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 この映画を最初に見かけたのは、今年始め、近くのショッピングモールに貼られたポスターにおいてでした。

 どことなく「時をかける少女」や「サマーウォーズ」に似た絵柄で、なおかつファンタジック・テイストな構成だったので、細田監督が今度もファンタジーものを作るのかねぇと、そのまま見過ごしていたのですが………

 結局、監督は「攻殻機動隊S.A.C.」「東のエデン」の神山健治だったのですね(そういえば、画的には「東のエデン」っぽいところもあります)。

 観おわってみれば、ヒロインの、モノに動じないところ、言葉をかえれば、ちょっとニブくバカっぽいところは、細田監督の「時をかける少女」に似ています(性格は、自分のことしか見えていない「サマーウォーズ」のヒロインよりは遥かにマシに描かれていますが)。

 個人的に、ソレ系(ガンバレ女ノ子バンザイヒロイン系、つまり意味不明にヒロインがモテて持ち上げられる作品群 ex:ハンガーゲームシリーズ、トゥモローランド、ジュピター、サマーウォーズおよび現在の若者向け邦画の多くの「ダメなオンナの子とイケメン男子」物語全般)の映画は苦手なので、もとより観にいくつもりはなかったのですが、映画を観てきた友人が「自動運転技術をからめた、分かる人にはわかる作品」とメールしてきたので、自主的に「LA LA LAND」と二本立てにして観てきました……


 どうやら、わたしは「わからない人」に分類される人類だったようです。

 もちろん、物語前半に舞台となる、まるでミスタァ・オノミチ:大林監督が描く尾道のように、緻密に美しく描かれる岡山県倉敷市の景色と空気は魅力的ですし、ヒロインココネ(心羽?)のまったりと優しい岡山弁も好ましいものです。

 予告にも使われる「お尻、さわったらいけんよ」は、この言葉を言わせたいがために、神山監督がひるね姫を作ったのでは!と思わせるほど魅力的です。

 ココネと寡黙な父モモタローとの関係も良いし、反応が0.5テンポほどずれてナナメ上?なヒロインの性格も嫌いではありません。

 まあ、瀬戸大橋を含む倉敷の描写は、聖地巡礼を狙ってご当地とタイアップした、あざとい手法のようにも思えますが。

 しかし、内容全般は…………

 他の人の感想はあえて読んでいませんが、おそらくは「神山さんどうしたの」「カントク御乱心!」といったものが多いのではないでしょうか?

 おかしな点は、数多くありますが、一番の問題は、夢と現実のリンケージがおかしい点にあるように思います。

 ココネのみる夢はあれでよいでしょう。

 もともと、若き日の父モモタローが、現実をおとぎばなしに投影して適当に語る寝物語からインスパイアされた夢なのですから。
 お姫様の話、といわれて、ココネが頭の中に、自分の姿を投影した子供の姫を創造するのもわかります(それが、われわれ観客を騙す仕掛けにもなる)。
 しかし、モモタローとしては、大企業の社長令嬢であるイクミしか、姫と呼ぶに値しないと考えるはずです(イマドキの親なら、意味不明に自分の娘を姫扱いしそうですが)。

 夢の設定はあれでよいとは思いますが、さすがに 「タブレット」で「送信」ボタンを押すだけで、モノに自立行動のソースコードが与えられ動きだすというのは、LINE世代に迎合した(モモタローが幼い娘にレベルを合わせたからだとしても)安っぽい設定に思えますね。

 ただ、尺の問題もあるでしょうが、説明不足が多いので観ていてつらい。

 小説を何かの賞に投稿して最終選考に残ると、そこでプロの書き手から、ためつすがめつながめられ、いろいろと突っ込まれるわけですが、その際に、一番攻められるのは「人間が描けてない」(あんたらはどうなのよ!といいたくなる作家は多いのですが)で、それについで多いのが、「この作者は、自分が分かっていることを、読者みんなが知っていると勘違いしている」というものです。

 プロ登竜門の選考会と、出来上がった監督による作品を比べるのもナンですが、今回の神山氏も同様の間違いを犯しているように思います。

 あるいは、「あえてそうした」と作り手はいうかもしれませんが、説明不足のまま話を終わらせ、欠けた部分はご想像ください、と、視聴者に丸投げにするのは製作者の敗北であると個人的には考えます。
 もちろん、物語を「うまく」説明不足に終わらせることができれば、「雑巾を絞って大海を生じさせる」コアなファンが、製作者の想像を超えた名作に受け取ってくれることも、ままありますが。

