松尾光太郎 de 海馬之玄関ブログ

大東亜戦争後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた「戦後民主主義→リベラル派」を果敢に批判します

女流4作家的な

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ジーン・ウエブスター、アガサ・クリスティー、マーガレット・ミッチェル、そして、めりー・ポピンズのあの美魔女についての記事いきます。
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世の中には、時代に変革をもたらすため、神の使命を帯びてこの世に生まれ出る人が数少ないながらいる。池田理代子先生も間違いなくその一人だろう。
いま、横浜高島屋で、「デビュー50周年記念展 ベルばらとともに」という、池田理代子先生の展示が行われている。ベルばら世代のひとりとして、これを見ずにおれようか。昨日行ってみた。


RQコードを読み取って持って行くと100円引きで入れる。

新しく知ることが多々あった。池田先生はデビューした19歳のころ、貸本漫画家としてスタートした、ということ。ゲゲゲの作者も元は貸本漫画家だったが、当時はまだ子供たちが漫画を買うという時代ではなかったんだろうか。
池田先生が一番最初に強い影響を受けたのは、手塚治虫先生の「つるの泉」とい作品だったこと。デビュー当時の池田先生の絵柄を見ると、手塚作品にそっくりである。

それから徐々に人気を得て、初の長編連載の話が持ち込まれたときに、高校2年生(!)の時に読んだツヴァイクの「マリー・アントワネット」を思い出し、歴史物の連載を提案すると、編集部は「少女漫画に歴史ものは絶対あたらない」と猛反対されたこと。当時の少女漫画の認識は、その程度であったから、編集部の反対もやむを得ない。それを「絶対にあててみせます」と押しきり、あたらなかったら連載打ち切り、という条件で連載開始。その後の結果は言及するまでもない。世界各国の言語に訳され、フランスからは勲章をもらい、宝塚では繰り返し上演されてきた。

ベルばらは、少女漫画そのものだけでなく、時代を変え、女性の生き方まで変えたと言っても過言ではない。改めて驚かされるのが、池田先生は当時わずか24〜25歳だったということだ。しかも既に結婚していながらあれだけの作品を描き上げた。

池田先生は、その後も47歳で音楽大学に入学し、声楽家としても活躍されている。美人なだけでなく、どれほど才女なのだろう。

写真撮影可のコーナーがあったので、宝塚で着用した衣装と「顔はめ」だけ撮ってきた。

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でも、正直、宝塚の世界って、ちょっと恥ずかしくて私はだめなんだ。

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開場にはそれこそ老若男女が多数来ていた。老人の男性の場合は、妻に連れられて、だろう。若い女性が多数来ていたが、母娘一緒というパターンが目についた。彼女らは、お母さんにベルばらを読むように言われて育ったに違いない。そうやって代々あの傑作が受け継がれていくのはすばらしいことだ。

5月8日までです。


転載元転載元: 桃実 says

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ブログ友「ふくふきまま女史」との約束をはたすべく、
桜が咲くころまでには、

>one パラ道場−あしながおじさん"Blue Wednesday"(全文) de 英文読解

をアップロードすると思います。←これは「予定は未定だもん」ではない。だって、共通語版のほか、九州弁バージョンと関西弁バージョンとドイツ語バージョン、もう10年以上前に翻訳してるからね。
 
・資料:DADDY-LONG-LEGS ”BLUE WEDNESDAY”(全文)
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/eb5d28f1a84923bbdf9d2c04def4aa3f
 
で、語彙解説は終わり、あと文法と語法の解説に気合を入れているとこ。
また、著者のウェーブスター女史が念頭に置いていたであろう当時のアメリカ社会をより<手触り感>のあるものとして提示すべく、1890年から1915年までのアメリカの主要な憲法判例を物色しているとこ。ごそごそ。
 
