銀幕のこと(映画感想)

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 映画を軸に、いろいろ書きたいと思います。
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 今日、やっと、LA LA LANDの二回目を観てきました。
 けっこう混んでいましたね。

 今回、二度目を観るまでは、一回観ただけで観おとしたまま書いたところがあるのではないかと心配していたのですが、どうやら、大きな観おとしはなかったようです。

 あらためて観て、この映画は、少しソフト化されてはいるものの、劇中に出てくる「理由なき反抗」や「勝手にしやがれ」などの若者の世間に対するあがきと成功物語を、ミュージカル仕立てで描いた作品であるとの思いを強くしました。

 二度目でも、やはりラスト20分は衝撃的で、チープなセットの前で、今やセーヌ沿いにはまずいないであろうセーラー服の水兵さんが踊っていても、まったく気になりません。

 ただひとつ気になったのは、初回でも少しひっかかってはいたのですが、セバスチャンが、最後のオーディションで(まだ受かったかどうかもわからない)、ミアに向かって、「君は合格する、そしてパリに行くんだ。ただ、成功するために没頭しなくちゃならない」と、もう二人の別れを示唆する台詞を「ハヤバヤ」ということです。

 若さとは暴走です。いや、少なくとも、この映画の二人の青春はかなり暴走気味なものです。今ふうにソフトにはなっていますが。
 「LA LA LAND」は、冬、春、夏、秋、そして五年目の冬という構成になっていますが、わたしが一番好きなのは、「夏」です。
 メインテーマのポップなアレンジをバックに、二人が暴走するのが愉快なのですね。
 ミアを迎えに来たセバスチャンは近所迷惑を顧みずに大音量の車のクラクションをならしますし、気に食わない店のサインプレートをたたき割ります。

 そういった、お互いのことしか、いや、より正確にいえば相手を愛する自分しか見えない若者が、「君は成功するだろうが、そのために僕は君を失うだろう。でも、それが君のためなんだよ」
 などと言うとは思えないのです。

 それじゃあ、いまハヤリの
「僕は君の踏み台になる、でも見返りはもとめない、それが僕の愛だ!君にはそれだけの値打ちがある!」
という、一部視聴者に向けた人気取りドラマと同じやり口で、それまでの映画の流れとしてはどうもしっくりこないのです。

 もちろん、生活と将来のために、好みではない仕事を始めたセバスチャンは、夢を見続けているミアより先に「オトナ」になってしまったから、彼女より、未来が見通せて、そんな台詞がでてきたのだ、と解釈することは可能です。

 その場合でも、それは、表情やしぐさで示せばよいことで、あからさまに、師匠より強くなった弟子に対して贈る
「お前は未来に飛び立つのだ、わしを超えて、どんどん先へ行け」
的な言葉を彼に言わせることには、かなり違和感を感じました。

 物語としては、「いつまでも一緒だよ。君しか愛さない」と言わせておいて、しかし季節が移ればふたりは………とした方が余韻が残るし、自然な感じがしたでしょう。

 しかし、「LA LA LAND」が、若いふたりの「夢をみていた」時代を美しく切り取って描く不朽のミュージカル映画であることは間違いありません。

 まだ、劇場でやっているところもあるはずです。

 未見の方は、ぜひ劇場でごらんになってください。
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 この映画を最初に見かけたのは、今年始め、近くのショッピングモールに貼られたポスターにおいてでした。

 どことなく「時をかける少女」や「サマーウォーズ」に似た絵柄で、なおかつファンタジック・テイストな構成だったので、細田監督が今度もファンタジーものを作るのかねぇと、そのまま見過ごしていたのですが………

 結局、監督は「攻殻機動隊S.A.C.」「東のエデン」の神山健治だったのですね(そういえば、画的には「東のエデン」っぽいところもあります)。

 観おわってみれば、ヒロインの、モノに動じないところ、言葉をかえれば、ちょっとニブくバカっぽいところは、細田監督の「時をかける少女」に似ています(性格は、自分のことしか見えていない「サマーウォーズ」のヒロインよりは遥かにマシに描かれていますが)。

 個人的に、ソレ系(ガンバレ女ノ子バンザイヒロイン系、つまり意味不明にヒロインがモテて持ち上げられる作品群 ex:ハンガーゲームシリーズ、トゥモローランド、ジュピター、サマーウォーズおよび現在の若者向け邦画の多くの「ダメなオンナの子とイケメン男子」物語全般)の映画は苦手なので、もとより観にいくつもりはなかったのですが、映画を観てきた友人が「自動運転技術をからめた、分かる人にはわかる作品」とメールしてきたので、自主的に「LA LA LAND」と二本立てにして観てきました……


 どうやら、わたしは「わからない人」に分類される人類だったようです。

 もちろん、物語前半に舞台となる、まるでミスタァ・オノミチ:大林監督が描く尾道のように、緻密に美しく描かれる岡山県倉敷市の景色と空気は魅力的ですし、ヒロインココネ(心羽?)のまったりと優しい岡山弁も好ましいものです。

 予告にも使われる「お尻、さわったらいけんよ」は、この言葉を言わせたいがために、神山監督がひるね姫を作ったのでは!と思わせるほど魅力的です。

 ココネと寡黙な父モモタローとの関係も良いし、反応が0.5テンポほどずれてナナメ上?なヒロインの性格も嫌いではありません。

 まあ、瀬戸大橋を含む倉敷の描写は、聖地巡礼を狙ってご当地とタイアップした、あざとい手法のようにも思えますが。

 しかし、内容全般は…………

 他の人の感想はあえて読んでいませんが、おそらくは「神山さんどうしたの」「カントク御乱心!」といったものが多いのではないでしょうか?

