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この作品については、原作は一通り目を通していますが、それほど好みではないので、特に映画を観るつもりはありませんでした。
しかし、あまり映画の評判がよろしくないので、逆に興味をもって、先にレンタルされた「進撃の巨人〜反撃の狼煙(ノロシ)〜」の三話分を観て、そのクドサにゲンナリしたものの、映画なら〜狼煙〜よりトクサツがましなんじゃネ!と思って先週、ブルーレイを借りてきて観てしまいました。
そして、以下はそれについての感想なのですが、この際、進撃〜について考えていることも少し書かせてもらおうと思います。
まず、原作についてですが……
巨人という自然災害にも似た「絶対災害状況」に人々を投げ込んで、その反応を記そうとする、そういった手法自体は、よくあるものだし悪くないと思います。
例えていえば、バイオレンス・ジャック冒頭の関東大震災勃発場面などですね。
まあ、永井豪畢生(ひっせい)の傑作シーン(とわたしは思っているのです)と比較するのは酷だとしても、地獄に棲むといわれる巨大な人呑鬼(じんどんき=人喰い鬼)を、SF設定で未来に持ってきて、さらに群れで出現させ、多数のヒトが「生きながらにして喰われる」というショッキングな画でアイキャッチするという手法は、ご存じの通り、日本だけではなく世界的にも通用して大人気になったわけですから、素晴らしい考えであったと思います。
まあ、個人的に、画の迫力や緊迫感、恐怖感は、今やギャクマンガの様相を呈してきた「彼岸島」シリーズの初期の巨大オニ出現の方が上だと思いますが……
一時、指摘された、人間側がとる「戦略上のアナ(あり得ない戦術)」は、気にはなりますが、それは仕方がないと思います。作者は万能ではありませんから、準備不足もあれば得手不得手もある。
それより、わたしにとって「進撃〜」を苦手作品にしてしまったのは、ところどころに散在する観ていてキツくクドい描写、たとえば、ハンジの意味不明なオーバー・アクションやサシャのイモ頬張りシーンなどですね。
あのように、学者が研究熱心のあまり狂ったようにオーバー・アクションになるなんて、(ギャグマンガを、ただ真似るデキの悪いコントか、クドウカンクロウの映画でしか観ない)実際には病的でない限りほとんどないので、それほどまでに、キャラクターのかき分け(あるいはキャラを立たせること)は難しいのだなあ、と気の毒になります。
いや、もちろん、オーバーアクションをウリにしている小劇団ならばいいんですよ。わたしは好きではありませんが。
世界の雰囲気(セカイカン、ではなく)が、オーバーアクションで統一されているなら。
他の人間がフツウに話しているのに、突然、ハンジだけがテンション高くて違和感が強すぎるのですね。
あの映画の流れの中で、実写的にそれはいらないでしょう。
サシャが芋を飯を腹一杯喰いたいがために、ほぼ口減らしとして軍に入れられるのは、実際に、先の大戦の貧農などでもままあったようですからわかります(もっとも、現実においては、入隊後は、ホメられ育った世代には信じられない、漢字一字で書けば「無理編にゲンコツと書く」といわれたほどの人格否定、鉄拳制裁オンパレードだったわけですから、進撃ワールドとは違いますが)。
それはおそらく大食漢、つまり漢(オトコ)だったから、ありえた訳で、女性にその役を振るのは、男女平等の未来軍といえども、なんとなく違和感がある。
いや、美しい少女が、無心に握り飯を口いっぱい頬張って食べ続けるシーンは、かつてNHKの山本周五郎短編集などでも印象的に使われてましたし、あるいは、作者諫山創氏も、そういったものから影響を受けて、ある種ガス抜き的な役割として(本来は、シリアスさをますために使うべきだと思いますが)原作に配置したのだとおもうのですが、実写化にそれはいらないでしょう。
ほら、忙しいのに、カレーを口いっぱい頬張ってるのは、モモレンジャーではなくキレンジャーだったじゃないですか(って、ゴレンジャーもよく知らないくのに知ったかぶり)
しかし、なんといっても、わたしに決定的な違和感を感じさせたのは、巨人襲来という絶対状況に陥った人々の反応です。
信じられないほど恐ろしいモノがやってきた。
人間の力では対抗できない、あそこで喰われている、こちらでも喰われた、だったら、他人のことなんか気にしてらんねぇ、どけどけ、早く建物に逃げ込め、逃げ込んだら、すぐに戸を閉めろ、他人のことなど知ったことか、誰だって我が身が可愛いんだ。
子供連れの女性を押し退け、老人を蹴り倒し、目を血走らせて、丈夫な建物へ飛び込む。
こういった安易でステレオタイプな人間不信への決めつけ描写が不快で到底受け入れることができないのです。
安っぽい、人間性を蔑む描写は、自分の狭い了見と浅薄(せんぱく)な経験を基に、頭の中だけで恐怖を想像し、人々の動きをシミュレートする幼い思考の発露です。
現実は、そんな安っぽく単純なものではありません。
みなさん、お忘れですか?
