにせよ、これもリベラル派の仲間内でのみ笑われずに聞いてもらえる類いの音声の無内容な連続であろうと思います。それ、非ユークリッド幾何学的世界の存在を認めず、ただひたすら、自分達のユークリッド幾何学の世界で「公理:個人の尊厳の普遍的な価値」とかと戯れているのと似ているような。「平行線は交わらないのです:立憲主義は改憲権の乱用を許しません」とかとかも。正直、例えば、渋谷秀樹『憲法への招待・新版』(岩波新書・2014年)などの読後感と本当この滑稽さは似ている、鴨。
・<アーカイブ>樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越
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◆憲法典の改正には限界も制約も存在しない
今回の衆議院総選挙での安倍自民党圧勝を受けて、いよいよ、この国の戦後という時代の虚妄性と不誠実の象徴、現行の占領憲法の破棄もしくは改正が現実的の政治のスケジュールにあがってきたように思います。いよいよですね。保守派のみなさん、でも、勝負はこれからです。お互い各自の持ち場で頑張りましょう。
而して、護憲と「憲法愛」を唱えるリベラル派は――改憲に向かう現下のこの社会の潮目の変化を読んでのことでしょうか――、「時代の変化にあわせて、憲法のあり方を問い直す議論は必要だろう」とか「時代の変化のなかで憲法を問い直す議論はあっていい」とか言いながらも、――所謂「立憲主義」なるものを根拠に掲げて――「だが、踏みはずしてはならない原則がある」とかなんとか、憲法を改正する上では幾つかの前提や条件が必要だといい始めているらしいのです。就中、「改憲のための改憲、所謂「改憲の自己目的化」は立憲主義からみて断じて許されない」とも。
▽憲法典の改正には――人権・平和・国民主権といった――憲法典に
 内在する限界とならんで「立憲主義」という憲法典外在的な制約
 が存在している(ものと)⬅リベラル派はその仲間内でそう取り
 決めている
▼憲法典の改正には限界も制約も存在しない❗⬅海馬之玄関
本稿は、「焼肉弁当」じゃなかった「立食宴会」でもなかった「立憲主義」という四文字熟語の意味を歴史的と論理的に紐解きつつ、憲法典の改正には変更される内容においても変更の必要性の有無存否の要件といった状況においても限界も制約も存在しないこと。より正確に言えば――旧い憲法との同一性が乏しい/認められない、よって、その旧い憲法からは正当化されないタイプの、寧ろ、新しい憲法の制定と見なされるタイプの憲法規範の制定をもこの「改正」に含むならば、――「内容においても状況においても憲法典の改正には限界も制約も存在しない」ということを説明するものです。
日本では、憲法典の変更に関して、例えば、占領憲法96条[憲法改正条項]の解釈に関しては、所謂「限界説」が左右を問わず有力であり「通説」であろうと思います。実は、KABUも限界説を妥当と考えているひとだったりします(⬅なんやてー、唖然?)。
すなわち、96条に定める手続きをきちんと踏んだとしても、あるタイプの改正は――政治的にのみならず――憲法論的に許されない、と多くの論者は――その「あるタイプ」が、人権・平和・国民主権ならびに改正条項自体の改正であるか、皇室すなわち天皇制をないがしろにするもの等々であるかは別にして、――考えているだろうということ。そして、So does KABU. ならば、
結論だけ読めば、ならば、――保守派を含めて!――日本語で憲法学をこれまでそれなりに学んでこられた論者の中には、上で述べたわたしの主張「憲法典の改正には限界も制約も存在しない」は、海馬之玄関の世界、すなわち、KABUワールドの中のファンタスティックな極論と受け取られた向きも少なくない、鴨。この帰結は論理的には、けれども、現在、唯一の現役の社会科学方法論(≒憲法論においては「憲法の概念論」および「憲法解釈学方法論」)である、分析哲学系現象学流新カント派とも整合的な、謂わば「世界標準の法哲学」からみても、満更、荒唐無稽な「極論」ではないと思います。
▽現行の憲法典と変更後の憲法典との一体性・同一性をキープする「改正」に限れば、96条による改正で行える変更には自ずと限界があるだろう➡その限界が何かについては、左右両極では大いに見解は異なるだろうけれど
現行の憲法典と変更後の憲法典との一体性・同一性の確保など――変更後の憲法典の法的効力のパフォーマンスは確保しつつも――歯牙にもかけない、ただ、日本国の実定法秩序と日本国の歴史的と文化的との自己同一性の継続は死守する。そのような憲法典の変更においては96条の改正条項は変更セレモニーの式次第にすぎず、よって、同条にある「改正」の二文字には限界など存在しない
⬅限界は、よって、日本国の実定法秩序の基盤の体系たる<日本国の憲法>という概念と理念から、すなわち、この日の本の社会を2700年近くとまでは言わないけれど、遅くとも、推古朝から、どんなに遅くとも、持統朝以来連面と統合してきた「日本国=皇孫統べる豊芦原之瑞穂国」という実定的のイデオロギーから課されるもののみであろう

加之、現行の占領憲法の母法がアメリカ合衆国憲法である事実を看過しないのであれば、よって、太平洋を隔てて存在するその2つの憲法典の底に流れている英米流の強靭で柔軟かつ豊穣な<保守主義>の世界観を看過しないのであれば、リベラル派の主張が単に彼等の仲間内でのみ通用する願望の<詩的な言語>による告白にすぎないのに対して、わたしの主張は――「大宝律令」(701)からとは言いませんが、遅くとも、「御成敗式目」(1232)以降、旧憲法典(1889)を経て現行の占領憲法(1946)に流込む日本流の保守主義の影響は捨象するとしても――日本国の実定法秩序の歴史的事実と法哲学理論から論理的に導き出されるタイプのものではないかと自負します。閑話休題。
畢竟、旧憲法典から正当化されない新しい憲法典もある国の実定法秩序の基盤――最高法規としての実定憲法の一斑――たりうる。逆に言えば、その新しい憲法典が、法の効力において――法の妥当性と法の実効性の(validity and efficacy)両面で――ある国の実定法秩序の基盤として機能するのであれば、その新しい憲法典もまたその国の最高法規体系の構成要素、すなわち、<憲法システム>の一部なのであって、よって、その新しい憲法典を確定する「改正」の営みもまた有効な憲法の制定/改正の営みに他ならない。
蓋し、実際、日本国民は、この認識、すなわち、「憲法典の改正には変更される内容においても、変更の必要性の有無存否といった状況においても、限界も制約も存在しない」という命題が清々しいほど残酷なまでに正しいことを知っているはずでありましょう。なぜならば、日本国民は、AKB48グループの「目撃者公演」じゃなかった、70年前、GHQが、――鈴木安蔵なり宮澤俊義、幣原喜重郎なり吉田茂といった、コミンテルンのスパイ、あるいは、敗戦利得者を露払い太刀持ちに配置した上で、かつ、旧憲法典の改正条項を新憲法典制定のセレモニーの式次第に用いて――現行の占領憲法を日本国民に押しつけたこと。そのことの<目撃者>なのでしょうから。
 
