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まずは、
世界中のムスリムの皆様
イード ムバラク!
今日から4日間は、イード・アル=アドハー(عيد الأضحى 、Eid ul-Adha、です。
断食月のラマダーンに続くシャッワール月の1日から3日まで
イスラム世界全土において盛大に祝われます。
イスラムの二大祭には、
断食と巡礼の行事に合わせ,
イード・アルフィトル(断食明けの祭り)と
犠牲祭では,メッカ巡礼者が10日の日に動物犠牲をほふるのに呼応して,
全イスラム世界で羊がほふられ,食卓にのせられます。
【巡礼】…日没とともにムズダリファに急ぎ,そこで小石を拾ってミナーに行き,その東西と中央に三つあるジャムラという塔の一つに投げつける(タジュミールtajmr?)。その後イード・アルアドハー‘?d al‐aḍḥ?(犠牲祭,火祭)の犠牲をほふり,イフラームを解く(10日)。その後イード・アルアドハーの続く13日までの3日間は自由行動の日で,ある者はミナーにとどまって残り二つのジャムラに小石を投げつけ,またはムハンマドの聖跡を訪れ,メッカを去ることも許されるが,メッカを去る前に必ずタワーフとサーイを行わなければならない)
今年はちょうど週末にぶつかってちょっとラッキーな気分です。
皆様楽しい祝日をお過ごしください〜
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イスラーム
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ラマダン豆知識: サダカ(慈悲行為) ザカートは、経済的に余裕のあるムスリム男女に課せられた一つの義務ですが、サダカはそのほかのあらゆる慈善行為をさします。 最も良い施し方は、それを受け取る人の人格を傷つけないように、匿名で施し、また 提供者の動機が心のおごりや称賛を受けたいという欲望を伴わないものであることです。 慈善行為の受給者。 まず自分の家族、扶養者からはじめて、親族、社会の貧者、困窮者、寡婦、孤児、債 務者、旅行者、アッラーの道の布教者、最後には救助を必要とする一般人へと拡大してゆくものです。 より広い見地からして、慈善の意義は、援助を必要としている者に対して与 える金や物だけに限られるものではないことが強調されています。 それは、他人を助けるためにする行為や言葉のすべてを含んでいるので、例えば、時間、精力、利害関係、同情心、援助の気持ち、親切な言葉、礼拝などです。 隣人が必要としていることに良く気を使い、子供の欲しがっているものをかなえてやり、商人を見舞い、知人の 葬儀に参列し、近親者に死なれた者を慰めること、これらのすべてが慈善の行為なのです。 預言者言行録にも、慈善の意味がいかに広いものであるかを強調した多くの言葉があ ります。 「他人に向って微笑みかけ、人の嫌がることはしないようにし、希望を失った者を励 まし、盲人の手を取って助け、路上の石や針や骨などの障害物をとり除き、自分の桶から友人の桶に水を入れてやったりすることはすべて慈善の行いの中に入るのである 。」また、「親切な行為はすべて慈善である。」この慈善行為を通しでわれわれが真のイスラーム友愛精神に徹する最善の努力を尽くし得るよう、至高の神アッラーの お導きを賜りますように アーミン |
コメント(4)
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久しぶりにイスラーム豆知識; イスラームの光はアラビア半島から生じ、イラク、イラン、アフガニスタン、インド亜大陸へと東方へ広がり、それからマレーシアそして中国やフィリピンなどの遠方まで広がりを見せた。長い時間をかけ広がり続け、世界の異なる地域へと到達したが、日本へは19世紀の終わりになるまで到達しなかった。
1868年から始まった明治時代として知られている日本のルネッサンスの時代から始めよう。
アジアにおいてたった2つの国、すなわちオスマーン帝国と日本が独立を謳歌していた。