 おかしな点は、数多くありますが、一番の問題は、夢と現実のリンケージがおかしい点にあるように思います。

 ココネのみる夢はあれでよいでしょう。

 もともと、若き日の父モモタローが、現実をおとぎばなしに投影して適当に語る寝物語からインスパイアされた夢なのですから。
 お姫様の話、といわれて、ココネが頭の中に、自分の姿を投影した子供の姫を創造するのもわかります(それが、われわれ観客を騙す仕掛けにもなる)。
 しかし、モモタローとしては、大企業の社長令嬢であるイクミしか、姫と呼ぶに値しないと考えるはずです(イマドキの親なら、意味不明に自分の娘を姫扱いしそうですが)。

 夢の設定はあれでよいとは思いますが、さすがに 「タブレット」で「送信」ボタンを押すだけで、モノに自立行動のソースコードが与えられ動きだすというのは、LINE世代に迎合した(モモタローが幼い娘にレベルを合わせたからだとしても)安っぽい設定に思えますね。

 ただ、尺の問題もあるでしょうが、説明不足が多いので観ていてつらい。

 小説を何かの賞に投稿して最終選考に残ると、そこでプロの書き手から、ためつすがめつながめられ、いろいろと突っ込まれるわけですが、その際に、一番攻められるのは「人間が描けてない」(あんたらはどうなのよ!といいたくなる作家は多いのですが)で、それについで多いのが、「この作者は、自分が分かっていることを、読者みんなが知っていると勘違いしている」というものです。

 プロ登竜門の選考会と、出来上がった監督による作品を比べるのもナンですが、今回の神山氏も同様の間違いを犯しているように思います。

 あるいは、「あえてそうした」と作り手はいうかもしれませんが、説明不足のまま話を終わらせ、欠けた部分はご想像ください、と、視聴者に丸投げにするのは製作者の敗北であると個人的には考えます。
 もちろん、物語を「うまく」説明不足に終わらせることができれば、「雑巾を絞って大海を生じさせる」コアなファンが、製作者の想像を超えた名作に受け取ってくれることも、ままありますが。

 一応、huluで放送されたらしいスピンオフ(というより本編補完)短編「エンシェンと魔法のタブレット」も借りて観ましたが、理解はすすみませんでした。

 本来なら、さらに小説版も読み、神山監督のインタビューも読むべきなのでしょうが、わたしは、作品はその背景や付録でなく「本編」で語られるべきだと思うので、それはやめました。というより、そのあたりまで手を伸ばす元気がもう残っていなかったのです。


 結局、「ココロネ」とはなんだったのか、「エンシェンと魔法のタブレット」内で、エンシェン(イクネ?)は、「ココロネがなんだか分かった!」と叫んでいましたが。

 自動運転技術ソフト開発の是非をめぐって、技術屋の父と対立して下請け企業に左遷され、そこで派遣社員として働いていた元ヤン(キー)のモモタローと出会った、カーネギーメロン大学出の大企業社長令嬢の才媛が、彼とともに逆境に負けず「全自動運転技術」に挑む「負けない心」=「心根(ココロネ)」なのでしょうか?

 まさか二人の間に生まれた娘=ココネ=ココロネじゃないでしょうねぇ。

 分かりやすい理解としては、ココロネ=プログラム・コードで、それがあれば、ただのキカイが自律マシンとなって性能アップされる、ということでよいのでしょう。


 後に、イクネは試験中の事故で命を落とすらしいのですが、それを示す描写は映画ではなされていませんね。


 劇中で語られる、技術屋がソフト屋にアタマを下げるようになったら云々の話は、現代の、ハードとそれを制御するソフトがせめぎ合うあらゆる企業における大きなテーマであると思います。

 本来、キカイの「手足と目、つまりカラダ」であるハードはソフトの「アタマ=思考力」の悪さを補い、制御ソフトはセンサの至らなさ、駆動部分の硬直さ(あるいは物理法則の頑迷さ)を補完するのが理想なのでしょうが、旋盤にかじりつき油にまみれながら長い時間をかけて発達させたハード分野と、それこそスポーツカーに乗って一気にハードに追いつき、追い越そうとしているデスクワーク出身のソフト分野との間に、軋轢が生じるのは仕方がないことで、それを、物語の中核にすえる考えは間違っていないと思います。

 しかし、映画の原動力となるマクガフィンが、十年ほど前に作られたプログラム・コードで、それの入ったタブレットというのはいかがなものでしょうか。

 さらに、敵役のワタナベの性格、立ち位置、目的もよくわからない。

 下請けに左遷し、結果的に娘を死なせてしまったことへの贖罪の気持ちから、一時は封殺した自動運転技術を東京オリンピックに合わせて実現しようとしつつも、失敗を繰り返す社長に取り入るために、はるか昔の(ソフトの世界では)時代遅れのプログラム・コードが、いまさら必要なのでしょうか(その後、モモタロウたちが、改良を加えていたとしても)?
 それに、オリンピック開催まで、あと数日しかないのに、ハードに合わせてコードを適応させられるの?


