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 LA LA LAND、しばらく前に観てきたのですが、このたび、イオンシネマで、リクエスト上映されることになったため、備忘のために、感想を書くことにします。


 映画が始まって驚きました。

 いきなり高速道で渋滞する車から、人々が飛び出して、歌い踊り出したからです。

 それで思い出しました。

 この映画は、ミュージカルであったのだと。

 何とも迂闊なことです。

 まあ、それほど、わたしのこの映画に対する認識はいい加減だったということですが。

 もっとも、肝心なことは忘れていたものの、前評判が高いのは知っていましたし、アカデミー賞の多くの部門にノミネートされ、監督賞などはとったものの、作品賞を社会的弱者である貧困層でゲイの黒人の恋を描いた「MOON LIGHT」に持って行かれ、その結果、なんとなく日本での公開が下火になったのも感じていました。

 だいたいの評価も聞いていて、それは大別すると二種類に分かれていました。


 まず、ポスターに書かれているように、「観るもの全てが恋に落ちる」という好意的な意見。
 確かに、オープニングの高速道路乱舞のシーンから使われる、印象的で美しいフレーズを核として、それをメロディアスにし、飾り付け、あるいはポップにアレンジしながら、様々なシーンで繰り返し使われる音楽は魅力的で、登場した瞬間から「スタンダード・ミュージック」になる可能性を充分に感じました。
 こんな風に感じたのは、いま、まさに実写化が日本公開されようとしている「Beauty and The beast」以来です。
 往年のTACOの曲のような、古い中に新しい息吹を感じさせるアレンジ、歌、そしてバート・バカラック作曲、オリビア・ハッセー主演の「LOST HORIZON」を思わせるコーラス(主演女優の歌がそれほどうまくない点も似ていますね)。
 CITY OF STARは、どことなく「レイトン博士シリーズ」のBGMにも似ている!

 観終わってすぐに、輸入盤のサウンドトラックとピアノスコアを買ってしまいました。

 舞台ならいざ知らず、「今更」感のある、ミュージカル『映画』という手法をとって、見事にそれを昇華させています。

 わたしが子どもの頃は、すでに劇場公開においては、ミュージカル映画全盛期は過ぎていたものの、時期的にちょうどテレビの洋画劇場(今と違って、昼も夜も深夜も放送がありました)で、放送するには手頃であったためか、多くの名作ミュージカルをテレビで観ることができました。

 代表的なミュージカルといえば、「バンドワゴン」と「パリのアメリカ人」。
 ミュージカル・スターといえば、フレッド・アステアとジーン・ケリーの名が即座に上がります。
 個人的には、筋肉の鎧をまとった驚異的な身体能力で技をみせるケリーよりも、日本舞踊に通じる「指先に神経を行き届かせ」た、身体の動きより、ほんの少しだけ手足の動きが遅れる、いや、より正確にいえば、かっちりとしっかりとした手足の動きをみせるケリーより、胸、腕、手首、指先と、しなやかに流れるように連動して動くアステアの踊りの方が好きでした。

 そして、今回は、そのアステアを彷彿させる(もちろんそこまではいきませんが)振り付けが行われいて、それも好ましくおもいました。
 ソーシァルダンスを基調とした、主人公ふたりの踊りも魅力的です。

 冬のロサンゼルス(L.A.)、役者志望の女の子ミア(エマ・ストーン)と「本当の」ジャズを聞かせる店を持ちたいジャズピアニストの男セバスチャン(ライアン・ゴズリング)の出会いから物語は始まり……

 そして巡る季節。恋と挑戦と挫折の日々。

 劇中で使われる原色を基調とした色合いと、主人公たちの掛け合いによる歌を聴きながら、まるで「シェルブールの雨傘」のようだ、と思っていると、まさに、シェルブール〜を彷彿させる切ないエンディング。



 それに対して、この映画の否定的な人々の、主人公たちに人間的な魅力が乏しく、さらに冬春秋と時間が過ぎてもふたりに成長の跡が見えず、まったく感情移入できない、という意見も多く聞かれます。

