ある時、ある人が預言者に尋ねて訊きました 『先ずどんな人、誰を尊敬し敬えば天国に行かれる様になりますか?』 預言者曰く 『まずあなたの母君を敬いなさい』 更に訊ねて曰く 『では二番目には誰を敬えば天国へ入れますか』 預言者曰く 『あたの母君をです』 また訊ねて曰く 『それでは三番目には誰ですか』 預言者曰く 『あなたの母君を敬いなさい』 そして訊ねて曰く 『それではその次には誰を敬うべきですか』 預言者曰く 『あなたの父君を敬いなさい』 ...これは、イスラム教の男尊女卑概念について出された質問に対して、地元UAE人の講演者が挙げた答えでした。 イスラムは、世界で初めて女性の教育の権利を唱えた教えであります。 イスラム教徒社会、特にアラブ人イスラム教徒社会の中では、母親の権威と地位は絶対的なもので、本来女性は尊重され、保護されるべき存在であるのがイスラムの教えなのだそうです。 ただ、イスラム教が地理的に拡大していく従って、様々な地域の土着の文化習慣と妥協、混同していく中で解釈と実践が本来の教えの本質から異なってきてしまった事実も確かにあるでしょう。 そこで... 例えば、度々話題にのぼる顔、頭髪を覆うスカーフ、ブルカ、ニカブ、ヒジャーブ、シェーラ... は、西洋社会では女性の表現の自由を抑圧する非文明的な習慣である、と強い反発をもたれています。 顔を隠す、覆う...と言う事はイスラム教の教えではなく、様々な地域からの外国人キャラバントレーダー達が行き交う、海と陸のシルクロードの宿場町であったり、奴隷貿易のルート上であった様な地域では、外来の旅人達や隊商商人、人足達から自分達の女性を守る必要が高かったのでしょう。 同じイスラム教圏でも、顔を覆うブルカが習慣化している地域は極限られていて、少数派です。 また、『女性の表現の自由』を問題にするならば、正直に本当の自由の意味を説くべきでもあります。 開けて広げて見せるが自由なら、閉じて隠して見せないのも自由である筈です。 見せる事だけが『自由』なのではなくて、自分で選べる事が自由と言うものである筈です。 選んで見せるのも自由なら、選んで隠すのも自由である筈です。 社会的な圧力と言うのなら 『お洒落をしないと恥ずかしい』『トレンド追っていないと恥ずかしい』 と感じる事も確かに社会的圧力があるから『恥ずかしい』と感じる訳ですから、そう言う社会が『見せる事が恥ずかしい』と感じる社会だけを非抑圧社会だと非難するのは何だか滑稽です。 日本にいて 『あの女は派手好きだ』『赤い口紅なんかして』『赤いマニキュアなんて』 ...などと思ったり感じたりする人がいるなら・・・ それと全く同じ論理と心理がはたらいて、頭髪を覆ったり、ブルカを着けたいと思う人達がいる社会があることを非難はできない筈なのであります。 見せる自由に、隠す自由... 何でもありのファッションなら、隠したって良い筈ではありませんか? 所詮、ファッションそのもの、マーケティングそのものこそが 『社会的圧力』なのでありますから...
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