 上で、夢と現実のリンケージがおかしい、と書きましたが、わたしは、(なんらかの病気らしく?)すぐに眠くなるヒロインが、寝るたびに「同じ」エンシェン姫の夢を見て、目覚めるたびに「都合よく」現実が進んでいることに我慢ならない違和感を覚えるのです。

 個人的には、荒木飛呂彦氏がその著書「〜の漫画術」で書いているように、きっちりと性格づけをした主人公を「絶体絶命の危機に直面させ」て、自分も読者のひとりになったような気持ちで、「それをどうやって、ギリギリに切り抜け」させるかをワクワクしながら描くのが、こういったアニメ・マンガ(小説はそれほど単純ではないと思いますが)のキモだと思っています。

 夢の中だけでなく、現実までが、都合よく進みすぎると物語から魅力が消えてしまいますから。


 サブタイトルにある「知らないワタシの物語」をそのまま受け取るなら、ひるね姫は、母について多くを語らない父が、幼い頃話してくれた「モノガタリ」の中に、その全てが語られていて、高3の夏に起こった事件をきっかけにして、母と父に関する真実が蘇る、という話になるはずです。

 夢から覚めたときの「不自然な現実との地続き感」を無くし、夢を現実の問題打開に利用するのなら他にやり方もあったでしょう。

 たとえば、すごく安易ですが、現在も役に立つパスワードが、今はすっかり忘れていた、幼い頃に父が話してくれた物語のなかに隠されていて、眠るたびに再現される物語を通じて色々思い出し、現実の世界でそれを使って危機を切り抜ける、というのなら、目新しさはなくても理解はできます。

 神山監督は、いったいどこから「ひるね姫」というテーマを思いついたのでしょう?
 まさか、エンディングテーマに選んだ「デイ・ドリーム・ビリーバー」からインスパイアされて「ひるね」を思いつき、2020年開催の東京オリンピックまでに全自動運転を実現する、と断言した政府の後押しで頑張る企業の姿を「ガイアの夜明け」で見て安易に作り上げたのではないでしょうねぇ。

 それに、寓話である「ラピュタ」や「カリオストロ」あたりにでてくるような容姿の敵役ワタナベを適当に配して………

 寓話!寓話かぁ。

 現実も夢もなく、すべてが寓話。

 たしかに、そう考えれば、敵の間抜けさ、リアリティのなさも納得がいきます。

  あるいは、ハードでタフな「漢(オトコ)」路線を突っ走っていた、「北斗の拳」「花の慶次」(そして小さい字で「サイバーブルー」)の漫画家、原哲夫氏が、森の戦士「ボノロン」に走ったように(現在はプロデュースですが)、生臭い人間模様に嫌気がさして、なおかつ、攻殻機動隊の電脳世界における(ウイザード級ハッカーの)万能性に酔ってしまった神山カントクが、その世界観で寓話を作ってしまったのか?

 夢=電脳世界として。


 余談ですが、ココネの母イクミが開発していた(後にモモタローが発展させ、近所の老人の軽四に搭載していた)全自動運転システムは、googleなどが開発している、大雑把なマップ+GPSを用い、カメラで状況判断させる方式のようですね。
 これだと、ソースコード(プログラム)は難しくなりますが、必要なマップが単純ですむので、現在のマップデータで実現可能です。
 映画でみる限り、モモタローの自動運転装置は、屋根に設置したカメラと運転席のタブレット(もちろん隠れた部分のステアリング関係アクチュエータも)で自動運転を実現しているようで、超音波センサなどの安全装置はついていないようです。
 つまり、米国で死亡事故の起こったテスラ車のように、死角から突然割り込まれたら、かなり危険な車ということですが、そこは「天才的なプログラミング技術」で、視覚情報のみで安全性を確保しているということなのでしょう。
 それに反して、地方において産学協同で開発が進みつつある「超精細マップとGPSを組み合わせる方式」だと、開発は比較的容易なようですが、そのために随時更新される精細地図(工事区間の有無まで)が必要になるので、即時実現は不可能ですし、大規模企業のバックアップが不可欠になります。とても、いち零細修理工場が扱えるシロモノではないので、これはモモタロー・イクミシステム、いやエンシェン・システムには使われていないでしょう。




 以上、いろいろ文句を書きましたが、物語全体の雰囲気は美しくやさしく、穏やか(破壊描写はありますが)で、悪人らしい悪人の出ない素敵な映画です。

 現実世界で、自動走行装置搭載のサイドカー(!)に、「自宅へ行け」と指示して帰らせると、マシンとイクミの自宅である?、シジマ自動車本社前にやってきて、結果的にヒロインを救うというエピソードは良かったですしね。

 物語中で、ココミの母イクミがエンシェン(ancient=古代)と名乗り、ヒロインの苗字が(森)川であるのは、ご愛嬌でしょう。

 「エンシェンと魔法のタブレット」のラストで、ピーチとエンシェンが向かう彼の故郷の名が、ヒルマウンテン=丘山=岡山であるのもほほえましい。

 神山監督の次回作で、この作品がリップルなのか、ターニング・ポイントなのかがわかるかもしれません。

p.s.
 オニ=男武?=鬼についてはどうなのか、と個人的に質問を受けたので、追記しておきます。

 鬼は夢の世界、ハートランドに現れる怪物で、その世界におけるワタナベの(モモタロウが適当に作った)化身である異端審問官ベワン(ナベワタ→ベワタナ→ベワン?)に生み出されたプログラム(ココロネ)を搭載した巨大ロボットです。
 王が作った、人の制御により動くロボット「エンジン・ヘッド」より、動きが滑らかで速いために、誰にも止めることができない。

 だから、オニを倒すためには、エンシェンがプログラム・コードをエンジン・ヘッドに「送信」して、ソフトウェア+ハードウェアを併せ持つ自律ロボットにしなければならないのです。

 ベワンがオニを作った!