 たしかに、その指摘は間違っていません。

 ミアは役者をめざし、オーディションにすべてをかけて、昼間の「食べるための仕事」であるウエイトレスは、なおざりで、まったくやる気ゼロのくせに、気分だけはスター気取りで乗っている車は「ハリウッド意識高い系」のプリウス、夜ともなれば、友だちと連れだって、パーム・ツリーが両側に生い茂るハリウッドの通りを闊歩して、乱痴気騒ぎのパーティー三昧。
 それが実際のスターの卵の現実なのかもしれませんが、絶対スターになりたいと、あがきつつも、オーディションのために、死にものぐるいで練習するシーンは、ただの一度も描かれない。


 そうそう、今、気がつきました。
 この映画の美点のひとつは、カップルを、ともにスター志望としなかった点ですね。

 主人公のセバスチャン=セブは、オールド・スタイルのジャズピアニスト志望で、その夢は、古き良きジャズの演奏を楽しめる店を持つこと。
 だから、乗る車も、燃費の悪いオールド・スタイルのオープンカー。 

 ミアが、家族との電話で、恋人である自分のフトコロ具合(夢を追いかけるあまりの貧乏さ)を苦しそうに釈明するのを聞いて、カネにはなるが、自分の志向とは違うバンドに参加するも、ステージの上でさえ笑顔も乏しくやる気のなさ全開のセバスチャン。

 大人の目からみれば、「人生ナメとんのか!」と言いたくなる気持ちもわかります。

 さらに、待ち合わせた映画館に遅れてやってきたヒロインが、「理由なき反抗」が上映されるスクリーンに背を向けて、皆の迷惑を顧みずに、恋人をさがすのもヒドイ。

 自己中心的、利己主義、他人は気にならない、正気を疑う部分はある。


 が!

 そう見えてしまう人は、この映画の本質を間違えているのではないでしょうか。
 あるいは、青春をずっと前に通り過ぎてしまった大人であるためか。

 映画の中で、重要な場所として使われるグリフィス天文台は、「理由なき反抗」の舞台でもありますし、この映画は、先に書いた、映画館の傍若無人なシーンでも使われています。
 グリフィスは、ロサンゼルスに行くと、車をレントして必ず行くほど好きな場所ですが、HOLLYWOODLANDのサインボードが見える場所には、「理由なき反抗」を記念してジェームス・ディーンの像が置かれています。

 J.ディーン主演の「理由なき反抗」といえば、つまりは、無軌道な青春映画の代表作です。
 主人公ふたりの会話にも、幾度も「理由なき〜」の映画は出ていて、それが、LA LA LANDの重要なキーワードであるのは明らかです。

 つまり、この映画は、ミュージカルで、ボーイ・ミーツ・ガールもので、成功物語ですが、なによりも第一義に「青春映画」なのです。

 ふたりの外見が老けているから、気がつきにくいのですが……。

 もちろん、50年代青春もののように、身体のうちに燃える訳のわからないエネルギーの暴走によって、人を傷つけ、自分も傷つく……ようなことはありません。なにせ、現代の若者の青春ですから。もっとソフィスティケートされた、ちょっと大人の狡い二人です。50年代青春映画のように、犯罪を起こしかねない暴走はしません。

 とはいえ、青春は青春。

 そう思って、先の二人の行動を見返すと合点がいきます。

 自分に対する根拠のない、闇雲で大きな自信(それがなければ、無謀なことにチャレンジはしない)と、それと同じくらい巨大な不安、やりたいことは思いっきりやるが、やりたくないことには、1エルグもエネルギーは使いたくない。また、食べるためにする仕事でも、それなりにうまくこなすべきだという、そんな如才なさに気づかないか、気づいていても、それを軽蔑して無視する。

 人を好きになると相手だけしかいない。
 周りの景色など目に入らない。だから、行動も傍若無人になる。映画館でスクリーンの前に立って愛する人を捜すのなど当たり前。

 ね、これが青春ですよ。

 ただし、かなり幼い青春だなぁ。

 上で書いたように、二人とも老けて見えるから、つい大人扱いしてしまいますが、精神的には(監督の内部では?)、まだ子どもといってよいほど若いのです。

 セバスチャンも、冒頭の姉との会話(椅子の伏線はいいね)で、育ちのよいボンボンであることが示されるし、ヒロインも、田舎町の図書館の前の家で育ち、大学を中退して……というところで、貧困層でないことは分かる。