◆リベラル派の憲法改正制約論の紹介
リベラル派の主張する――内容における限界と状況における前提条件的の制約の両者を包み込む、謂わば――憲法の「改正制約論」はこの点どう述べているか。時間の無駄の空中論戦は避けたい。というか、――「先進国の多くでは」「国連では」とか「憲法研究者のほとんどは」とかの、多数決に馴染まない、あるいは、、日本国の憲法の規範意味の確定作業とは無縁な抗弁が通じないとみるやそこに逃げ込むのが彼等リベラル派の通例となっている!――朝日新聞的な<詩的言語>でもって、論理的な討議を不可能にしてする、一見「両者リングアウト引き分け」の構図なんかには逃げ込ませたくはない。
なんせ、こっちは、AKB 48チームBの「まゆゆ:まゆまゆ=渡辺麻友」さんの卒業コンサート(2017年10月31日ーさいたまスパーアリーナ)と、卒コンの後にアップロードする「渡辺麻友は観音菩薩サイボーグだったのか」(仮題)に向けて忙しいのですからね。真面目に、これ本当。
而して、海馬之玄関の理路を展開する前に、まず、朝日新聞社説「衆院選 憲法論議 国民主権の深化のために」(2017年10月16日)、「自公3分の2 憲法論議 与野党超えて、丁寧に」(2017年10月24日)を素材にして彼等リベラル派の言い分を聞いておくことにします。
加之、これらの社説の露払いと太刀持ちの役目を担った、高見勝利「2017衆院選 憲法論戦をこう見る 立憲主義への態度で判断を」(朝日新聞・2017年10月13日)、および、その完全版ともいうべき「憲法改正の「判断準則」と自衛隊「憲法編入」の要否判定――5月3日の安倍提案に接した一憲法学者の所見――」(『世界』2017年7月号)。ならびに、蟻川恒正「規範なきがごとしの政権 解散・改憲 際立つ不誠実」(朝日新聞・2017年10月14日)という2+1本のコラム記事も資料として転記しておきます。
朝日新聞の社説だけでも「I am full.」状態というか、社説の途中で笑いがとまらなくなるかもしれませんが、一応、最後までリベラル派の言い分も聞いてあげてください。リングアウト引き分けを許さず徹底的に彼等の(疑似)論理を粉砕するために。
而して、いつにもまして――まゆゆの卒業コンサートが迫っているからか?――居丈高な物言いになっている、鴨。ということで、些か、結論先取りになりますが、リベラル派の「立憲主義」なるものを根拠にした「憲法改正制約論」に対するわたしの批判の要点を先に書いておきます。それが「居丈高」かもしれない記述をした者の取るべき礼節だと思うから。畢竟、リベラル派の改憲制約の議論に対するわたしの疑問点・批判点は煎じつめれば1つだけ、それは、彼等は、
>普通名詞の「憲法」という言葉を固有名詞(the Constitution
 of Japan)に誤用している
>あるいは、
>抽象名詞の「憲法」という言葉を普通名詞(a certain constitution of Japan)に誤用している
というもの。煎じつめればこれだけなんですけどね。
敷衍しておけば、要は、
例えば、フランス人権宣言16条なりをあたかも御真影の如く恭しく掲げながら、「立憲主義」とは「憲法は、国民の人権を保障するために国家権力の行使を規制し制限する規範である」というアイデアなのですよとかなんとか彼等が述べる場面。
このセンテンスの主語として用いられている「憲法」は普通名詞であるのに対して、次に、その立憲主義を根拠に押し立てて、「よって、集団的自衛権の行使は憲法上認められないという、歴代内閣が踏襲してきた日本国政府の占領憲法9条の集団的自衛権を巡る解釈を(憲法にしばられているはずの、しかも、)一内閣が勝手に変更したことは立憲主義を踏みにじるものだ。よって、当該の閣議決定ならびにその閣議決定の線で成立施行された所謂「安全保障法制」は違憲である」とかなんとかと彼等リベラル派が述べるセンテンス群に含まれる「憲法上」や「違憲」に含まれる「憲法」は固有名詞としての現行の占領憲法「日本国憲法:the Constitution of Japan」だということです。
換言すれば、リベラル派の議論は抽象名詞としての<憲法>を理解し説明するための道具概念や思考の枠組み、すなわち、<憲法の原理>の1つにすぎない――それ自体に極めて多義的のタームでもある――「立憲主義」を普通名詞の説明に用いる過ちをおかしているということ。大宝律令から御成敗式目から旧憲法をも外延として包摂する普通名詞の「日本国の憲法:a certain constitution of Japan」、この普通名詞の形成する集合の要素の1つ「日本国の憲法の1つ:one of constitutions of Japan」である現行の占領憲法「the present constitution of Japan」の規範内容に、「立憲主義」のアイデアによって理解された抽象名詞の<憲法>をそのまま読み込む過誤または密輸する詐術、あるいは、その両方の不手際をリベラル派の議論はおかしているということです。ということで、以下、リベラル派の言い分、どうぞ。尚、引用記事中の【xx】ならびに下線および太字はKABUによるものです。