 つまり、現実世界では、ワタナベ自身がプログラマであることの証明ですね。
 ノベライズ作品あたりでは、プログラマとして、イクミにどうしても勝てないワタナベの姿が描かれているのかもしれません。

p.p.s.
 もうひとつ付け加えておけば、わたし自身、ハード派かソフト派かと問われれば、ソフト側に近いのは間違いないのですが、もし、ある「動作」を、センサから読み取った数値を元にサーボモータを精密に動かすことでソフト的に実現するのと、試行錯誤の末に職人技で削りだした複数のカムの組み合わせでハード的に実現するのと、どちらを美しく思うかあるいは好きか、と聞かれたら、迷わず研磨されたカムを選びます。
 どうもコードによる制御は胡散臭くていけない。

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 この映画は、珍しく試写会に当たったので、公開前に、一度観ることができました。

 先日、二回目を観てきたので、思いついたことを書いておきます。

 キングコングといえば、本格的な白黒モンスター作品である1933年公開の映画、日本で作られた「キングコング対ゴジラ」(これは、今回の映画とも多少関係があります)や「キングコングの逆襲」といった和製亜流モノ、そして個人的には一番親しんだ「ウッホーウホウホウッホッホー」の歌でおなじみの1967年アニメ版キングコング(藤田淑子さんの声が素敵)や、実写では1976年版ジェシカ・ラング・コング、そして歴代コング映画では、一番好きな2005年版ナオミ・ワッツ・コングなど、数多くの作品が作られていますが、この「キングコング 髑髏島の巨神」(以下、髑髏コングと表記)が、これら前作品と違う点は大きく2点あります。

 まず、髑髏コングが大きいということ。
 ナオミ・コングが18.8mなのに対して、髑髏コングは31.6mと倍近い体格になっています。
 実際、ヘリコプターと比べても(そもそも髑髏コングはヘリコプターの高度まで手が届くのがすごい)、人間と比べてもかなり大きい。

 この変更は、もちろん、画面上で迫力を出すためなのでしようが、やはり2020年公開予定のGodzilla VS. Kongで激突予定の、あの渡辺謙出演の「アルマジロゴジラ」と大きさを合わすための巨大化でもあります。

 つまり、このコングは、2014年版Godzillaと同じ、キングギドラやモスラと世界観を共有し、人類と怪獣との戦いを描く「モンスターバース」シリーズ映画の第二作になるのです。

 これで、アイアンマンやキャプテン・アメリカ等、マーベルコミックの実写映画化である「マーベル・シネマティック・ユニバース」、バットマンやスーパーマン等の「DCエクステンディッド・ユニバース」と並んで、(過去の資産で食っていく)三大ユニバース・シリーズがそろい踏みしたことになりますね。


 「髑髏コング」は、広告チラシにあるように、日本怪獣映画、エヴァンゲリヲン、AKIRA、ジブリ作品、メタルギアソリッドなどの一連のゲームなど、ジャパン・カルチャーに対するオマージュに溢れています。

 しかし、観終わって、とりわけ感じるのは、コングの後ろ姿、背中に浮かんでくる「漢」の文字でした。

 彼は、髑髏島の住人(ヒト、水牛?を含め、地底から現れる「コノ世ナラザルモノ」以外のすべての生き物)の守護神です。
 もちろん、彼も猿型のイキモノなので、肉も食らえば果物も食べるでしょうから、折衝もするでしょうが無駄な殺しはしない。

 後に、自分を襲った兵士さえ、巨大タコに襲われる前に倒して守ってくれるシーンがありますが、その時も「これは、お前を守ってやったんじゃないぜ」とばかり、動くタコの足をスルメよろしく口にくわえ、「さっき怪我したから、タンパク質をとらねーとなー」とばかり、巨大タコを引きずりながら山間に消えていきます。

 まさに髑髏島の巨神。


 だから、突然やってきて、地中に爆薬を打ち込んで大音声をとどろかす(おそらく彼の見たことのないイキモノ)ヘリコプターを敵と見なすのは当然で、ローターで手を怪我し、彼にとってはネズミのフンほどもない銃弾をチクチク打ち込まれながらも、壊滅させるのは仕方ない。

 そもそも、それは、土中の形状捜査という名目で(その意味も多少あるのでしょうが)、騒ぎを起こせば、「怪物」がやってくるのを知っていた、ジョン・グッドマン演じるウィアリアム・ランダの計略なのですから。

 彼は、数十年間、怪物との遭遇だけを待っていたのです。


 時が経ち、ランダの計略を知り、髑髏島では人間が一番弱い生物であると悟った異邦人たち(兵士含ム)が、島の状況を知るにつれて「コングの行動やむなし」と納得するのはなかなかうまい作りです。

 その考えに、司令官としての資質にすぐれ、沈着冷静で、責任感のある、サミュエル・L・ジャクソン演じるパッカード将軍が文句をつけるのもいい。

 本来、良いソルジャーであるはずのパッカードは、泥沼で、永遠に勝利を得ることのない「大儀なき」戦い(本人とUSAは決してそうとは認めないでしょうが)ベトナム戦争の敗戦、撤退を受けて、ひどく傷ついたまま、最後にひと花咲かせるために髑髏島に乗り込んできたのです。

 それが、連れてきたヘリコプターと兵士を、ほぼ壊滅された。

 ベトナム戦争は、第一次、第二次大戦と勝利してきた米国が、初めて負けた対外戦争(彼らは認めないでしょうが)で、しかも負けた相手が、ナチスドイツや日本のように、明確な軍事組織ではなく、民兵主体のゲリラ部隊(異論のある方もおられるでしょうが)、そして米ソ冷戦構造の変化や反戦イデオロギーといった、純粋戦力のぶつかり合いで勝敗を決めたのではなく、うやむやに負けと決めつけられた理不尽な戦いだったと、パッカードは思っているのです。映画の冒頭で、そういった表現が垣間見えますね。

 しかし、最後の戦いで、彼は、明確で、実体のある、倒すべき「意義」のある「敵」とであってしまった。

「死んだ部下の仇をうつ」

 何度かパッカードが口にする言葉ですが、それは嘘です。
 彼は、最後に戦うに足る敵に出会った僥倖を無駄にしたくなかっただけなのです。
 そういった兵士のルナティックな眼の光をS.L.ジャクソンはうまく表現しています。