多くの映像が残っている、あの恐ろしい津波が襲ってきた時に、人々は、他人を押し退けて自分の身を守りましたか?
中にはそういったこともあったでしょう。
しかし、その多くは違った。
事実は、歴史が証明しています。
ベトナム戦争では、ベトナム人の子供を守って仲間に撃たれた米兵もいる。
平常時の自分の醜い部分を見つめ、それを拡大することで、極限状態のヒトの行動を描こうとすると、どうしても、中二病臭い、というより、薄っぺらな人間不信描写になるのですね。
個人的に、緊急時に、「奇妙に利他的な行動をとってしまう」ことがあるのが、「ヒトの恐ろしさである」とわたしは思っているので、緊急時に泣き、叫び、喚き、ヒトを押し退け、と平常時に想像できるストーリーは、なんとも浅薄すぎるように思うのです。
どうにもペラペラに見える。
同じ極限状態なら、先の彼岸島シリーズの方が遙かに肉迫して感じますね。
もちろん、何度かそういったことが続き、優しく頼もしく、人を助ける人が、何人も目の前で巨人に喰われるのを見ることで、「善人なのは立派だけど、俺は、ああはなりたくない」と、利己主義を固めることもあるでしょうし、太平洋戦争の戦中・戦後の動乱期にはそういったことも多かったでしょう。
しかし、進撃の巨人は、「最初の一撃目」で、それを出すからいけない。
それをするから、残酷描写も、深みのない薄っぺらな虚仮(コケ)脅かしに見えて、萎えてしまうのです。
だから、好きになれなかった。
その中にあって、唯一、共感できたのは、幼い頃に、エレンとその家族によって助けられた数少ない日系人(それとも、はっきり日本人だった?)ヒロイン、ミカサの「どんな時でもエレンを守る」という鉄の意志と、それを支える筋肉と反射神経、運動能力の高さ動きの美しさです。口数が少ないのもいい。
あたかも、TOS(スタートレック・オリジナル・シリーズ)で、カーク船長を、陰で密かに支え続けるバルカン星人のスポック副長のモデルが日本の武士であったように(だからスポックも身体能力が高く、口数が少ない)。
さらにいえば、わたしにとっての松本零士最高傑作「セクサロイド」のユキ7号のように。
「シマ、わたしの愛しい人、私も日本の女……あなたは私が守る」
もちろん、旧弊な男女意識を持つエレンは「男が女に守られるなんて御免だ」派ですから、現実的に能力差からミカサに救われることが続いてフラストレーションが溜まったころに、例の「エレン巨人化」が起きるわけです。
ここに至って、特殊能力で力関係逆転化。
ま、もちろんそんなに単純ではないのは、読まれた方はご存じでしょうが。
しかし、流れ、設定、つまりキモとしてはそういったところでしょう。
それが、ところが、なんたることか……これも映画をごらんになられた方はご存じでしょうが、映画では、ミカサの心情がまるで違っているのです。
もう、言い尽くされているでしょうから、手短に書きますが(できるかどうかココロモトナイけれど)……
ざっくばらんにいえば、最初は恋人どうしでキスもする仲なれど、巨人襲来時「押すない突くない(河内音頭ふう)」「赤んぼ守れ」で、やっさもっさしているうちに、結果的にエレンがミカサを見捨てたことに。
二年後、行方不明だったミカサが戦士として成長しカムバック。
コンサートで綿飴を作るしか能がなかったピエール滝は酔っぱらいに……(ウソ)
すっかり汚物を見る目でエレンを見るミカサ。服を引っ張りあげるとワキバラには巨人のハガタが……
ハダカにハガタ、うまい!