 彼はジャズLOVEで、それほど恋愛経験があるようにも見えないし、ヒロインも、ちゃっかり金持ちの恋人は掴んでいるけれど、それほど手練手管があるようにも見えない(振っちゃってるし)。

 個人的には、二人とも「味のある声」ではあるが、さほど歌がうまいとは思えず、特に評価が高い後半のオーディションで(敬愛する映画評ブログ「三角締めでつかまえて」のさんいうところの)「頭のおかしい叔母についてヒロインが歌うシーン」は、それほど必要なシーンには思えませんでした。

 もうひとつ、主人公たちに感情移入できない理由、それは、ほどんど努力をしないで、成功を手に入れてしまう、というストーリーにあるのかもしれません。

 要は、闇雲な自信を持った、でも奇跡的に、ともに実力も持っていた二人が偶然出会って恋に落ち、必然的に成功して別れたという映画なわけですよ。

 こうして、ストーリーだけ書くと、ものすごくペラペラな話に見えますね。


 その理由は、デミアン・チャゼル監督が、まだ若く(三十過ぎですね)、ハーバード出身のエリートで、早くに成功したため(前作「セッション」で)に、苦労しても報われないつらさを肌身で感じていない、それと同時に、彼がゴダールに代表されるヌーベルバーグのファンであるために、自分勝手な若者を描くことに抵抗を感じていないからかもしれません(そもそも、この映画の第一脚本を書いたのは2010年だそうですから、二十代半ばの作品ということですね)。

 つまり、この作品は、「気狂いピエロ」「勝手にしやがれ」のように、理由不在の(つまり理由なき)反抗、世間全般に対する「いらだち」を出会う者すべて(それが愛する恋人であっても)に、ぶつけ、最後には自らも破壊してしまうフランス流「青春映画」のファンである作者が、アメリカ式青春映画の雄であるJ.ディーン主演の「理由なき反抗」物語の中で引き合いにだし、ロサンゼルス、グリフィス天文台を舞台に作った「青春ミュージカル映画」なのです。


 先に書いたように、そういった薄っぺらな話になりかねない本作品が、土俵際の徳俵で踏みとどまっているのは、ひとえに音楽の良さに依っていますが、さらに、その評価を超えて、名作の域まで進んだのは(アカデミーの最多部門候補です)、皆さんが(良くも悪くも)目を見張る、ラスト20分の「青春プレイバック」映像のおかげでしょう。


 冬、春、夏、秋、とすすんで、いきなり五年後の冬。

 成功したふたりが、もう恋人に戻れないシチュエーションで再会し、セバスチャンが、ステージで、思い出のピアノを爪弾きだしたとたんに時間が逆行し、出会いのシーンから、すばらしい音楽に乗せて、我々に青春を再体験させてくれます。

 思い出は常に甘く美しい、その苦みさえも。
 だから当然、そのプレイバックは適度に美化されて、優しく我々の胸を打ちます。

 やがて、そのプレイバックは、本来あるべきだったかもしれない、しかし現実には起こらなかったストーリーへ向きを変え、二人で彼女の出世作の撮影地であるパリに行き、「パリのアメリカ人」のような恋物語を紡いだのち結ばれて、男の子が生まれ(現実に、ミアと他の男との間に生まれているのが女の子なのは、監督のセンスでしょう)、現在にいたるまで二人で暮らしている様子を写し……現実に戻ります。

 万感の想いを胸に、店を出ようと夫と二人席を立つミアに、セバスチャンが笑顔で頷くのを観て、わたしたちは、青春が終わって大人になったふたりの関係を知るのです。


 つまり、映画「LA LA LAND」は、「夢のように美しい映画」ではなく、若く、何も持たなかったけれど、才能を秘めていたふたりの男女の「夢を見ていた青春時代」の映画なのです。

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