 もう1点、これまでのコング映画と違う点が、ヒロインの扱いです。

 同じ類人系とはいえ、亜種とさえ呼べないほど大きさも見かけも違うヒトの女性を、コングが好きになるという、これまでの荒唐無稽な設定を、今回のコングはとっていないのです。

 正確にいうと、これはごく個人的な意見ですが、前回のナオミ・コングも、女性としてのヒロインに「恋をした」のではないと思っています。

 あれは、コングのすみかに連れて行かれた、コメディエンヌでもあるヒロインが、殺されないために、舞台で演じていたコミカルな動きを見せる。
 コングは、可愛いおもちゃ、いや綺麗なペットとして、その小さきヒロインを愛してしまったのです。

 ヒトも、愛するペットのために、車道に飛び出たり、命を危険にさらすことがあります。それは、決して男女の愛に劣るモノではないのです。

 話が横道にそれました。

 今回の女性カメラマン、ブリー・ラーソン演じるメイソン・ウイーバーも、コングから「オンナ」として愛されている設定ではないようです。これはいい。




 さて、長々と書き連ねてきましたが、今回の髑髏コングの最大の美点は、第二次世界大戦中に、零戦と戦って墜落し、以来数十年を島民と暮らしてきた、ジョン・C・ライリー演じるハンク・マーロウにあります。


 彼こそは、かつて希望に溢れ、今のようにひがみっぽくなく、おおらかで、陽気だったアメリカ人を体現しているのです。

 わたしが子どもだったころのアメリカ人像は、例外はあるにせよ、彼のような男でした。

 決してハンサムではないしヒーロー然ともしていない(ハゲてるし、腹も出てる)。
 でも、危機にあってジョークをいい、見知らぬ者と物怖じせずに友だちになり(かつて撃墜しあったゼロファイター・パイロットとさえ)、勇気を持って怪物に立ち向かい、お天道さまに恥ずかしいことはしない、他人の理不尽な言動にもキレずに落ち着いて話しかける。

 おそらく、彼のキャラクターこそが、この映画で監督の描きたかったものなのでしょう。
 エンディングの、あせたフイルムによって写される「兵士の帰還」のシーンがそれを表しています。


 以上、わたしにとって、髑髏コングは好きな映画のひとつになりましたが、二点だけ、実質一点だけ気に入らない点があります。

 それは、敵を、実在したイキモノにしなかったことです。
 少なくとも、古代生物そのものでなくとも、過去の生き物につながる生命樹から伸びる進化系生物にすべきでした。
 ナオミ・コングでは、敵はティラノ・サウルスが進化、巨大化したバスタトサウルス・レックスでした。ヒロインを捜す途中で、じめついた谷間に落下したクルーが遭遇する気味の悪い生き物は、線虫が巨大化したカルニティクスです。

 しかるに、今回の敵は、誰もみたことがない、地底からわいてくる嫌らしい生き物、足のないスカル・クローラー(命名:ハンク・マーロウ)です。
 実際は、1933年版に出てくる由緒正しい敵らしいのですが、これを、コング最大の敵にしたのが納得できない。

 2005年ナオミ・コングとの差別化もあったのでしょうが、こいつがハバをきかせすぎているために、敵にリアリティを感じられないのです。
 世にアマタいる恐竜ファンの機嫌をそこなわないように、あえて架空の生物を持ち出したのでは?と勘ぐってしまいたくなります。
 ナオミ・コングの髑髏島生物は魅力的でした。

 ともあれ、髑髏コングは魅力的なモンスターです。
 寡黙で、男気がある。
 彼が、背中をみせて静かに去っていく時、わたしの目には、筋肉の盛り上がった背中に大きく「漢」の文字が浮き上がって見えました。

 あえて二つ名を与えれば、かれは「大漢猿=オトコング」なのですよ。


 ちなみに、エンドロールが始まってすぐに立ってしまったお客さんは、最後の最後の最後に示される、組織モナークによる怪獣世界、モンスターバースの紹介を知らないまま家路についてしまうので、今後、この映画を観る方はご注意を。

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 もともとは、漢大猿(おとこおおざる=キングコング 髑髏島の巨神)、ひるね姫について先に書くつもりだったのですが、友人に感想を聞かれたために、「Ghost in the Shell」(以下G.I.S)を繰り上げて書くことにしました。


 まず、彼の一番の心配ゴトについて回答しておきましょう。

 すべての登場人物が英語を話す中、ただひとり日本語で押し通すビートたけしの会話は、案の定「よく聞き取れません」でした。

 なまじ日本語だからというので、それまで字幕がついていたのに、たけしの言葉だけ字幕がないのです(ついでだから、たけしの台詞にも字幕をつけてくれたらよいのに)。

 とはいえ、言語は多少不明瞭でも、原作の、軍諜報部出身のインテリジェンスさとはまるで違うワイルドなたけしの荒巻は、ルバート・サンダース監督がたけしに惚れ込んでいるだけに、それなりに魅力的でした。「その男凶暴につき」的な雰囲気とでもいいましょうか。

 「オオカミを狩るのにウサギをよこすな」

ですよ

 たけしだけが日本語なのも、彼が「俺は英語が苦手だから日本語で」というから、「スポンサーの反対を押し切って」監督が日本語にしたということのようです。


 さて、映画本編ですが……

 始まって、最初の印象は、「スカーレット・ヨハンソン、太くね?」でした。

 アベンジャーズのブラック・ウィドウの頃に比べて、ずんぐりむっくりな感じがする。

 ありていに言えば、肌色の着ぐるみを着て演技をしているので、その分太って見える、ということだと思うのですが………(あるいは、ヨハンソンがトレーニングを怠ったか)。

 まあ、ドリフターズの「八時だよ〜」でキャンディーズが相撲取りの着ぐるみをきて、コントしていたようなものですかね。

 擬体として上から吊られつつメンテナンスを受けている時は、肩も胴回りもすっきりとしているので、これは、おそらく膨張色の着ぐるみのせいなのでしょう。


 映画本体の構成としては、押井、神山版のストーリーを合成して辻褄(つじつま)を合わせ、日本人の草薙素子が、なぜ外国人のヨハンソン顔なのかを強引に納得させるために、この手の作品にありがちな「記憶操作を行っていた」とし、それがヒロインの「謎」ということになっています。