は、ともかくとして、あの「死んでもあなたを守る」派だった原作ミカサが「汚物目」ミカサに改変ですよ。
いったいどんな力が、監督、樋口真嗣氏と脚本を書いた町村智宏氏&渡辺雄介氏にかかったのでしょう。
いずれにせよ、彼らに、その改変を行わせたものたちは万死に値すると思います。
まさか、
「オトコに尽くすオンナなんてダサ古いし、女性がピカピカする時代にはそぐわない(政府与党のマニフェストにあった女性がカガヤク〜は、いつのまにか一億総活躍〜にとって代われれましたが)、これからは、アクション映画でも、女性が主役で好きにオトコを選べるのよ」
という趣旨でイケ、とか誰かいったのか?
だったら、ほかのオリジナル作品を作れ!
「快進撃の兄シキシマ」とかね。
進撃〜の唯一の美点を消したらなにも残らんだろうが〜
わたしですら、そんな感想を抱いたのですから、熱心なファンにとって、その心痛いかばかりか、お怒りお察しします。
ま、映画の感想は、そんなところですね。
まこと、物語の映画化は、運が90パーセント超です。
監督、脚本、プロデューサー、スタッフ、役者、そのどれが欠けても、こんなふうになってしまう。
うまく映像化できても、そのデキは、原作比60パーセントどまり。
その逆は、ほぼ皆無(というか、その時、映画は原作と別作品扱いとなる)。
すまじきモノは宮仕え、ならぬアニメ原作の実写化、ということでしょうか。
p.s.
そうそう、辛口評論で知られる町山氏が、自身の脚本による本作についてどう思っているかをまとめたサイトがあったので、紹介しておきます。
まあ、町山氏が映画公開時にいいわけめいた事をしたのは、ナンだと思いますが、彼にとってみれば、初の長編映画脚本執筆で「狂犬に噛まれた」ようなものなんでしょうね。
「反撃の狼煙(第三話)」のバカップルのクドスギル話を撮るような、作品とはベクトルの違う監督と、「俺にとってはアニメが本物なンで、実写は好きにやってください、あ、でも、これとこれとこれは原作と変えてヨ」などと、わがまま言い放題の原作者、原作の流れを理解してない制作者のヨコヤリ、などの板挟みになって身動きがとれなくなった。
それと、少し驚いたのは、町山氏が、「あの(素晴らしい)映画のこのシーンとこのシーンと、このシーンを翻案して使った(つまりパクった)」と言っているらしいことですね。
わたしも、小説を書いたりしますが、その時に「あの映画のこのシーンを使おう」なんて、決してしません。
どちらかといえば、その雰囲気を残しながらも、違うテイストで話をつくろうとしますし、それがもの作りの人間としての、最低限のルールだと思うのですね。
いっそ、クエンティン・タランティーノのように、過去作品へのオマージュのあまり、切り貼り作家として認知され、突き抜ければよいのですが、駆け出し脚本家(批評家としては中堅でも)中途半端にそういった作品の切り貼りシーンを挿入するのは卑怯だと思います。
その作品を観た人が、なんとなく、あの映画のあのシーンの影響をうけてるの「カモ」と思うのがよいさじ加減だと思うのです。
まして、作品の評判の悪さを見越して、あらかじめ「自分は」こういった意図で脚本を書いた、と言い出すのは、すくなくとも「ものを作る」人の態度ではないでしょう。
まあ、ひとの作品でメシをくう評論家としてはぴったりの態度、なのかもしれませんが。
そういった、(自分だけが勝手に思っているものを含めて)良い過去作品を、自作品に引用する理由は二つあると思います。
ひとつは、オリジナルが最高のシーン・演出だから、ぜひ再利用して、同じ感動を自分の作品で味わってほしい、「ん?オリジナリティ?んなもん、面白ければインだよー。だってこれはいいシーンなんだから」という気持から使ってしまった、
もう一つは、自分の作品に自信がないために、名作の焼き直しを使い。「え、これってあの作品のあのシーンを使ってるんだよ、だから、その良さをわからないヤツがおかしいんだ」と、作品の良さを正当化するために使う。
と、自分で書いていて、そんなバカモノがいるはずがないと気づいて書くのをやめました。
じゃあ、これを基(ベース)に脚本書きました、って、どういう思考経路で口にするんだろう?
わからないなぁ。
ちなみに、町田氏と仲の良いライムスター宇多丸氏がどう評価しているかは、ココでまとめられてます。
わたしの文章などより、映画の演出、音響、演技などについて、細かく指摘されていてよっぽど勉強になりますねぇ……映画駄作化の町田氏の責任追求はカラッキシですが。
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