▽朝日新聞社説(2017年10月24日)
 ――「自公3分の2 憲法論議 与野党超えて、丁寧に」
・・・時代の変化のなかで憲法を問い直す議論はあっていい。だが、踏み外してはならない原則がある。【「立憲主義」からは】憲法は国民の人権を保障し権力を制限する規範である。改憲はそうした方向に沿って論じられるべきであり、どうしても他に手段がない場合に限って改めるべきものだ。・・・
▽朝日新聞社説(2017年10月16日)
 ――「衆院選 憲法論議 国民主権の深化のために」
憲法改正の是非が衆院選の焦点のひとつになっている。・・・
■必要性と優先順位と
時代の変化にあわせて、憲法のあり方を問い直す議論は必要だろう。ただ、それには【「立憲主義」という】前提がある。憲法は国家権力の行使を規制し、国民の人権を保障するための規範だ。だからこそ、その改正には普通の法律以上に厳しい手続きが定められている。他の措置ではどうしても対処できない現実があって初めて、改正すべきものだ
自衛隊については、安倍内閣を含む歴代内閣が「合憲」と位置づけてきた。教育無償化も、予算措置や立法で対応可能だろう。自民党の公約に並ぶ4項目には、改憲しないと対応できないものは見当たらない。・・・
安倍首相は、なぜ改憲にこだわるのか。首相はかつて憲法を「みっともない」と表現した。背景には占領期に米国に押しつけら*れたとの歴史観がある。「われわれの手で新しい憲法をつくっていこう」という精神こそが新しい時代を切り開いていく、と述べたこともある。
■最後は国民が決める
そこには必要性や優先順位の議論はない。首相個人の情念に由来する改憲論だろう。憲法を軽んじる首相のふるまいは、そうした持論の反映のように見える
象徴的なのは、歴代内閣が「違憲」としてきた集団的自衛権を、一内閣の閣議決定で「合憲」と一変させたことだ。
今回の解散も、憲法53条に基づいて野党が要求した臨時国会召集要求を3カ月もたなざらしにしたあげく、一切の審議を拒んだまま踏み切った。
憲法をないがしろにする首相が、変える必要のない条文を変えようとする。しかも自らの首相在任中の施行を視野に、2020年と期限を区切って。改憲を自己目的化する議論に与することはできない
憲法改正は権力の強化が目的であってはならない。必要なのは、国民主権や人権の尊重、民主主義など憲法の原則をより深化させるための議論である。・・・
(以上、引用終了)


朝日新聞の社説の露払いと太刀持ちの役目を担った資料記事2+1本を次に読んでいただく前に、これらの社説の主張を整理しておきます。いい加減、お腹一杯。I am full. どころではなく、文字通り、抱腹絶倒(being rolling about)。笑い転げてリベラル派の言い分の吟味どころではない方も少なくないでしょうから。先手を打つということ。簡単です。
▽朝日新聞の悲憤慷慨的の主張――「立憲主義」からは、
1)憲法の改正には改正の必要性や必然性の要件が不可欠なんですよぉー
2)憲法を改正するとしても、権力を強化する改正/人権保障を
 狭める方向での改正は許されませんてば
3)権力側のプレーヤー(就中、占領憲法99条で「憲法尊重擁護義務」
 を課されている国務大臣、国会議員、裁判官等々)は、憲法を
 ないがしろにしたり、憲法に対して不誠実であってはなりませぬ
以下の資料記事でこの朝日新聞の主張とそこに至る理路――疑似論理にすぎないとわたしは思いますけれども――を確認してください。最後の高見『世界』論文は長めではありますが、現在のところ、朝日新聞といわず、リベラル派の「憲法改正制約論」を支える主力艦的の記事です。ならば、占領憲法の改正または破棄を期す――安倍総理・麻生総理が先導される具体的なスケジュールに沿って各々の持ち場で汗をかこうとしている――、我々保守派にとっては、敵の議論の手の内がよぉーくわかるという点では、とっても美味しい記事、鴨です。
 
▽蟻川恒正コラム
「規範なきがごとしの政権 解散・改憲 際立つ不誠実」
(朝日新聞・2017年10月14日)
今回の衆議院の解散は、一言でいえば、不誠実な解散である。
野党4党などによる臨時国会召集の要求書が6月に出されながら、憲法により召集義務を課された内閣がその要求を3カ月 放置した上、ようやく召集した国会を、自民党が選挙で勝つには今しかないというもっぱら政局的な判断から、いきなり解散したこと。・・・野党からの厳しい追及を避けるためという以外には説明のしようがない一切の審議を回避した冒頭解散に、取って付けたような解散理由をつけて、臆面もなく「国難突破解散」と自称したこと。
北朝鮮問題のほか、再来年10月に予定される消費税率引き上げに際しての税収の使途変更という本来であれば国会で論戦すべき問題を、「国民生活に関わる重い決断を行う以上、速やかに国民の信を問わねばならない」と大語して、むしろ国会を閉じる理由としたこと。その結果、自ら煽った「国難」のさなか、あえて政治の空白を作り出すという自己矛盾をおかして平然としていること。自己矛盾は、国会閉会中の有事に備えた緊急事態条項がぜひとも必要だとして自民党が検討している憲法改正案に照らすとき、一層際立つこと。その全てが、不誠実というよりほか表現しようのない解散劇であった。・・・
不誠実が、個人の人格あるいは組織の体質の問題なら、道徳的に批判すべき問題にとどまる。不誠実ゆえに法案が成立しても、通常は、結果である法律の内容が適切かどうかを問題とすれば足りる。けれども、自らを縛っている規範を物ともしないかのような現政権の不誠実は、法的な不誠実というべきものである。・・・
今回の解散は、解散権は内閣の重要政策が衆議院多数派によって反対されるなど、どうにも行き詰まったときに行使されるものだとする議院内閣制の根本規範をあってなきが如きものとする意識(「解散は首相の専権」)の上にのみ可能だった
国会議員をはじめとする公権力担当者は、自由な社会が彼らに課した拘束に対して誠実であるべき義務を負う。日本国憲法は憲法違反の行為を無効とするだけでなく、公権力担当者に憲法尊重擁護義務(憲法99条)を課した。憲法に対して誠実であるべき義務とは、憲法違反の行為をしない義務にとどまらない。それは、公権力担当者に対し、憲法が課すハードルに真摯に向き合うこと、乗り越える場合にも正面から越えることを要求し、ハードルをなぎ倒したり、横からすり抜けたり、ハードル自体を低いものに替えることを不誠実とする
    
目標としての護憲か改憲か以上に、政権を担う者を評価する上で本質的なのは、憲法に対して誠実であるか不誠実かの対立軸である。憲法改正を主張するとしても、個々の憲法条項による公権力への拘束を重く受けとめ、限界まで解釈を試みた上で、他に選択の余地がないと国民が納得できる仕方で改憲を主張するのが、憲法に対する誠実である。自民党による改憲の主張は、この点で、憲法に対して不誠実であるといわなければならない。・・・