 つまり、(たぶん)生粋の日本人草薙素子が、格差の広がる社会の下、サイボーグ化推進の大手企業ハンカ・ロボティクスに反抗する活動?で恋人クゼヒデオとともに命を落とし、ともにサイボーグ企業によって全身擬体化されるも、手術が成功し記憶を消された彼女は、日本の公安9課に配属され、クゼヒデオ(これも外人顔になっている)は、野に下って反ハンカ社の人々の意志を束ねるハブ電脳となり、やがて二人は敵として相まみえることになる、というわけです。


 そもそも、押井版G.I.Sは草薙素子が人形遣いに出会って電脳世界に去っていく世界で、神山版Stand Alone Complex(以下S.A.C.)→Solid State Societyは、素子が人形遣いには出会わず9課に残るというパラレルワールドという設定なので、S.A.C.の第二弾2ndGIGで登場する、草薙素子の幼なじみにして初恋の男、ともに幼くして全身擬体になったクゼヒデオが、G.I.Sと地続きに出てくることには、多少の違和感を感じますが、すべての攻殻機動隊シリーズに対する、サンダース監督の並々ならぬ、あふれんばかりの愛を感じて、これはこれで吉!と思わず断言してしまいます。

 タイトルにあるように、たとえゴチャゴチャになっても、好きなものは全部入れるのだ、という気持ちが却ってうれしいのです。

 なぜならば………
 「どんな形ででも、この作品を世界の人に知って欲しい!」
 ルバート・サンダース監督の言葉です。

 実際、映像は太めのヨハンソンを覗けば頑張っています。

 冒頭に登場するゲイシャロボットの出来は、うるさ型のファンでも、そう文句はないのではないでしょうか。
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 バトーもまるでアニメから出てきたように似ています。
 最初に彼が出てきた時は、「普通の眼」だったので、がっかりしたのですが、後に怪我を経て、レンジャー・アイになってからは、すっかり感情移入ですよ。
 さすがに、「モットッコー」は、ありませんが。

 トグサは……まあいいでしょう。


 なにより、ラスト近く、人形遣い(この映画ではハブ電脳であるクゼヒデオ)と会話するために、絶望的に戦力差のあるスパイダータンク(と英語では言っていましたね)と戦い、ハッチの上に飛び乗って、全身の筋繊維をブチブチと切りながら蓋をこじ開けるシーンは、生きている間に実写でこれを観ることができるとは……ナンマンダブナンマンダブ……と手を合わせるような出来ばえでした。

 さすがに、ヨハンソン=素子を気づかせるために、桃井かおりを出演させる必要はなかったような気がしますが……(ちなみに彼女は英語を話している!) 


 都市の画的なイメージは、攻殻機動隊というより、どちらかといえば、イノセンスに出てくるロシア付近のイメージ(あるいはブレードランナー的な)で、3DCGで作られた、巨大な立体看板がビルの間に林立する映像は、ちょっと独特な感じで、初めは違和感を感じますが、しばらくすると慣れます(広告塔の一つに、さりげなくロゴもそのままに「イノセンス」の文字があるのもご愛敬でしょう)。

 と、だいたいにおいて、肯定的な意見を書きましたが、この映画は、Ghost in the Shellと呼ぶには、致命的な欠点があります。

 それは二時間の尺で描くためには仕方がないとは思うのですが、攻殻機動隊を「攻殻機動隊」となさしめている最大の要素のひとつ、電脳世界のバトルがほとんど描かれていない点です。

 攻殻機動隊(公安9課)といえば、サイボーグ擬体で物理的にハデに戦うハードアクションと、ネットにもぐり、防壁を使いサブプログラムを忍ばせて戦う電脳戦がその戦闘の二本柱です。


 しかし、今回の映画は、擬体化された世界を描くだけで精一杯で、電脳バトルには、ほぼノータッチです。


 もっとも、個人的には、あまりに電脳世界の発達に重きを置くようになった原作(アニメ)は、ネット経由で幻視を見せたり、人を遠隔操作したり、脳を焼いて殺したり、人の思考をまとめたり、と、ネットの操作力が魔法じみて、なんでもありで節度がなくなりそうな気がしていたので、この映画の設定、これはこれで、少し寂しくはありますが「アリ」のような気がしています。


 ともかく、実写版「Ghost in the Shell」、大あわてで書いたので、誤字や記憶の間違いなどあるかもしれませんが、以上が、この映画に関する、とりあえずのわたしの感想です。

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 LA LA LAND、しばらく前に観てきたのですが、このたび、イオンシネマで、リクエスト上映されることになったため、備忘のために、感想を書くことにします。


 映画が始まって驚きました。

 いきなり高速道で渋滞する車から、人々が飛び出して、歌い踊り出したからです。

 それで思い出しました。

 この映画は、ミュージカルであったのだと。

 何とも迂闊なことです。

 まあ、それほど、わたしのこの映画に対する認識はいい加減だったということですが。

 もっとも、肝心なことは忘れていたものの、前評判が高いのは知っていましたし、アカデミー賞の多くの部門にノミネートされ、監督賞などはとったものの、作品賞を社会的弱者である貧困層でゲイの黒人の恋を描いた「MOON LIGHT」に持って行かれ、その結果、なんとなく日本での公開が下火になったのも感じていました。