両国は西洋諸国からの圧力を受けるようになると、両国間の良好な関係を確立することを決め、お互いの国を頻繁に訪問し合うことを始めた。
両国同士の訪問で最も重要な訪問は、1890年オスマーン・シャー司令長官率いる600人以上もの船夫と兵士を運んだエルトゥールル号に乗りやって来たアブデュルハミトⅡ世(1876〜1909年治世)による日本への使節団であった。
日本の天皇に謁見し、日本における任務を成功のうちに修めた後帰国の途に着いたが、船がまだ日本の領海内にあったとき、強烈な台風が船を転覆させた。スルターンの弟を含めた550名以上もの乗組員の命が奪われた。
強風は船体の両側を激しく揺さぶった。そして生存者は2隻の日本の船によってイスタンブールまで運ばれた。
この事故の殉教者たちは事故現場に埋葬され、事故の現場から遠く離れていない場所に博物館が建てられた日本人とトルコ人は、政権の断続的な変化にもかかわらず、今日に至るまで5年ごとに事後現場でこの事故の追悼を行っている。
故郷に帰る生存者を乗せた船には、トルコ人殉教者の家族のための寄付を立ち上げた野田寅次郎という若き日本人ジャーナリストが乗っていた。野田はイスタンブールに旅立ち、寄付金をトルコ当局に手渡した。
そしてアブデュルハミトⅡ世にも謁見した。アブデュルハミトⅡ世は野田に、イスタンブールに滞在し、オスマーン帝国の将校たちに日本語を教えることを依頼した。野田がイスタンブールに滞在していた時、野田にイスラームを紹介した英国のリバプール出身のイギリス人ムスリムのアブドッラー・ギロームに出会った。
トルコの当時の文献が示す通り、野田は長い議論の末、イスラームが真実であるという全面的な確信に至り、イスラームを受け入れ、アブドゥルハリームという名を選んだ。事実、アブドゥルハリーム野田は最初の日本人ムスリムと考えられるだろう。
この後すぐ、集めた寄付金をトルコにいる殉教者の家族のもとに届けるために、山田というもうひとりの日本人が1893年にイスタンブールを訪れた。
野田のイスラームへの改宗に引き続き、2人目の日本人がイスラームを受け入れた。山田はハリールもしくはアブドゥルハリールと改名した。山田は数年仕事をしながらイスタンブールに滞在し、故郷に戻った後死ぬまで、トルコとの友好な関係を保持し続けた。
イスラームを受け入れた3人目の日本人はアハマド有賀というクリスチャンの商人であった。有賀は1900年にインドのボンベイを訪問した。モスクの美しい光景は有賀を惹き付け、モスクの中に入っていきイスラームへの改宗を宣言した。この頃東京、横浜、神戸には数人のインド人ムスリム商人が住んでいた。彼らは日本で最初のムスリムコミュニティであると考えられている。
イスラミックセンター代表
Drサリーフ・マハディ・アルサマライ 日本のイスラーム歴史より引用
PS: 2010年の統計によりますと、日本在留外国人のムスリムは、約5万人、日本人(国内)ムスリムは、約1万人くらいではないかと言われているそうです。
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「ビスミッ・ラーヒッ・ラフマーニル・ラヒーム」とアッラーのみ名を唱えて食事を始めます。
この食事は、東の空が白みはじめる暁の時刻より、二十分前に終了しなければなりません。
つまり、日の出の時刻より、約一時間四十分前までに食べ終ること になります。この食事は、
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遅くなりましたが、
世界各国のムスリムの皆様、
EID MUBARAK !
今日は、ムスリムの
イード・アル=アドハー(犠牲祭)です。
犠牲祭については、ここ↓
お久しぶりです、
大変御無沙汰しております。
いつの間にか、
模様替えしているブログに、ちと戸惑っておりますが、
なんつっても、
10月、一こも記事書いてないぢゃないですかっ!!
それに、なんでアバターなくなっちゃったの、?
ハロウィンで仮装できないじゃん。。。
ムスリママ、
とりあえず、
元気です。 |