▽高見勝利―朝日新聞コラム
「2017衆院選 憲法論戦をこう見る 立憲主義への態度で判断を」
(朝日新聞・2017年10月13日)
立憲主義における憲法は、国家権力の行使を規制するものです。最高規範として法的安定性が必要で、普通の法律よりも厳格な改正手続きが定められています。その改正権も乱用は許されません。立法や行政の対応が最高裁判所に違憲と判断されるなど、他の措置では国政上の支障が解消できず、どうしても憲法を変えないと現実に対処できないときに、初めて改正の必要が生じます。憲法改正とは本来、そうした切実な事態に基づいて要否が議論され、合意形成がなされていくべきものです。
ところが今回の選挙では、総論としての改憲推進が先にあるように見える勢力も多く、議論が逆立ちしている面があると感じます。その上で挙げられている自衛隊の明記や教育無償化、知る権利などは、本当に改憲までしないと対応できない事態なのでしょうか。
たとえば、確かに義務教育の無償化は憲法に書いてありますが、書いていない高等教育を無償化していけないわけではありません。緊急事態条項も、大震災時に議員がいなくて大丈夫かという漠然とした話で、参院で対応できないかなどが詰められていない。自衛隊は、政府が合憲としてきて最高裁も違憲としていないのに、違憲という学者がいると失礼だというだけで改憲理由になるのか。ファクトの議論が少なすぎます。
「押しつけ憲法だから、変えること自体に意義がある」というなら、私は違うと思います。制定過程で日本の考え方が取り込まれ、戦後の運用のなかで実効性をもって定着しているといえるからです。具体的な不具合から出発せず「変えるため」に合意を得やすい部分を探すような議論は、ためにする改憲のそしりを免れません。・・・
フランス人権宣言【16条】には「【権利の保障が確保されず】権力分立が定められていない社会は、憲法を持っているといえない」とあります。憲法は権力を縛る規範です。首相に限らず、与えられた権力を、乱用にならないよう謙抑的に使っているかどうか。政治家の権力に臨む態度でも憲法への理解はうかがえます。少しでも支持できそうな候補者や政党に一票を投じることが、日本の立憲主義を守るために大切です。
 
▽高見勝利―『世界』論文
「憲法改正の「判断準則」と自衛隊「憲法編入」の要否判定――5月3日の安倍提案に接した一憲法学者の所見――」(『世界』(2017年7月号, pp.116-129)所収より抜粋。この論文記事が朝日社説のタネ論文、多分)
[Ⅰ]はじめに
・・・衆院憲法審査会で、・・・改正項目に関する議論が始まったのは、(a)憲法施行70年も経ったのであるから、この間、「現実」にそぐわない規定や、新たな問題に対処できない箇所が多々生じているはずだとの思い、もしくは、(b)70年前の占領下、連合国総司令部により「押しつけ」られた憲法に一指も触れず、後生大事にこれを維持しているのは如何なモノかとする素朴な国民感情に起因するものと思われる。しかし、現に通用している一国の憲法【典】について、その規定を改変する権力(憲法改正権)行使は、そうした単なる主観的な思いや感情に拠るべきものではない。そこでは、憲法【典】の明文規定をそのまま維持し続けることが、国民の自由や福利を実現するうえで深刻な障害となっている客観的な事実(立法事実)の存否の「調査」(国会法第102条の6)が先行するはずである。その意味で、憲法改正といえども、その改正の要否の判断は、通常の法律改正のそれとさほど違わない。(ibid, p.117)
【現下の日本が立憲君主制をとる大衆民主主義国家である以上、そのような「素朴な国民感情」を−−それが大衆たる有権者国民の「感情」にすぎないとしても、有権者国民の多くがそのような<感情>を抱いているということは<事実>なのですから−−政治がすくい上げ、言語化して、憲法改正の項目に翻訳していくのは正当なこと、少なくとも、憲法現象における当然の流れというものでしょう。国民のこの「そうあるべき憲法」に向けられた法的な確信こそ、実定法秩序の基盤たる<憲法>の効力の根拠なのですから。ならば、単に、その<憲法>を理解するための研究者用の要点便覧メモの1つにすぎない「立憲主義」なるものが、日本国の<憲法>に生命を与えている「素朴な国民感情」を退ける法的な力を持ちえないことは自明であろうと思います
【英米法起源のターム。この所謂「立法事実:legislative fact」は所謂「司法事実:adjudicative fact」との対比において意味を持つ――訴訟の場面で専ら用いられる――言葉です。かつ、それは立法者が立法の際に念頭に置いていたであろう事実の意味であって、毫も、「客観的事実」なるもの、就中、ある改正項目に関連する事実を網羅したものなどではありません。蓋し、有名なBrandeis brief(ブランダイス方式上告趣意書, cf. Muller v. Oregon(1908))もその範疇のもの、というかその萌芽にして典型、鴨。
また、米国でも――特に、「コモンロー上の権利:leagal interest」が主に争われる訴訟手続き(legal proceedings)では、――その傾向もままあるのですが、英国では、原則、現実の訴訟において「立法事実」を含む「立法経過・立法の経緯:legislative history」を裁判官が斟酌することは、できれば避けるべき「訴訟外の情報:extrinsic material -evidence」の検討に他ならず、よって、それは使うとしても最後のカードとして、その使用は厳に慎むべきこととされています。要は、「立法事実」という英米法のタームの通常の語義と「国民の自由や福利を実現するうえで深刻な障害となっている客観的な事実(立法事実)の存否の「調査」が先行するはずである」という高見さんの主張は矛盾はしないまでも位相を異にしていると思います】

とはいえ、もとより憲法改正は、上述のごとく憲法で定められた最強の権力作用である。この権力作用の本質からして、不必要な、または不用意な、もしくはその濫用にわたるような改正権力の行使は、「権力に対する制限」という立憲主義の原理からして決して許されないはずである。とすれば、そこには、――上述の違憲審査権について、立法に対する敬意や司法の本質からする「憲法判断回避の準則:ブランダイス・ルール」(Ashwander v. TVA事件におけるブランダイスの補足意見)に見られるような――最高法規たる憲法に対する敬意や改正権の本質に由来する「憲法改正の判断準則」があってしかるべきではないか。・・・然りとすれば、憲法や憲法を貫く立憲主義原理、その原理の制約下にある改正権の性格などから、国会議員の改正権力の行使についても、かのブランダイス・ルールに類するものが導き出せないか。(ibid, p.117)・・・
【所謂「ブランダイス・ルール:the Brandeis rules, the rules of Brandeis; Ashwander rules」は――その時代背景を捨象するならば――民主的色彩の乏しいテクノクラート組織たる司法府が、民主的要素より濃厚な議会や大統領の立法や執行を違憲無効にできる根拠を司法の自己抑制に見いだしたもの。それは「立憲主義」を制約するルール。ならば、確かに、「権力の自己抑制」のためのガイドラインを求めるという点では、ブランダイス・ルールと高見ルールは一脈通じるとしても、民主的要素への態度としては真逆のものと言えます】
立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f
・保守派のための「立憲主義」の要点整理
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3
 