 だいたいの評価も聞いていて、それは大別すると二種類に分かれていました。


 まず、ポスターに書かれているように、「観るもの全てが恋に落ちる」という好意的な意見。
 確かに、オープニングの高速道路乱舞のシーンから使われる、印象的で美しいフレーズを核として、それをメロディアスにし、飾り付け、あるいはポップにアレンジしながら、様々なシーンで繰り返し使われる音楽は魅力的で、登場した瞬間から「スタンダード・ミュージック」になる可能性を充分に感じました。
 こんな風に感じたのは、いま、まさに実写化が日本公開されようとしている「Beauty and The beast」以来です。
 往年のTACOの曲のような、古い中に新しい息吹を感じさせるアレンジ、歌、そしてバート・バカラック作曲、オリビア・ハッセー主演の「LOST HORIZON」を思わせるコーラス(主演女優の歌がそれほどうまくない点も似ていますね)。
 CITY OF STARは、どことなく「レイトン博士シリーズ」のBGMにも似ている!

 観終わってすぐに、輸入盤のサウンドトラックとピアノスコアを買ってしまいました。

 舞台ならいざ知らず、「今更」感のある、ミュージカル『映画』という手法をとって、見事にそれを昇華させています。

 わたしが子どもの頃は、すでに劇場公開においては、ミュージカル映画全盛期は過ぎていたものの、時期的にちょうどテレビの洋画劇場(今と違って、昼も夜も深夜も放送がありました)で、放送するには手頃であったためか、多くの名作ミュージカルをテレビで観ることができました。

 代表的なミュージカルといえば、「バンドワゴン」と「パリのアメリカ人」。
 ミュージカル・スターといえば、フレッド・アステアとジーン・ケリーの名が即座に上がります。
 個人的には、筋肉の鎧をまとった驚異的な身体能力で技をみせるケリーよりも、日本舞踊に通じる「指先に神経を行き届かせ」た、身体の動きより、ほんの少しだけ手足の動きが遅れる、いや、より正確にいえば、かっちりとしっかりとした手足の動きをみせるケリーより、胸、腕、手首、指先と、しなやかに流れるように連動して動くアステアの踊りの方が好きでした。

 そして、今回は、そのアステアを彷彿させる(もちろんそこまではいきませんが)振り付けが行われいて、それも好ましくおもいました。
 ソーシァルダンスを基調とした、主人公ふたりの踊りも魅力的です。

 冬のロサンゼルス(L.A.)、役者志望の女の子ミア(エマ・ストーン)と「本当の」ジャズを聞かせる店を持ちたいジャズピアニストの男セバスチャン(ライアン・ゴズリング)の出会いから物語は始まり……

 そして巡る季節。恋と挑戦と挫折の日々。

 劇中で使われる原色を基調とした色合いと、主人公たちの掛け合いによる歌を聴きながら、まるで「シェルブールの雨傘」のようだ、と思っていると、まさに、シェルブール〜を彷彿させる切ないエンディング。



 それに対して、この映画の否定的な人々の、主人公たちに人間的な魅力が乏しく、さらに冬春秋と時間が過ぎてもふたりに成長の跡が見えず、まったく感情移入できない、という意見も多く聞かれます。

 たしかに、その指摘は間違っていません。

 ミアは役者をめざし、オーディションにすべてをかけて、昼間の「食べるための仕事」であるウエイトレスは、なおざりで、まったくやる気ゼロのくせに、気分だけはスター気取りで乗っている車は「ハリウッド意識高い系」のプリウス、夜ともなれば、友だちと連れだって、パーム・ツリーが両側に生い茂るハリウッドの通りを闊歩して、乱痴気騒ぎのパーティー三昧。
 それが実際のスターの卵の現実なのかもしれませんが、絶対スターになりたいと、あがきつつも、オーディションのために、死にものぐるいで練習するシーンは、ただの一度も描かれない。


 そうそう、今、気がつきました。
 この映画の美点のひとつは、カップルを、ともにスター志望としなかった点ですね。

 主人公のセバスチャン=セブは、オールド・スタイルのジャズピアニスト志望で、その夢は、古き良きジャズの演奏を楽しめる店を持つこと。
 だから、乗る車も、燃費の悪いオールド・スタイルのオープンカー。 

 ミアが、家族との電話で、恋人である自分のフトコロ具合(夢を追いかけるあまりの貧乏さ)を苦しそうに釈明するのを聞いて、カネにはなるが、自分の志向とは違うバンドに参加するも、ステージの上でさえ笑顔も乏しくやる気のなさ全開のセバスチャン。

 大人の目からみれば、「人生ナメとんのか!」と言いたくなる気持ちもわかります。

 さらに、待ち合わせた映画館に遅れてやってきたヒロインが、「理由なき反抗」が上映されるスクリーンに背を向けて、皆の迷惑を顧みずに、恋人をさがすのもヒドイ。

 自己中心的、利己主義、他人は気にならない、正気を疑う部分はある。


 が!