 一応、huluで放送されたらしいスピンオフ(というより本編補完)短編「エンシェンと魔法のタブレット」も借りて観ましたが、理解はすすみませんでした。

 本来なら、さらに小説版も読み、神山監督のインタビューも読むべきなのでしょうが、わたしは、作品はその背景や付録でなく「本編」で語られるべきだと思うので、それはやめました。というより、そのあたりまで手を伸ばす元気がもう残っていなかったのです。


 結局、「ココロネ」とはなんだったのか、「エンシェンと魔法のタブレット」内で、エンシェン(イクネ?)は、「ココロネがなんだか分かった!」と叫んでいましたが。

 自動運転技術ソフト開発の是非をめぐって、技術屋の父と対立して下請け企業に左遷され、そこで派遣社員として働いていた元ヤン(キー)のモモタローと出会った、カーネギーメロン大学出の大企業社長令嬢の才媛が、彼とともに逆境に負けず「全自動運転技術」に挑む「負けない心」=「心根(ココロネ)」なのでしょうか?

 まさか二人の間に生まれた娘=ココネ=ココロネじゃないでしょうねぇ。

 分かりやすい理解としては、ココロネ=プログラム・コードで、それがあれば、ただのキカイが自律マシンとなって性能アップされる、ということでよいのでしょう。


 後に、イクネは試験中の事故で命を落とすらしいのですが、それを示す描写は映画ではなされていませんね。


 劇中で語られる、技術屋がソフト屋にアタマを下げるようになったら云々の話は、現代の、ハードとそれを制御するソフトがせめぎ合うあらゆる企業における大きなテーマであると思います。

 本来、キカイの「手足と目、つまりカラダ」であるハードはソフトの「アタマ=思考力」の悪さを補い、制御ソフトはセンサの至らなさ、駆動部分の硬直さ(あるいは物理法則の頑迷さ)を補完するのが理想なのでしょうが、旋盤にかじりつき油にまみれながら長い時間をかけて発達させたハード分野と、それこそスポーツカーに乗って一気にハードに追いつき、追い越そうとしているデスクワーク出身のソフト分野との間に、軋轢が生じるのは仕方がないことで、それを、物語の中核にすえる考えは間違っていないと思います。

 しかし、映画の原動力となるマクガフィンが、十年ほど前に作られたプログラム・コードで、それの入ったタブレットというのはいかがなものでしょうか。

 さらに、敵役のワタナベの性格、立ち位置、目的もよくわからない。

 下請けに左遷し、結果的に娘を死なせてしまったことへの贖罪の気持ちから、一時は封殺した自動運転技術を東京オリンピックに合わせて実現しようとしつつも、失敗を繰り返す社長に取り入るために、はるか昔の(ソフトの世界では)時代遅れのプログラム・コードが、いまさら必要なのでしょうか(その後、モモタロウたちが、改良を加えていたとしても)?
 それに、オリンピック開催まで、あと数日しかないのに、ハードに合わせてコードを適応させられるの?


 上で、夢と現実のリンケージがおかしい、と書きましたが、わたしは、(なんらかの病気らしく?)すぐに眠くなるヒロインが、寝るたびに「同じ」エンシェン姫の夢を見て、目覚めるたびに「都合よく」現実が進んでいることに我慢ならない違和感を覚えるのです。

 個人的には、荒木飛呂彦氏がその著書「〜の漫画術」で書いているように、きっちりと性格づけをした主人公を「絶体絶命の危機に直面させ」て、自分も読者のひとりになったような気持ちで、「それをどうやって、ギリギリに切り抜け」させるかをワクワクしながら描くのが、こういったアニメ・マンガ(小説はそれほど単純ではないと思いますが)のキモだと思っています。

 夢の中だけでなく、現実までが、都合よく進みすぎると物語から魅力が消えてしまいますから。


 サブタイトルにある「知らないワタシの物語」をそのまま受け取るなら、ひるね姫は、母について多くを語らない父が、幼い頃話してくれた「モノガタリ」の中に、その全てが語られていて、高3の夏に起こった事件をきっかけにして、母と父に関する真実が蘇る、という話になるはずです。

 夢から覚めたときの「不自然な現実との地続き感」を無くし、夢を現実の問題打開に利用するのなら他にやり方もあったでしょう。

 たとえば、すごく安易ですが、現在も役に立つパスワードが、今はすっかり忘れていた、幼い頃に父が話してくれた物語のなかに隠されていて、眠るたびに再現される物語を通じて色々思い出し、現実の世界でそれを使って危機を切り抜ける、というのなら、目新しさはなくても理解はできます。

 神山監督は、いったいどこから「ひるね姫」というテーマを思いついたのでしょう?
 まさか、エンディングテーマに選んだ「デイ・ドリーム・ビリーバー」からインスパイアされて「ひるね」を思いつき、2020年開催の東京オリンピックまでに全自動運転を実現する、と断言した政府の後押しで頑張る企業の姿を「ガイアの夜明け」で見て安易に作り上げたのではないでしょうねぇ。