[Ⅱ]憲法改正の要否を判断する準則とは
1)なぜ、憲法改正の判断準則が必要なのか
ここでの主たる問題関心は、立憲主義とその憲法の視点から、憲法第96条【改正条項】のもとで国会が発議し、国民に諮ろうとする憲法改正の要否について、一体、どのような判断枠組みないし準則が立てられうるかにある。・・・
昨秋から、衆参両院の憲法審査会で憲法改正の対象となり得る項目の検討が始まっている。しかしながら、その作業は、70年に及ぶ憲法運用の実際を踏まえた客観的な立法事実の探求ではなく、議員個人の主観的な常念に基づく、「我々日本人は、これまで憲法改正の経験がなく、一度は自らの手で憲法を改正すべきだ」などとする、改正それ自体を自己目的とした項目探しである。そして、改憲項目が見つかり、改正点が絞られ、改正試案の提示に至ると、そこでは、たとえば国家緊急権規定を導入しようとする試案に見られるように、憲法を支える立憲主義原理とどう折り合いをつけるかという原理的な問題が、必ずと言ってよいほど【リベラル派の脳内のお花畑では】浮上する。すなわち、国家権力を制限して国民の自由を守る立憲主義憲法の趣旨・目的からして、当該憲法の改正にどのような制約が存在するのか、従来、憲法改正権の限界として語られてきた憲法の基本原理(国民主権・基本的人権の尊重・平和主義)とは別に(もとよりそれを念頭に置いたうえで)、国会が憲法第96条に基づいて憲法改正原案を審査し、憲法改正案を発議する際に考慮すべき「憲法外の制約として、いかなるものが存在するか」(芦別信喜『憲法訴訟の理論』58頁[1973年、有斐閣])、という問題に直面するのである。
要するに、立憲主義の見地から、国会の発議しようとする憲法改正案の策定内容が「憲法の改正」(第96条)として是認しうるものか否かを判断する物差し(準則)が、そこでは【リベラル派の仲間内では】求められているのである
以下、試論として、次のような基本原則ないし判断準則【と称する高見さんの私論】を提示しておきたい。

2)憲法改正の基本原則と改正要否の判断準則
もとより、その起点は、立憲主義の原理に立脚する憲法そのものである。それは、いわば「自由の基礎法」、「国家権力に対する法的制限の基本秩序」であって、その原理【「立憲主義」なるもの】は憲法の「最高規範性」(第98条)を実質的に根拠づけている(芦別信喜『憲法学Ⅰ』46頁、56頁[有斐閣]参照)。しかも、この最高規範性は、当該憲法について高度の法的安定性を要請する
【なるほど! 5つの共和政、2つの帝政、しかも、その幕間に、復古王政と七月王政にヴィシー政権体制と、――施行されないまま効力が停止された1793年憲法とかは除いても――170年足らずの間に少なくとも10個の憲法をとっかえひっかえした、おフランスの憲法現象は「立憲主義」的な憲法実践の対極にあるものなのですね。と、宮澤俊義・芦別信喜・樋口陽一の大先生方の霊前に納得のピースサインを送るKABU。あれぇ、樋口さんまだお元気に文化帝国主義の傲慢発信されてらしたっけ?】【次のパラグラフの下線は著者の高見さんによるものです】
それゆえ、かかる最高法規を意識的に改変する「憲法の改正」は、原則として、国民(や国家)のためにどうしても必要とされる国家権力の行使が憲法規定と抵触し、当該規定がそうした権力行使の実現を阻止する場合もしくは長期的展望に立った国民(国家)的課題を持続的に遂行するうえで、憲法【典】に明記することがどうしても必要である場合などに限られる。
【なぁーるほど! ならば、9条は可及的速やかに、(A)安倍総理の提案される如く、「自衛隊を明記」する第3項の加憲、(K)自民党改憲草案の線での第2項削除、あるいは、(B)第2項削除と自衛隊の「国防軍」としての明示、もしくは、(4)碧海純一さんの思い出もあり、その一番弟子・井上達夫さんに敬意を表して、9条全体の削除、(8)9条全体の削除、ならびに、旧憲法11条及至14条および32条の効力回復とかのいずれなりかを行うべきなのですね。と、高見さんから改憲のお墨付きいただいちゃった、鴨。
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▼「憲法を守り、憲法を愛する」日本の防衛そっちのけ

 で護憲布教…過剰左傾、東大法学部系学者「思想」


産経ニュースの紹介記事(⬆)です。
正直、言葉の正確な意味での「宗教団体」ですね。
日本のリベラル系護憲派は。
そう感じました。

いや、本当、「多様性」とか「寛容」とかと
最も縁遠い人達じゃないですかね。
星新一『白い服の男』の領域も軽く越えてそうな、

日蓮宗や創価の人達も裸足で逃げるレベル、鴨。


間違いなく、現在のイスラム原理主義の方々や、
16世紀末はスコットランドの長老派(カルビン派)の
おじ様方といい勝負されると思います。

日本のリベラル系護憲派に対するこのような<カルト>認定。而して、そのような認定も、かのマーガレット・サッチャー男爵(1925-2013)の自伝『The Path to Power』(June 1995)で語られている次の如き述懐を反芻するならば、満更、彼等に対する中傷や不当な評価ではないのではありますまいか。それは、オックスフォードで化学を修めてほどなく、――「ロバーツ嬢」だった独身時代から――保守党下院議員候補にノミネートされるようになっていた若妻マーガレットの回顧録の中にある記述。
彼女は、――最初の立候補(25歳:1950)から最初に下院議員に当選(34歳:1959)するまでのこの雌伏待機の期間を利用して、最短で、よって――ワンチャンスで弁護士資格(サッチャー男爵は理科系女子でありながら税法専門の法廷弁護士さんでもあるのですよ!)をものにする。その時期の――「サッチャー夫人」(26歳:1951〜)になってまだ間もない頃の――述懐です。ちなみに、法廷弁護士(barrister)資格をゲットしたと同じ1953年(Margaret 28歳)にサッチャー夫妻は双子の子供たちもコウノトリさんからプレゼントされたのは有名なエピソードですよね。
尚、その訳文には幾つか――英国法理学の知識不足に起因するとしか思えない――誤訳があるのですが、まあ、おおよその意味は通っている。ならば、つまみ食い的にここだけわたくしが訳した場合、逆に、朝日新聞社説的の牽強附会とまではいかなくとも我田引水やら針小棒大・羊頭狗肉の嫌疑をかけられかねないだろう。よって、李下に冠をなんちゃらで、訳書『M.サッチャー 私の半生(上)』(日本経済新聞社・1995年8月, pp.124-125)から原則転記引用します。尚、【xxx】内はKABUの補註です。
<<抜き打ちテスト〜!>>
*以下の熟語を英訳してください。
牽強附会
我田引水
針小棒大
羊頭狗肉
朝日新聞的の
抜き打ちテスト
焼肉弁当
有言実行(=安倍総理のような)
好漢[/オトコ/]は黙って恵比寿ビール(=麻生総理のような)
李下之冠(=李下に冠を正さず)
(10問全問正解の方には「3ヒヨコ」謹呈!)http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyos.gifhttp://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyos.gifhttp://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyos.gif