はい、そう、日本の刑法の通説・判例でいえば、
>「窃盗罪」の実行の着手のルビコンを渡った、鴨というとこ(笑)。
 
而して、これはできるかどうかわからないけれど、明治末期から昭和初期の所謂「自由法論」のアイデア。すなわち、末弘厳太郎・穂積重遠の両先生が1890年から1915年までのアメリカ法から受けた影響なども折込みたいと「野心」しています。

蓋し、「あしながおじさん」(DL)と「続・あしながおじさん」(DE)に関しては、
妙訳を含め日本では・・・(驚愕)。
 
例えば、『児童文学翻訳作品総覧−明治・大正・昭和の135年間翻訳目録-7』(大空社・2006年3月)によれば各々、2004年までに107点と8点の訳書が出版されているらしい。さらに、KABUの昔の勤め先の旺文社の同僚に調べてもらったところ、2004年から2016年の13年間で後者は−−厳密に言えば−−皆無だけれど前者のDLは細かくいえば6点訳書がでているらしい。

これすごいことですよ。だって、
それだけ、売れる(だろう)と出版社が思った
ということだからね。

社交辞令ではなく、どの作品にせよ先人の業績に敬意を表するにやぶさかではない。けれど、そして、正直、はったりぬきに読んだのは「DE」は全部にしても、「DL」は、107+6分の60くらい(恥)しかないけれど・・・・。不満がある訳書もなくはない。

私は専門の翻訳家ではない、逆に、別に義理もない。きっぱり。

しかし、まー、悪口は聞いている方も面白いけど気分のよいものではないでしょう。だから、駄目と思うものは書きません。しかし、113の中には素晴らしい訳業が幾つもある。
 
例えば、
 
・松本恵子・新潮文庫(1954)←最高傑作〜♪ でも、数学と法学もう少し調べていたら・・・
・北川悌二・三笠書房(1959)←艶はないけど正確、たぶん
・曾野綾子・講談社(1961)←さすがですね
・白木茂・岩崎書店(1963)←ある意味、アメリカ人が理解する「DL」、鴨ね
・坪井郁美・福音館書店(1985)←松本訳に匹敵するできばえ、鴨
・木村由利子・集英社(1990)←妙訳だけど、すごい! まあ、語学力とは異質の訳者の才能でしょうか?
・谷口由美子・岩波書店(2002年)←反日の岩波のものだけど誠実な労作、鴨?

同著者の「おちゃめなパティ―」シリーズの訳書の中で、どなたかが、
岩波文庫旧版(1933)の遠藤寿子さんの訳を称揚しておられた。しかし、私は遠藤訳は勘弁です。

また、正直、日本ではカリスマの(笑)村岡花子さんの訳(1951)なども、よう恥ずかしくもなくこんなん出版しましたね、とここに書いてはばからない。
だって、KABUも寛子ちゃんも翻訳業界で喰ってないもん(笑)
そして、文句があればネット上で文法・語法、アメリカ法論争しましょうか?
 
と、而して、できれば、今後、
 
あんびるやすこさんのイラスト
なかがわちひろさんの訳で
>アリス館か岩崎書店からかな?
 
平成というか日本語の決定版「DL」の翻訳がでることを期待します。

・海馬之玄関推奨図書:だいすきなパパへ−−BOARTS FOR PAPA
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d1f0b590a5f95fec68b54d74787fffaf

・最近のマイブーム紹介−個人のブログだもの、たまには軽めの記事もいいよね
 
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/bcfc256a1e0efe1f8fe81d4462084a50

ということで、以下「one パラ道場−あしながおじさん"Blue Wednesday"(全文) de 英文読解」のキャスト紹介
 
なぜならば、オフ会とかでKABUにあった方はご存知のように、
海馬之玄関のエントリー記事、画像決めてから記事の内容考えるのですよね。 だから、この記事わりとKABU的には重要なんです。
 
Here's a photograph of all three that Leonora Fenton took. The light one who is laughing is Sallie, and the tall one with her nose in the air is Julia, and the little one with the hair blowing across her face is Judy--she is really more beautiful than that, but the sun was in her eyes.(DL, So-Nov.12)
 