 それに、寓話である「ラピュタ」や「カリオストロ」あたりにでてくるような容姿の敵役ワタナベを適当に配して………

 寓話!寓話かぁ。

 現実も夢もなく、すべてが寓話。

 たしかに、そう考えれば、敵の間抜けさ、リアリティのなさも納得がいきます。

  あるいは、ハードでタフな「漢(オトコ)」路線を突っ走っていた、「北斗の拳」「花の慶次」(そして小さい字で「サイバーブルー」)の漫画家、原哲夫氏が、森の戦士「ボノロン」に走ったように(現在はプロデュースですが)、生臭い人間模様に嫌気がさして、なおかつ、攻殻機動隊の電脳世界における(ウイザード級ハッカーの)万能性に酔ってしまった神山カントクが、その世界観で寓話を作ってしまったのか?

 夢=電脳世界として。


 余談ですが、ココネの母イクミが開発していた(後にモモタローが発展させ、近所の老人の軽四に搭載していた)全自動運転システムは、googleなどが開発している、大雑把なマップ+GPSを用い、カメラで状況判断させる方式のようですね。
 これだと、ソースコード(プログラム)は難しくなりますが、必要なマップが単純ですむので、現在のマップデータで実現可能です。
 映画でみる限り、モモタローの自動運転装置は、屋根に設置したカメラと運転席のタブレット(もちろん隠れた部分のステアリング関係アクチュエータも)で自動運転を実現しているようで、超音波センサなどの安全装置はついていないようです。
 つまり、米国で死亡事故の起こったテスラ車のように、死角から突然割り込まれたら、かなり危険な車ということですが、そこは「天才的なプログラミング技術」で、視覚情報のみで安全性を確保しているということなのでしょう。
 それに反して、地方において産学協同で開発が進みつつある「超精細マップとGPSを組み合わせる方式」だと、開発は比較的容易なようですが、そのために随時更新される精細地図(工事区間の有無まで)が必要になるので、即時実現は不可能ですし、大規模企業のバックアップが不可欠になります。とても、いち零細修理工場が扱えるシロモノではないので、これはモモタロー・イクミシステム、いやエンシェン・システムには使われていないでしょう。




 以上、いろいろ文句を書きましたが、物語全体の雰囲気は美しくやさしく、穏やか(破壊描写はありますが)で、悪人らしい悪人の出ない素敵な映画です。

 現実世界で、自動走行装置搭載のサイドカー(!)に、「自宅へ行け」と指示して帰らせると、マシンとイクミの自宅である?、シジマ自動車本社前にやってきて、結果的にヒロインを救うというエピソードは良かったですしね。

 物語中で、ココミの母イクミがエンシェン(ancient=古代)と名乗り、ヒロインの苗字が(森)川であるのは、ご愛嬌でしょう。

 「エンシェンと魔法のタブレット」のラストで、ピーチとエンシェンが向かう彼の故郷の名が、ヒルマウンテン=丘山=岡山であるのもほほえましい。

 神山監督の次回作で、この作品がリップルなのか、ターニング・ポイントなのかがわかるかもしれません。

p.s.
 オニ=男武?=鬼についてはどうなのか、と個人的に質問を受けたので、追記しておきます。

 鬼は夢の世界、ハートランドに現れる怪物で、その世界におけるワタナベの(モモタロウが適当に作った)化身である異端審問官ベワン(ナベワタ→ベワタナ→ベワン?)に生み出されたプログラム(ココロネ)を搭載した巨大ロボットです。
 王が作った、人の制御により動くロボット「エンジン・ヘッド」より、動きが滑らかで速いために、誰にも止めることができない。

 だから、オニを倒すためには、エンシェンがプログラム・コードをエンジン・ヘッドに「送信」して、ソフトウェア+ハードウェアを併せ持つ自律ロボットにしなければならないのです。

 ベワンがオニを作った!

 つまり、現実世界では、ワタナベ自身がプログラマであることの証明ですね。
 ノベライズ作品あたりでは、プログラマとして、イクミにどうしても勝てないワタナベの姿が描かれているのかもしれません。

p.p.s.
 もうひとつ付け加えておけば、わたし自身、ハード派かソフト派かと問われれば、ソフト側に近いのは間違いないのですが、もし、ある「動作」を、センサから読み取った数値を元にサーボモータを精密に動かすことでソフト的に実現するのと、試行錯誤の末に職人技で削りだした複数のカムの組み合わせでハード的に実現するのと、どちらを美しく思うかあるいは好きか、と聞かれたら、迷わず研磨されたカムを選びます。
 どうもコードによる制御は胡散臭くていけない。


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