「法律を勉強し、観察し、議論して、最後にはそれに従事したことは、私の政治的視野に重要な影響を与えた。・・・普通、法律に詳しいことは、侮りとまではいかなくとも、少くともかなりの程度の冷笑を受けるものだ。しかし私にとっては、これは、保守党の口からいとも簡単に出てきたあの表現、「法の支配」に大きな意味を与えてくれるものだった。
大学やそれ以前の勉強から、私は、自由な体制を自由でない体制と隔てるものは、まず法の支配の存在であって、力は二番目なのだという考えをはっきり身につけていた。だが、この「法」というものの本質は何だったのだろうか。どのような過程を通してそれは進化していったのだろうか。そして、それはなぜイギリスでこのように深く根付き、最近の歴史【1953年に至る数年の歴史】が示したように、【フランスや北欧等】ほかでは浅くしか根付かなかったのだろうか。私がこのとき勉強した法律の教科書は、総じてこのような点に答えることを意図したものではなかった。しかし、これらの教科書が繰り返し説明した法の【諸】原則というものは、私の心に以上のような問いを呼び起こしたのである。同じように、イギリス法の生成期の偉大な判事たちについて読むにつれ、イギリスの法廷がイギリスの自由の基礎を築いていった、不可思議で累積的な過程に夢中になったのだった。
・完版:保守派のための海馬之玄関ブログ<自家製・近代史年表>みたいなもの
しかし、私に最大の影響を及ぼしたのは、A・V・ダイシー【Albert Venn Dicey:1835-1922)】の著作で、とりわけ古典的な教科書『憲法の法』【『憲法序説』 Introduction to the Study of the Law of the Constitution (1885) 】であった。新しい行政国家に対する彼の教条主義的な反対論のゆえに、ダイシーを攻撃することが長い間流行になっていた。【回顧されている1953年から40年後、自伝が上梓された1995年の】いまでもそうした傾向の博識な批評家が【日本で言えば、早稲田大学の長谷部恭男さんのような物知りのお利口さんが】数多くいる。しかし私は、彼の述べていることにすぐに共感を覚えた。ダイシーは偉大な法的精神の持ち主だったが、【トリー党の後身たる保守党のMargaret とは違い、生粋かつ鉄板の自由党の前身のホイッグ党支持者であった彼が】心のなかでは古典的な自由主義者だったということは、おそらく意味のないことではあるまい。
ダイシーの言葉によれば、「憲法の法」【法(原則の体系)としての憲法:the Law of the Constitution】とは、二つの「指導原理の所産であって、それらは、【普遍的な価値と均一の内容を持つ「天賦人権:基本的人権」なるお伽噺とは違って、英国臣民の権利として】何世代にもわたるイギリスの政治家や法律家により、多少なりとも意識的な努力によって、次第にできあがっていったものである」。二つの原理の第一は、議会の主権【Parliamentary Sovereignty】だった。第二は、法の支配【Rule of Law】だった。私の簡単でつたない要約によれば、それは国の法を上回る権威はないという原理である(『憲法の法の研究序説』第八版、1915年、465―466ページ)。
・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/5a21de3042809cad3e647884fc415ebe
・国家が先か憲法が先か☆保守主義から見た「法の支配」(上)(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/00122700104818ed5200fd98fb3f705d
・憲法の無知が炸裂した朝日新聞の「法の支配」援用社説
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/cc89c8c19af10b41acb9aeb81da59699


1885年【大日本帝国憲法が発布される4年前】にこれを書いたダイシーにとっても、それを約70年後に【サンフランシスコ平和条約が締結された1951年から1953年の時期に】読んだ私にとっても、法の支配にはまだ非常にイギリス的な、あるいは少くとも【アメリカを包摂する】アングロサクソン的な感じがあったのである。私が、この原理はさらに広い範囲に適用されるものだと本当に考えるようになったのは、もっと後になってハイエク【Friedrich August von Hayek:1899-1992】の『自由の条件』、『法と立法と自由』【「The Constitution of liberty」(1960),  「Law, Legislation, and Liberty」(1973-1976-1979)】などの傑作を読んでからのことだった。【男爵が初めての女性の英国首相にエリザベス女王から任命されたのは、奇しくも、ハイエクが主著の一つとなる『法と立法と自由』三部作を完成させた1979年のことでしたよね】」(以上、転記終わり)
 
 而して、蓋し、

>万国の保守派よ団結せよ❗
>リベラル勢力の文化帝国主義の粉砕に向けて、
>共に闘わん❗


▼安全保障関連法案を巡る論評雑感−−憲法学者の違憲表明の法哲学 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c3f83e0ee381182fb5b90b0e5f0f7f0a
 
  
▼まずは「加憲」でいいのではないですか
 ――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9333930d645cf9bb127ad33d72915dd7

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<海馬之玄関ブログ関連記事>
・保守派のための「立憲主義」の要点整理 
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3
 
・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞
 
・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
 
 
そして、
 
・瓦解する天賦人権論−立憲主義の<脱構築>、
  あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)〜(9)
  http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
 
・憲法96条−−改正条項−−の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)〜(6)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5
 
念のため、
 
・<改訂版>自薦記事一覧:保守主義の憲法論と社会思想
 −憲法学の再構築と占領憲法の破棄・改正を求めて

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安倍政権による「集団的自衛権」を巡る政府憲法解釈の見直し、あるいは、安全保障関連法制の制定に対して、それは「立憲主義」に反するものだという主張が朝日新聞や毎日新聞といったリベラル派からいまだに出ているようです。
安全保障関連法制は違憲であるという認識を越えて、それらはーー多くの憲法研究者からの批判が寄せられているというのに、かつ、政府自体が長年唱えてきた占領憲法9条の解釈を180度変えた、正に、憲法によって縛られるべき国家権力が勝手に憲法の意味内容を読み替えたものなのだからーー立憲主義を踏みにじる所業だ、とかなんとかご立腹のご様子。あるいは、安倍首相が「2020年までの憲法改正」を呼びかけられた件も「国会の発議権を侵害したわけではないのだから、違憲とまでは言えないかもしれないが、首相の帯びる憲法尊重擁護義務(占領憲法99条)から見て「非立憲」なもの」だそうで、これまたご立腹のご様子。

>安全保障関連法制は違憲だ!
安全保障関連法制と集団的自衛権を認めた
政府解釈の変更は立憲主義に反している!