 そう見えてしまう人は、この映画の本質を間違えているのではないでしょうか。
 あるいは、青春をずっと前に通り過ぎてしまった大人であるためか。

 映画の中で、重要な場所として使われるグリフィス天文台は、「理由なき反抗」の舞台でもありますし、この映画は、先に書いた、映画館の傍若無人なシーンでも使われています。
 グリフィスは、ロサンゼルスに行くと、車をレントして必ず行くほど好きな場所ですが、HOLLYWOODLANDのサインボードが見える場所には、「理由なき反抗」を記念してジェームス・ディーンの像が置かれています。

 J.ディーン主演の「理由なき反抗」といえば、つまりは、無軌道な青春映画の代表作です。
 主人公ふたりの会話にも、幾度も「理由なき〜」の映画は出ていて、それが、LA LA LANDの重要なキーワードであるのは明らかです。

 つまり、この映画は、ミュージカルで、ボーイ・ミーツ・ガールもので、成功物語ですが、なによりも第一義に「青春映画」なのです。

 ふたりの外見が老けているから、気がつきにくいのですが……。

 もちろん、50年代青春もののように、身体のうちに燃える訳のわからないエネルギーの暴走によって、人を傷つけ、自分も傷つく……ようなことはありません。なにせ、現代の若者の青春ですから。もっとソフィスティケートされた、ちょっと大人の狡い二人です。50年代青春映画のように、犯罪を起こしかねない暴走はしません。

 とはいえ、青春は青春。

 そう思って、先の二人の行動を見返すと合点がいきます。

 自分に対する根拠のない、闇雲で大きな自信(それがなければ、無謀なことにチャレンジはしない)と、それと同じくらい巨大な不安、やりたいことは思いっきりやるが、やりたくないことには、1エルグもエネルギーは使いたくない。また、食べるためにする仕事でも、それなりにうまくこなすべきだという、そんな如才なさに気づかないか、気づいていても、それを軽蔑して無視する。

 人を好きになると相手だけしかいない。
 周りの景色など目に入らない。だから、行動も傍若無人になる。映画館でスクリーンの前に立って愛する人を捜すのなど当たり前。

 ね、これが青春ですよ。

 ただし、かなり幼い青春だなぁ。

 上で書いたように、二人とも老けて見えるから、つい大人扱いしてしまいますが、精神的には(監督の内部では?)、まだ子どもといってよいほど若いのです。

 セバスチャンも、冒頭の姉との会話(椅子の伏線はいいね)で、育ちのよいボンボンであることが示されるし、ヒロインも、田舎町の図書館の前の家で育ち、大学を中退して……というところで、貧困層でないことは分かる。

 彼はジャズLOVEで、それほど恋愛経験があるようにも見えないし、ヒロインも、ちゃっかり金持ちの恋人は掴んでいるけれど、それほど手練手管があるようにも見えない(振っちゃってるし)。

 個人的には、二人とも「味のある声」ではあるが、さほど歌がうまいとは思えず、特に評価が高い後半のオーディションで(敬愛する映画評ブログ「三角締めでつかまえて」のさんいうところの)「頭のおかしい叔母についてヒロインが歌うシーン」は、それほど必要なシーンには思えませんでした。

 もうひとつ、主人公たちに感情移入できない理由、それは、ほどんど努力をしないで、成功を手に入れてしまう、というストーリーにあるのかもしれません。

 要は、闇雲な自信を持った、でも奇跡的に、ともに実力も持っていた二人が偶然出会って恋に落ち、必然的に成功して別れたという映画なわけですよ。

 こうして、ストーリーだけ書くと、ものすごくペラペラな話に見えますね。


 その理由は、デミアン・チャゼル監督が、まだ若く(三十過ぎですね)、ハーバード出身のエリートで、早くに成功したため(前作「セッション」で)に、苦労しても報われないつらさを肌身で感じていない、それと同時に、彼がゴダールに代表されるヌーベルバーグのファンであるために、自分勝手な若者を描くことに抵抗を感じていないからかもしれません(そもそも、この映画の第一脚本を書いたのは2010年だそうですから、二十代半ばの作品ということですね)。

 つまり、この作品は、「気狂いピエロ」「勝手にしやがれ」のように、理由不在の(つまり理由なき)反抗、世間全般に対する「いらだち」を出会う者すべて(それが愛する恋人であっても)に、ぶつけ、最後には自らも破壊してしまうフランス流「青春映画」のファンである作者が、アメリカ式青春映画の雄であるJ.ディーン主演の「理由なき反抗」物語の中で引き合いにだし、ロサンゼルス、グリフィス天文台を舞台に作った「青春ミュージカル映画」なのです。


 先に書いたように、そういった薄っぺらな話になりかねない本作品が、土俵際の徳俵で踏みとどまっているのは、ひとえに音楽の良さに依っていますが、さらに、その評価を超えて、名作の域まで進んだのは(アカデミーの最多部門候補です)、皆さんが(良くも悪くも)目を見張る、ラスト20分の「青春プレイバック」映像のおかげでしょう。


 冬、春、夏、秋、とすすんで、いきなり五年後の冬。

 成功したふたりが、もう恋人に戻れないシチュエーションで再会し、セバスチャンが、ステージで、思い出のピアノを爪弾きだしたとたんに時間が逆行し、出会いのシーンから、すばらしい音楽に乗せて、我々に青春を再体験させてくれます。

 思い出は常に甘く美しい、その苦みさえも。
 だから当然、そのプレイバックは適度に美化されて、優しく我々の胸を打ちます。

 やがて、そのプレイバックは、本来あるべきだったかもしれない、しかし現実には起こらなかったストーリーへ向きを変え、二人で彼女の出世作の撮影地であるパリに行き、「パリのアメリカ人」のような恋物語を紡いだのち結ばれて、男の子が生まれ(現実に、ミアと他の男との間に生まれているのが女の子なのは、監督のセンスでしょう)、現在にいたるまで二人で暮らしている様子を写し……現実に戻ります。

 万感の想いを胸に、店を出ようと夫と二人席を立つミアに、セバスチャンが笑顔で頷くのを観て、わたしたちは、青春が終わって大人になったふたりの関係を知るのです。


 つまり、映画「LA LA LAND」は、「夢のように美しい映画」ではなく、若く、何も持たなかったけれど、才能を秘めていたふたりの男女の「夢を見ていた青春時代」の映画なのです。

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