 
 
イメージ 2




























Jerusha Abbott
 

 
イメージ 3





























Sallie McBride
 
 
イメージ 4




























Mrs. Lippett
 
 
イメージ 5














Leonora Fenton


 
で、一番悩んだのが・・・このピース。
はい、でも、やはり、
 
 イメージ 6












JUlia Pendelton
 
新垣結衣, 篠田麻里子, 小嶋陽菜, 朝比奈彩さん、あるいは、阿部マリアちゃん, 野澤玲奈ちゃんたちを最初は思い浮かべたけど。ていうか、−−個人的に贔屓の佐々木希さんとか大家志津香さんは私のイメージと合わないし横山由依監督も團遥香ちゃんもその意味で論外だから−−、最初は、北川景子さんにほぼ決めていたのです・・・。

が、しかし、やっぱ、キャラクターにふくらみをもたせたい。
ならば、個人のブログなんだからね、ここは(笑)。
で、独断専行。

休場中(?)のほしのあきさんと、あと、弊海馬之玄関ブログにおいて別格の幾人かの<女神様方>を除けば、今、一番のお気に入りだし(←正直だよね〜、わたしたち)・・・。この選定になりました。

要は、わたし、ジュリア嫌いじゃないんですよ。
だって、裏表のないわかりやすいひとでしょう、彼女?
それに、意外とおちゃめだし。
 
おしまい。
 
 
・温故知新:「あしながおじさん」を貫くアメリカ保守主義の精神
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/dc30651b55d86bc227fc7a651a74dfca
 
・「あしながおじさん」を貫く保守主義の人間観
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/fec9cef04c2df7543851e834dc5a2a41
 
・海馬之玄関ブログはより形式主義的な保守主義の再構築を期めざします
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/95af6165e9056f2eceb4ed7470f63c8d




 

2011年11月18日 10時00分03秒 | 書評のコーナー



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アガサ・クリスティー(Dame Agatha Christie , DBE; 1890年9月15日 − 1976年1月12日)は、言うまでもなく「ミステリーの女王」。その作品評論や伝記の類は枚挙に暇がないほど。よって、本稿は、屋上屋を架す愚は避け、クリスティー作品を読むことから21世紀の日本の読者が得ている<愉悦>の正体という現象に絞って随想するものです。

而して、「オタク」の域に入ったクリスティーファンの仲間内での楽しみ方、例えば

「ミス・マープルは都合何人のメイドを雇ったか?」「何回、ポワロは「灰色の脳細胞:grey cells」という言葉を使い、ポワロ以外には誰々が合計何回この単語を使ったか?」「ミス・マープルと彼女の年来の同志(her old cats companion)になるドリー、バントリー夫人は、『火曜クラブ:The Tuesday Night Club』(1932)で最初に会ったときにはそれぞれ何歳だったのか?」


とかの、現実社会とは関係なく<クリスティーの作品世界>の内部だけで完結する、そんなタイプの戯れの愉悦は本稿では論じないことにします。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/4a/1c396890a78f47fce1332b6a1f5cd28a.jpg

また、例えば、

有名な1926年の「失踪事件の真相」を巡る甲論乙駁が、ある意味、その典型でもあるのでしょうが、その他、「クリスティーが創作した架空の村、セント・メアリ・ミードは英国のどこにあるのか?」「長編は年に1冊のペースが原則(?)のクリスティーが、ポワロとマープルの両看板役者主演の作品を同じ年に上梓した、1943年と1953年の間で、すなわち、『五匹の子豚:Five Little Pigs』と『動く指:The Moving Finger』から『葬儀を終えて:After the Funeral』(thereafter the title changed to "Murder at the Gallop")と『ポケットにライ麦を:A Pocket Full of Rye』の間で、ポワロとマープルがそれぞれのメイド/執事に払った給与は月給ベースでどう変動したか?」 