>憲法尊重擁護義務を負う首相が、更には、
立憲主義から憲法に縛られる立場の首相が
その憲法の改正を促すなどは戦前でも
なかった、憲法を冒涜する非立憲の傲慢だ!

蓋し、私はリベラル派のするこのような「立憲主義」の援用は、単なる、「集団的自衛権を巡る占領憲法9条」や「憲法尊重擁護義務を謳う占領憲法99条」の彼等の私的な解釈にすぎないものを「立憲主義」という憲法的原理の1つを持ち出してきてーー「自分達の解釈と違う憲法解釈を政府が採用するのは反立憲、少なくとも、非立憲だ」とばかりに、「立憲主義」の四文字でーー正当化するもの。実は、かなり根拠脆弱な主張または赤裸々な謬論。リベラルイデオロギーの表白にすぎない、鴨。と、そう考えます。
 
▼「立憲主義」は思考の整理道具としての憲法の原理
要は、「立憲主義」なるものは、憲法典を制定するための政治的のロジックであるか、各国での憲法典制定以降は、諸々の憲法を分類したり、ある国の憲法典に――憲法裁判所設置の規程なり改正手続き条項なりの――ある条項が存在する理由/存在しない理由を説明するのための「原理」であり、それは憲法と憲法典を理解するための道具的の用語の1つなのですから。而して、「立憲主義」の四文字から、ある法規や行政処分――参議院選挙の選挙区区割りを定める法規とか二重国籍者の国政選挙での被選挙権を認めない法規、まして、戸籍法の廃止とか、債権の準占有者への弁済の要件と効果の変更、あるいは、難民認定の厳格さの度合いとか、朝鮮学校への補助金支給の是非とか――の合憲違憲が判定されることはなく、つまり、「立憲主義」という原理からなにか具体的な憲法の規範意味が演繹されることはないのです。

換言すれば、リベラル派の「立憲主義を援用しての安倍内閣批判」の如きものは、
それは憲法(基礎)論からは我田引水的の戯言にすぎない。
 
▼憲法の意味内容はそう明確ではなく不変でもない
更には、憲法の規範意味の内容はそれほど明確でも不変なものでもない。それ、正に、開かれた構造。そして、その変化も「人類史の流れなるものに従い緩急はあるものの不可逆的」などでもない。まして、日本のリベラル派がいうような意味での――内閣には憲法改正を促すことも、憲法の解釈権も認めない/認めたとしても解釈の修正権は認めない?――「立憲主義」などが、それは「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」などでは断じてない(あるいは、もし、「OECD加盟国なる先進国に普遍的なものであったとしても、それが、占領憲法にせよ日本国の憲法の規範内容に自動的に組み込まれることなど/早晩組み入れられるべきことなどは金輪際ない」)ということ。
 ・まずは「加憲」でいいのではないですか
 ――改憲派こそ「憲法」に期待しすぎるのやめませよう
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9333930d645cf9bb127ad33d72915dd7

▼憲法の役割の1つとしての憲法的権利の守護
また、憲法が――その社会の多数派が立法府を通して作らしめた法規によっても侵害されるべきではない――少数派の憲法的権利を守護するためにもある。と、そう言えるとしても、憲法の機能はそれのみではありません。
畢竟、アメリカ合衆国憲法を想起しても、ドイツ基本法を紐解いても、対外的の貿易や入国管理、もちろん、安全保障の部面での機能は当然として、例えば、社会学的に観察する場合、諸々の憲法が社会統合のための制度装置でありイデオロギー装置であること、更には、それらが統治の道具でもあることは誰も否定できない事実でしょう。加之、支配する者と被支配される者との自同性を建前とする国民主権下の実定法秩序においては、憲法が権力を縛るものであると同時に国民の行動を縛るものであることは毫も矛盾しないのです。
 
▼民族性と国民の歴史と伝統の結晶でもある憲法
まして況んや、ある国の憲法がその国の社会の文化と伝統を軸に編み上げられることは、寧ろ、当然のことというもの。これ自然な流れというだけでなく、「特別法は一般法を破る」のだから。要は、「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」なるものが、その規範の効力において――例えば、「憲法>法律>政令>命令」の関係の如くに――日本国の憲法よりも上位の規範であると言えない限り「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」などは日本の国柄と伝統に道を譲らねばならないことは明らかだろうからです。なに? 「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」を尊重しなければ日本は孤立する、ってですか。そうかもしれませんが、そのご主張は「憲法論」ではないですよね(笑)。

・完版:保守派のための海馬之玄関<自家製・近代史年表>みたいなもの−−(上)〜(下)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/a3221c77ea0add17edf737d21088cf96

而して、「OECD加盟国なる先進国に普遍的なもの」の規範としての上位性の根拠を、①所謂「市民革命」なるものを――中世的立憲主義と区別される――近代的立憲主義の成立時期と措定するなど、「人類史の不可逆な流れ」なるものの存在の想定、よって、②民族性や国の歴史等々の「固有名詞」的な要素を憑依することのない、アトム的で没個性的な<人間>なるものが帯びているらしい、所謂「個人の尊厳」およびその「個人の尊厳」なるものによって基礎づけられるらしい「天賦の基本的人権」の価値の普遍性に――国際人権規約なり幾つかの国際法規や国際慣習法を証人とする価値の普遍性に――リベラル派の論者が暗黙裏(implicitly)にせよ求められているとすれば・・・。
その蓋然性はありうるとわたしは思いますけれども、そのようなタイプのリベラル派の論者は、かって、あのJ.ミルトンが1646年に述べたこととパラレルに、次のような存在であると看做されても、それはそうそう不当な評価とも言えないの、鴨。すなわち、

新しい長老は大書された古い祭司でしかない
New Presbyter is but old Priest writ large. (John Milton, 1646)

リベラル派は大書された――唯物史観を捨てきれない、よって、
普遍的な労働の価値の存在と労働価値説もまた捨てきれない
――マルクス主義者でしかない (KABU, 2017)



整理します。
復習!

