前嶋和弘(上智大総合グローバル学部教授)

 ラスベガスでアメリカ史上最悪の銃撃事件が起こった。極めて凄惨な事件であり、ホテルから連射する犯人の残忍なシーンは正視に耐えない。この事件の背景には何があるのだろうか。改めてアメリカ社会における銃の意味を考えてみたい。

 アメリカで現在利用が可能な銃の数は、アルコール・たばこ・火器爆発物取締局(ATF)の推計によると、2009年のデータで推定3億1000万丁以上となっている。しかし、アメリカ国内での銃の生産数は特にこの10年間で伸びているため、銃火器の数は3億2000万人の人口以上とみられている。

 このように銃の生産量は驚きの伸びを記録している。ピストル(自動拳銃)、リボルバー(回転式拳銃)、ショットガン(散弾銃)、ライフル(小銃)、その他を合わせた数は2007年ごろまでは400万丁を超えることは多くなかったが、その後、右肩上がりで伸びており、2013年には1000万丁を超えた。2014、15両年はやや減ったものの、900万丁以上で高止まりしている。

 そしてこれだけ生産されるということは需要があるからだ。すでに銃が多くあるアメリカ社会の中では規制を待つよりも自分で自衛する方が得策と考えるためだ。それもあって、2012年1月のコネチカット州のサンデーフック小学校や2016年6月のフロリダ州オーランドなどでの乱射事件の後は銃の販売は一気に増える。

 おそらく今回のラスベガス事件を受けて、銃販売数は急伸していくであろう。銃は比較的小さめの銃火器店で販売されることもあるが、近年では総合型の大型小売チェーンでの販売も目立っている。最大手であるウォルマートはアメリカ、そして世界最大の銃火器小売店となっている。クリスマスプレゼントを購入する感覚で、ウォルマートでライフルを買うというケースも数多い。
http://ironna.jp/file/w480/h480/348e76336fd243371ea3a1f3d14157a6.jpg銃乱射事件の現場に供えられた花束の前で祈る女性ら=10月3日、米ネバダ州ラスベガス
 ウォルマートは対面販売しか基本的には行っていないが、ウォルマートの通販サイト上で銃の価格をみることができる。安いものなら30ドル程度のライフルがあり、旧モデルの割引価格なども確認できる。

 日本社会では一般では狩猟用を持った人たちが特別に銃火器使用の免許を与えられているくらいである。これだけを比較しても、日本とは大きく異なるのは言うまでもない。

 では、なぜ銃が増え続けるのか。日本では「全米ライフル協会が強いから」と指摘されることが多いが、それだけが原因ではない。その理由は、大きく分けて三つ考えられる。

 まず、第一の理由が、「どうしても銃を持たないといけない」と感じる必然性がある地域がアメリカには存在することである。そもそもアメリカは日本の25倍である。人口は1億2000万人の日本の2・6倍と考えると、極めて広い。想像すればわかるように、都市部を除けば、警備会社や警察などを呼んですぐ来てくれるようなことはなかなか難しい。

 そのため、どうしても自衛しなくてはならないという意識が開拓の時代から続いてきた。協力して自衛する「ネイバーフッドウォッチ」といったものを含めて、銃は欠かせない。

 この自衛については合理的である部分は確かにある。しかし、私がどうしても「ゆがんでいる」と感じてしまうのは、長年作り上げられてきた銃をめぐる文化である。これが二つ目の銃が増え続ける理由である。
 少し訓練させた後、父親が息子を野生動物の狩りに連れ出す「男の生き方を教える」といったマッチョ的な文化が、南部や中西部など保守的な地域では根付いている。女性も行うケースもあるが、父と子や、男同士が連れだってワイルドに野生動物を仕留めるのがこの文化のしきたりである。

 また、保守的な地域の政治文化とリベラルな政治文化とは大きく異なるのがアメリカである。リベラルな地区の人々の間では銃を規制する声が強く、そもそもそんな銃文化が根付いていない。