等々の、現実の社会と無関係ではないが、さりとて、それがどうであろうと、単に<クリスティーの作品世界>の理解が幾らか進むにすぎない、そんなタイプの探求から得られる愉悦も本稿の考察の射程には入れません。きっぱり。

というか、そういう愉悦のためには、例えば、『ミス・マープルの愛すべき生涯:The Life and Times of Miss Jane Marple』(Anne Hart, 1985; 浅羽莢子訳, 晶文社・1989), 『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?:Agatha Christie and the Eleven Missing Days』(Jared Cade, 1998; 中村妙子訳, 早川書房・1999)等々、その道の<研究書>も少なくないですからね。

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/f8/983fc41e44c0a037666929e98950b46a.jpg

而して、更に、「ミステリー:推理小説」なるものに、おそらく、不可避的に付随するだろう(犯罪の手口若しくはアリバイの捏造、あるいは、犯罪の動機若しくは事件の社会的背景等々、)広い意味の犯罪を巡る謎解きの面白さも(それは個別、クリスティー作品に限られたことではないでしょう。)、本稿では除外しようと思います。敷衍します。

実際、その奇抜なトリック(?)で有名な『オリエント急行の殺人:Murder on the Orient Express』(1934)、あるいは、そのトリックが(読者に対して)フェアーではないのではないかとの物議を醸した『アクロイド殺し:The Murder of Roger Ackroyd』(1926)、更には、『雲をつかむ死:Death in the Clouds』(1935)や『二人の老嬢 :The Companion』(ミス・マープルの<デビュー>作である短編集『火曜クラブ:The Tuesday Night Club』(1932)に収録)で冴え渡っている、人間の「パターン認識としての他人観察の傾向性」を逆手に取った、心理的盲点を突くトリックの斬れ味。これらからだけでも、クリスティーが犯罪の謎解きの領域においても一流のミステリー作家であることは間違いないでしょう。


しかし、その領域における彼女の技量は、例えば、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe, 1809−1849)の古典的な『モルグ街の殺人:The Murders in the Rue Morgue』(1841)等々、あるいは、モーリス・ルブラン(Maurice Leblanc, 1864−1941)の「ルパン」もの(発表年:1907年〜1939年)やコナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle, 1859−1930)の「ホームズ」もの(発表年:1887年〜1917年/1927年)と質的に異なるものでしょうか。私はネガティブに感じる。そして、この領域における作者の高い技量も、クリスティー作品をこの道の他の腕っこきのミステリー作家の諸作品から<聖別>する決め手にはならないと思うのです。これが、犯罪を巡る謎解きの面白さの契機を本稿の考察から除外する理由です。

では、これらの限定を施した場合、一体、クリスティー作品の魅力は何に起因すると言えるのでしょうか。


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◆解釈の機能と条件

ミステリーの中には、例えば、『刑事コロンボ:Columbo』(1960, 1962, 1968−1978, 1989−2003)の大部分の作品のように、最初から犯人も手口も<読者>に明かされている作品も少なくありません。実際、『水戸黄門』、否、ミステリーに限らず古典的な作品の世界、すなわち、歌舞伎や文楽の演目、シェークスピアの戯曲などはすべてこの「コロンボ」タイプの作品と看做せるのかもしれません。

これらの場合、よって、<読者>の愉悦は、比喩を使えば、完成時の図柄が既知のジグソーパズルの楽しみに似ている、鴨。そう、パズルのピースを「コロンボ=読者の分身」が適宜拾い集めて図柄を完成させるプロセスに愉悦の源泉はあるの、鴨。

つまり、このタイプのミステリーの場合、<読者>の愉悦は、予定調和的に推移する作品の仮想的な時空を共有すること自体にある。蓋し、(完成したジグソーパズルそのものではなく、)ジグソーパズルを完成させるプロセス、すなわち、完成のプロセスの目撃や、そのプロセスの追体験と感情移入(reliving and empathizing with)にあるのではないでしょうか。