蓋し、

>憲法問題を巡るリベラル派のご立腹の理由の推測とその理由の妥当性

リベラル派は、

(1)フランス擾乱(1789-1799-1804-1814)を通して、民族性などとは無関係な、人間が人間であることだけを理由に帯びる「個人の尊厳」とその「個人の尊厳」を基盤とする人権の価値の普遍性が確立した
(2)人権の普遍性が確立して以降の憲法(≒近代的意味の憲法)では、国家権力は専ら人権を守護するためにあるのであり、よって、国家権力は憲法に縛られる存在であり、国家権力が憲法を逸脱することはもちろん、権力の側が、憲法を勝手に解釈することなど許されない
(3)上記の(1)(2)の認識は、原産地フランスを越えて、――ベルギーやオランダ、ドイツ諸邦を経由したにせよ――近代的意味の憲法を継受した(≒押し売りされた&密輸した?)国のすべてに当てはまることだ。また、第二次世界大戦以降は、世界人権宣言、国際人権規約等々の国際諸法規を媒介にして、非継受国にも漸次効力を持ちつつある、よって、(1)(2)が構成するパラダイムは、2017年の現在ではあらゆる国のその国の「憲法の規範意味」と言える
と考えているがゆえに、少なくとも、以下の6点に関してはご立腹なに、鴨です。

・内閣が憲法の解釈を行う事態
・内閣が憲法の改正を促す事態
・憲法に日本の文化的や伝統的な色彩を読み取ろうとする動向
・日本の民族性や文化伝統を改正憲法に盛り込もうとする動向
・超国籍であるはずの人権の普遍性を否定する姿勢
・国家権力の存在理由を人権守護に限定しない姿勢


ご立腹が妥当なご立腹かどうの判定を巡る
憲法論的のポイントは次の3つなの、鴨。すなわち、

(甲)立憲主義と憲法規範の内容
(乙)立憲主義と憲法の概念
(丙)立憲主義と憲法の機能


ここでも復習!


甲>立憲主義と憲法規範の内容はニュートラルであり位相を異にしている
乙>実定法として見る場合、憲法とはある国の実定法秩序体系の枠組みや基盤のことであり、すなわち、それは国民の法的確信を獲得できた諸々の規範命題によって織り上げられる編みもの全体のこと。よって、リベラル派の言う「立憲主義の原理」を時の内閣が順守するか否かと、違憲合憲はもとより、非憲立憲も無関係
丙>憲法の機能は――国防やエネルギー・食糧等々の安全保障、外国人の入国管理は当然のこと――憲法的権利の守護に限定されない、それは、権力を縛る規範であるだけでなく、ーー統治の道具、あるいは、――社会統合の装置として、国民を縛る規範でもありうる

これら、甲>乙>丙>は日本だけでなく、多くの国で、それこそ、「OECD加盟国なる先進国においても普遍的」に観察できる事柄であろうと思います。取り合えず、以上


以下、ほとんど後記。


>憲法問題を巡るリベラル派のご立腹の理由の推測とその理由の妥当性

および、

(甲)立憲主義と憲法規範の内容
(乙)立憲主義と憲法の概念
(丙)立憲主義と憲法の機能

この理由とこれらの論点については、
既に、わたしは、いままでにも
幾つか記事を書いています。例えば、

・瓦解する天賦人権論−立憲主義の<脱構築>、
あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)〜(9)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
・憲法96条−−改正条項−−の改正は立憲主義に反する
「法学的意味の革命」か(1)〜(6)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/7579ec5cfcad9667b7e71913d2b726e5
・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)〜(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/17985ab5a79e9e0e027b764c54620caf
これらの「簡易版」としての

・保守派のための「立憲主義」の要点整理 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9256b19f9df210f5dee56355ad43f5c3
・立憲主義を守る<安全弁>としての統治行為論
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d2b014fb5dcdcb6d9260f7aa8eec3c5f
・立憲主義の無知が爆裂した朝日新聞(上)(下) 
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11767497807.html
・樋口陽一の文化帝国主義的憲法論の杜撰と僭越(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/45e30175093f17dfbbfd6b8234b89679

更には、上記7本、それらすべてのための前哨である

・保守主義−保守主義の憲法観
http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11144611678.html
・憲法と常識(上)(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d99fdb3e448ba7c20746511002d14171
・保守主義の再定義(上)〜(下)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/141a2a029b8c6bb344188d543d593ee2

ただ、浅学菲才の悲しさ。そして、TVで「御活躍」のリベラル派の学者先生方の多くとは異なり、修行時代を京都の空気を吸いながら過ごした出身の流派の違い。
加之、10年くらい前から現在に至るまで、憲法問題に言及される、左右を問わず、大方の論者とは些か異なる<法哲学>的の立場に立っている――分析哲学系現象学流新カント派アメリカプロセス法学一家の共同体重視組に属している――こともあってでしょうか、あっ、それと日本語があまり上手ではないので、リベラル派の方はもとより、占領憲法の破棄または改正を期す保守派の同志の皆さまにも「リベラル派の憲法論はその根拠がかなり怪しい、少なくとも、その根拠は他人事ながら心配になるくらいには脆弱である」ことをお伝えきれていないことを最近痛感しました。 

例えば、リスト一番上の「瓦解」はちょうど4年半前にアップロードしたもの。その(1)などは海馬之玄関系4ブログ通算で今でも月に2000アクセスは稼いでくれている、孝行娘。で、この間、偶然読んだのですが、ある保守系の掲示板ていうか弛いSNS で、保守派のみなさんがこの孝行娘、褒めてくれていた。「この間、サヨと議論したとき、この記事の立憲主義の分類が効いて秒殺したとかしなかったとか」等々。
・・・孝行娘まったく理解されていなかった。
・・・理解されないまま秒殺の舞、お手伝いさせられていたのね、とかとか。
よって、本稿はその主張の根拠の披露と展開は上記10本の記事に丸投げさせていただき、リベラル派の憲法論の根拠の怪しいさ脆弱さにフォーカスして、わたしの認識と主張のそのスケルトンのみ書き流したものです。本稿が上記やその他の拙稿と併せて、しかし、他とは違う役回りを演じてくれること、もって、占領憲法の破棄または改正に向かう保守派の皆さまに少しでもお役に立てればうれしいです。
 
共に闘わん❗

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