 筆者はかつてワシントンやその郊外に8年弱住んでいた。都市部であるため、そもそも野生動物がいない。また、全米でも最もリベラルな地域であるため、このマッチョな銃文化は映画と小説の世界のものであった。

 ただ、最後に住んだ郊外のアパートで、その文化の一端を知ることになった。アパートはちょっとした小さな森と隣接していた。森にはとても愛らしい瞳の小鹿がたまに現れた。その姿をみるために、毎朝、妻と森を散歩するのが楽しみだった。鹿は臆病なのでこちらが近づくと逃げてしまう。そのため、双眼鏡をいつも持参していた。

 だが、ある日、アパートの玄関先で、管理人たちの3人組(男だった)が「鹿がいるらしいぜ」と笑っていたのを耳にした。「仕留めよう」「あした俺はライフルを持ってくる」「俺は弓」と喜びながら話しているのを聞き、背筋が凍る気がするのと怒りがこみ上げた。「そんなことするんじゃない」と強い口調で話しかけたが、両手の掌を上に向けて興ざめのポーズをとった。

 次の日以来、小さな森に小鹿は出なくなってしまった。楽しかった散歩も耐えられなくなり、翌月に引っ越しを決めた。

 マッチョ的文化には格好をつけるような部分も含まれる。日本の高校生が突っ張るのと同じ感覚で、自分を大きくさせるのに必要な小道具が銃である。そんな文化は個人的には耐えられない。ただ、それが拡大再生産的に大きくなっているのも事実だ。

 その銃文化にお墨付きを与えているのが、銃が増えている第3でかつ最大の理由といえる合衆国憲法である。日本でもよく知られるようになったが、銃の保有の法的権利は憲法修正第2条の「武装権」に由来する。

 修正第2条は具体的には「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるため、国民が武器を保持する権利は侵してはならない」と示しており、個人が「規律ある民兵(a well-regulated militia)」にあたるかどうかはアメリカ国内で様々な議論がある。しかし、この条項が、銃所有の普及を提唱する人々の法的根拠となっているのは間違いない。

 そもそも憲法修正第1条から10条は「権利の章典」として「表現の自由」などとともに人々の市民的自由、つまり基本的な人権を守るために最初の議会がスタート時に入れたものである。

 なぜそれが「銃を持って立ち上がる権利」が基本的人権なのか。法解釈にもよるが、独裁政権からの革命権であるためだ。イギリスから血を流して独立した自分たちの歴史(←これがそもそもの間違えなのだ;此の血はインディアンを虐殺、抹殺した血なのだを踏まえて、「隷属からの自由」を徹底的に守ろうとする建国当時の政治文化を象徴している。 (←そうではない。如何にしてインディアンから身を護るか、そしてインディアンを虐殺抹殺するかという文化なのだ。)

 ただ、現代の私たちの目には、「革命を認める権利」はあまりにもアナクロ(時代錯誤)だ。「銃を持って立ち上がる権利」は「銃社会アメリカ」を象徴する権利として映ってしまう。(←きれいごとばかり並べたって何の意味もない。)
 一方で、銃規制反対派にとっては憲法上、保護されているという自由を行使する権利そのものである。この修正第2条があるため、アメリカの銃が抜本的に減るような気配は全く見えない。

 また、本格的な規制は「人権侵害」ということになってしまうため、この条項の修正という大きな労力が必要であるが、上述の1の自衛権もあって、憲法改正はまず不可能に近い。それもあってリベラル派が主張してきた規制も、殺傷能力が高いマシンガンの性能を弱めることや、銃購入希望者の病歴を確認するようなものに限られる。

 修正第2条という「ラスボス」は、今後もさらに大きな銃犯罪を生んでしまうのかもしれない、といったら、リベラル寄りすぎるだろうか。(←前述の通り、アメリカ合衆国の生い立ちを否定しないことにはどうにもならないのだよ、前嶋君。)