要は、このタイプのミステリーでは、<読者>はあたかも、主人公の刑事や探偵、検察官や弁護士、あるいは、科捜研の女に憑依して、試行錯誤を経ながらも謎を解明する疑似体験を楽しんでいるのではないか。而して、読了の際には、謎という意味でも、犯罪という意味でも、その<事件>によって乱されてしまった(仮想空間ではあるにせよ)世界に秩序を取り戻せたことに対してカタルシスさえ覚えているの、鴨。


http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/54/27/4dd47b0a5135b70c391885a185b0e582.jpg


ミステリープロパーの愉悦を除外する場合、しかし、クリスティー作品の魅力は、この謂わば「追体験−感情移入」を触発する作品の機能に還元され尽くすわけでもない。而して、他方、この「コロンボ」タイプの作品の愉悦を基礎づけているものは、漱石や鴎外、司馬遼太郎や星新一等々、ミステリーに限定されないテクスト一般に当てはまる、所謂「解釈学的循環:Hermeneutic circle」の契機でもありましょう。そう私は考えます。

ちなみに、「解釈学的循環」とは、

(ⅰ)テクストの全体の意味の把握にはその部分の意味の把握が不可欠であり、他方、テクストのある部分の意味はテクスト全体の意味を前提にしてのみ理解可能である。よって、(ⅱ)テクストの意味は(テクスト解釈のルールが別途定められるか、あるいは、テクスト外的の情報が新たに得られない限り)唯一の「真理」なるものに到達することはない。

すなわち、(ⅲ)解釈とは、「部分→全体→部分→全体→・・・」という無限に続く螺旋状に上昇/下降する作品内容の理解の営為に<読者>を誘うものである。而して、(ⅳ)この螺旋状の循環プロセスの中で<テクスト>も<読者>も、漸次、新しい地平で新しい<テクスト>と新しい<読者>として、これまた、無限に、すなわち、恒常的かつ不断に再構築されていくというアイデアのことです。


しかし、「解釈学的循環」なるものを含む解釈の営為の意義と妥当性は、

①作品の不透明性
テクストの意味が(大昔の作品であるとか、外国の作品であるとか、はたまた、日本人にとってのギリシア悲劇の如くその両方の側面を持つ作品であるとか、あるいは、イデオロギーを異にする作者の作品や<読者>が不案内なある専門領域の知識・情報を下敷きにした作品であるとかの理由で)自明なものではない/自明なものではなくなったテクストについて、

②解釈権威の消失
そのテクストの意味を確定する能力や権限を持つと社会的に了解されている(例えば、かっての「ローマ法王」や「ソ連共産党」、「東京大学法学部」や「アメリカの連邦最高裁」、「聖霊」や「唯物史観」等々の)権威者や権威的な解釈原理が不在な、すなわち、<神が死んだ社会>における解釈においてのみ認められるもの。   


而して、テクストの文言は一字一句、著者をして<聖霊>が書かしめたという『聖書』解釈における所謂「逐語霊感説」が神通力や説得力を大幅に喪失した<神が死んだ時代>に生きる我々にとって、つまり、客観的で普遍妥当性を帯びるテクストの意味などは肯定できるはずもない、すなわち、テクストの意味の正しさはあくまでも間主観的なものでしかなくなった20世紀後半以降の<乏しき時代>を生きる我々にとって、重要なことですので繰り返しますけれども、上記の「解釈学的循環」の契機は、「コロンボ」タイプの作品の解釈に限らず、ミステリーに限らずあらゆる作品の解釈について認められる事柄。ならば、この「解釈学的循環」の契機のみによって、個別、クリスティー作品の魅力を基礎づけることはできないのです。


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 <以下転載元の(承)に続く↓>

・覚書★アガサ・クリスティーという愉悦(承)




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